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相模原事件を素材にした衝撃の問題作、映画『月』が公開!石井監督が語った思いとは

篠田博之月刊『創』編集長
映画『月』主演の宮沢りえさん。C:2023『月』製作委員会

『サンデー毎日』10月15・22日号の映画評のページで平辻哲也さんが「秋公開の邦画最大の衝撃作で問題作」と書いている。その石井裕也監督の映画『月』が10月13日、新宿・バルト9、渋谷・ユーロスペースほか全国公開される。相模原障害者殺傷事件を素材にしたものだ。

 原作は、辺見庸さんの小説『月』だが、映画は原作そのままでなく、石井監督のオリジナル作品と言ってよいもので、脚本も石井さんが書いている。

 もともとは映画『新聞記者』などで知られるスターサンズの河村光庸プロデューサーの企画で、相模原事件の植松聖死刑囚と数十回の面会を行い、その手記などを月刊『創』(つくる)で取り上げてきた(単行本『開けられたパンドラの箱』などに収録)私には企画の最初の段階で話があり、取材先などを紹介するなど協力してきた。あまりに重たくて深刻なテーマだけに、これまで次々とタブーに挑んできた河村さんがどう取り組むのか期待もしてきたが、河村さんは残念なことに昨年、突然他界された。

 河村さんが亡くなったことで配給などをめぐって紆余曲折もあったが、石井監督はその遺志を継いで映画を完成させたわけだ。宮沢りえ、オダギリジョー、磯村勇斗、二階堂ふみら豪華キャストも話題になっている。

映画『月』で「さとくん」を演じた磯村勇斗さん。C:2023『月』製作委員会
映画『月』で「さとくん」を演じた磯村勇斗さん。C:2023『月』製作委員会

 この映画については以前、ヤフーニュースに一度記事を書いている。私がどんなふうにこの映画に関わったかなどの経緯を書いたものだ。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/f44819eeb0d587be8e80405f09192cce415b4f2e

間もなく7・26というタイミングで発表された相模原障害者殺傷事件を素材にした宮沢りえ主演映画『月』

「生きる」ことの意味を問いかけた映画

 現実の事件を素材にしたと言っても映画はもちろんあくまでもフィクションだ。宮沢さん扮する主人公の女性作家が障害者施設にスタッフとして入り、そこで「重度障害者に生きている意味はあるのか」と唱える「さとくん」などと出会い、生きるということの意味を考えていく。

 主人公自身、胎内に新しい命が宿っており、障害者施設での体験と自身の命の問題が対比的に描かれ、人間にとって生きるとはどういうことなのかが追求されていく。

 映画の公式ホームページは下記だ。

https://www.tsuki-cinema.com/

 現実の事件を素材にしたとはいえ、石井監督のオリジナルな部分も多く、登場人物の設定など、ぜひ作品の意図を石井監督に伺いたいと思っていた。石井監督の作品は『川の底からこんにちは』や『舟を編む』をはじめこれまで数多く観ているし、『茜色に焼かれる』などこのところ社会的なテーマが多いと感じてきた。9月にインタビューが実現したので、それを以下紹介する。何よりもインタビューでわかったのは、原作者である辺見庸さんに対する石井監督の熱い思いとリスペクトだった。

 相模原事件は真相が十分に解明されないまま風化の一途をたどっている。植松聖死刑囚が凄惨な事件の1年前、なぜあのような考え方に傾いていったのか、肝心なその点が明らかになっていない。

 私はそのことに危機感を持っているから、この映画『月』をきっかけにもう一度、あの事件について、そしてそこで問われた、生きていくことの意味とは何なのかという、根源的問題について考えてほしい。その意味でこの映画を多くの人に観てほしいと思う。

 映画を作るにあたって、石井監督らは実際の重度障害者施設を訪れるなどして取材を重ねたが、植松死刑囚がモデルと思われる「さとくん」役の磯村さんも障害者施設取材に参加したとあるインタビュー記事で述べていた。スタッフはもちろんだが、役を演じるキャストの方々にとっても、ある種の覚悟が必要とされる映画だったわけだ。

石井裕也監督(筆者撮影)
石井裕也監督(筆者撮影)

「さとくん」に障害者の恋人がいたという設定

――石井監督は映画『月』の脚本も書かれているわけですが、この映画を最初に観た時に驚いたのは、相模原事件の植松死刑囚をモデルにした「さとくん」に聴覚障害の恋人がいたという設定でした。石井監督にお会いしたらまずそれについてお聞きしたいと思っていました。あれはどういう発想から設定されたのでしょうか。

石井 原作の辺見庸さんの『月』の中に、ナイジェリアの避難民のウマラちゃんという貧しい男の子が登場して、事件前にさとくんが同情して寄付をする描写があるんです。これが発想のきっかけですね。

 さとくんは、ある対象に対して「生きる意味がない」と判断するのですが、障害者でもその範疇に入らない人もいる。彼の不寛容さを描くにあたって、どこに寛容さを示すのか明確にしておきたかったという思いがあります。彼は「心のない人は生きる意味がない」というわけですが、障害者であってもそう考えない対象もあった。まあそのほかにも意味はあるのですが、一番大きいのはそこですね。

――事件当日の朝、出かける時にさとくんは彼女にハグをして自分の気持ちを伝えるわけですが、耳が聞こえないので彼女は理解できない。あそこは大事なシーンですね。

石井 彼女はろう者なので、耳は全く聞こえない、視覚的にしか人の想いを捉えられません。犯行に向かうさとくんのことばを彼女は理解できなかった、ということです。

――映画は、宮沢りえさん演じる主人公の女性作家が障害者施設に入り込んで、「重度障害者に生きている意味はあるのか」というやりとりに直面し、人間が生きていく意味を問うていくわけですが、実際に起きた事件と原作の『月』と両方をベースにしているわけですね。

石井 そうですね。いちど辺見庸さんによって解釈されたものをさらに解釈している、という言い方が多分正しいと思うんです。

辺見庸さんの原作と映画の関わり

――辺見さんの『月』は、重度障害者の「きーちゃん」を主人公にして、実はちゃんと心を持って経緯を全て見ていたという設定ですが、実際に障害者に接してきた人たちの間で賛否両論あります。私は小説として面白いと思ったのですが、なかには「辺見さんは重度障害者に接したことがあるのだろうか」と疑問を呈する人もいます。石井さんの映画『月』にも「きーちゃん」が出てくるのですが、どういう存在として描いているのでしょうか。

石井 きーちゃんの想念を文学的に表現したのが辺見さんの小説です。ただ、それをそのまま映画には変換できなかった。なので、きーちゃんの想念の存在を信じようとする人物を登場させました。

――この映画は原作の『月』の印象ともかなり違っていますが、石井さんなりに原作を取り入れているということなのですね。

石井 原作もそうですし、辺見さんが今まで書いてきたものも要素として取り入れています。

――さすがに「きーちゃん」を主人公にした映画というのは無理ということですか。

石井 そういうやり方はアイデアとして浮かんだことはあるんですけれど、やっぱりものすごく小さい世界の話になると思ったんです。今回は河村光庸さんの意向もあって、なるべく多くの人に観てもらえるような構えの大きい映画にしたいという意図があったので、わりと早い段階でそのアイデアは僕の中で消えました。

暗い森の奥の障害者施設というイメージ

――映画の冒頭で障害者施設を奥深い森の中にあるとして描いていて、そこは津久井やまゆり園のイメージと似ているのですが、同時に東日本大震災のシーンを被らせていますね。あれはどういうイメージだったのでしょうか。

石井 この映画は辺見さんの『月』を原作にしているわけですが、辺見さんの著作は全部読んでいますし、辺見さんがどういうふうに考えて『月』を書いたのか、そこにものすごく興味がありました。

 辺見さんは石巻出身で、震災や津波に関してはたびたび言及されてますし、本も出されています。映画『月』で閉ざされた世界の話を描くにあたって、震災の、ある意味では隠蔽されたというイメージは重要だと僕は思いました。

 冒頭のシーンは、辺見さんの『青い花』という小説で、震災後の津波に流された暗闇のなか線路の上をひとりの男がずっと彷徨い歩いて行くというシーンがあって、そのイメージです。この闇と、障害者施設の中にある闇は決して無関係ではないと僕は思うんです。

――あるはずのものをなかったことにして隠蔽されているといったナレーションが入りますが、あの言葉は石井さんが考えたものですか?

石井 その表現の仕方というか、あるはずのものをなかったことにするという言い方は、辺見さんが『反逆する風景』などで度々表明してきた考え方だと思うんです。

――辺見さんとは映画を作る前に会って話したそうですが、脚本は見せているのですか?

石井 いや、お見せしていません。辺見さんとお会いした時は、どちらかというと僕のほうが辺見さんに訊きたいことがたくさんあって、今回の作品にとどまらず、いろいろなお話をしました。ああいう方とお話しできる機会はなかなかないですから、会えば訊きたいことがたくさんあって、という感じでした。ただ、この映画に関するディスカッションはほぼしていないですね。

『赤い橋の下のぬるい水』という今村昌平さんの映画の時もそうだったと辺見さんから伺ってますが、小説と映画は別個のものなので、映画製作者に任せるしかないというお考えのようです。

覚悟を背負ったうえでトライしたいという欲求

――さきほど河村さんの名前が出ましたが、昨年、河村さんが急死された時は脚本は出来ていたのですか。

石井 はい。亡くなられたのは撮影の2カ月くらい前でした。河村さんなりのプロデューサーとしての想い、映画をこうしたいという意図もお聞きしながら、脚本は一緒に作ってきました。

――主役の宮沢りえさんのほかに、オダギリジョーさん、磯村勇斗さん、二階堂ふみさんら豪華なキャスティングにも河村さんの意向が反映されているのでしょうね。テーマがすごく重くて大変な映画ですが、キャスティングに苦労したということはなかったですか。

石井 4人に関してはなかったですね。というか、これだけの人たちになると、そういう責任とか覚悟を背負った上で今まで観たこともなかったものにトライしたいという欲求があるんだと思います。

――4人の中でも、磯村さんが演じたさとくんをどう演じるのかは難しかったと思います。映画の中でも前半はごく普通の青年として描かれているわけですが、それがどうしてあのような事件に突き進んでいったのかは考えるべきテーマなわけですよね。

石井 さとくんという人物に関しては、この世の中、社会の「普通」というものを担っている存在です。この社会のある種の軽薄さや浅はかさを生き写しにしたような人間だからこそ、この事件を起こしたというふうに僕は解釈しました。そこに関しては辺見さんも同じだったと思うんです。さとくんが、普通の人間が狂気をあるいは悪意を獲得して変身して殺人を犯したというのでなく、普通に浅はかだからこそやった、というふうに考えました。

実際の障害者施設に足を運んで取材

――実際の相模原事件や障害者施設については現場にも足を運び、取材をされているのですね。

石井 はい。僕自身、この作品に携わる前は、いわゆる重度障害者施設に入ったこともなければ見たこともなかったですから、どうしても取材を重ねる必要がありました。ただ、実際の障害者施設についての取材は予想通り難航しました。

 撮影現場ではいろいろな人が僕と同じレベルで苦しんでくれました。俳優だけでなくスタッフも、みんなこの事件というか命の問題に向き合うことにとても神経を使ってくれたんです。

 一番つらかったのは脚本で、これはひとりでやっていく作業ですからね。わかっていたことではありますけれど、結構苦しかったです。

――途中でカレンダーが出てきて、観ている人は最後に、ああそうだったのかと気がつくわけですが、あの持って行きかたは脚本では早い段階から決まっていたのですか。

石井 そうですけど、やっぱり悩んだポイントではありました。

 今回僕が捉えたこの事件は、いつなんどきどこで起こってもおかしくない、というものです。それを特定のものにしてしまうと、それは植松もそうだしやまゆり園もそうなんですけれど、それだけの個別の問題として受け取られて処理されるんじゃないかという心配がありました。でも極端に言えばこれは人類全体の問題ですから、日付とか名称とか、そういうものが本当に限定的なものでいいのかという悩みはずっとありました。

事件によってボールは既に社会に投げられている

――石井さんの前作の『茜色に焼かれる』も社会的なテーマを孕んでいたと思いますが、今回はさらに社会にむかって問題提起のボールを投げるような感じですよね。公開後の反応や反響がどうなるか興味深いです。

石井 そうなんですけど、具体的にボールを投げるというよりは、ボールはあの事件によって既に投げられていたはずなのに、人々がそこに目を向けなかったんじゃないかという意識が僕は強いです。

 公開後にどういう反応があるか興味はもちろんありますが、一方で無視されるんじゃないかという不安もあります。それはこの事件そのものの反応に似たリアクションです。辺見さんも書いていましたけど、すごく危ない言い方をすると、世間の障害者の方々への認識というのは、「24時間テレビ」に出られる人、あとはパラリンピックに出られる人、で止まってるんじゃないか、それ以外の人たちの存在については無視されているんじゃないか。それから、この事件が人間存在の根源的な問題を孕んでいるということをおそらくみんな何となく無意識でわかっていると思うんです。だからこそ目を背けるんじゃないかという不安があります。

――施設に入所している障害者が自分の糞尿を体に塗りたくっているシーンがありますね。あれはもちろん実態に基づいているわけですが、重度障害者について見聞きしたことがない人にとってはショックだろうし、施設に関わっている人の中でも、重度障害者のイメージをあれによって固定化されないかと心配してる人もいました。

石井 そういうお話は、協力していただいた施設関係者の方からも事前に聞いていました。

 糞尿を顔に塗りつけているという表現は原作にもあります。他の施設の中でのエピソードに関しては、すべて僕が調べた、あるいは実際に見た施設の現実をそのまま描いています。中井やまゆり園でも天井じゅう人糞がこびりついた部屋があったというのも報道によって明らかにされています。あとは窓を閉ざされた部屋とか虐待とか、そういうものは、見たままを事実として伝えようという思いはありました。

 ただ、当然そればかりになると誤解されるというか、今の施設がすべてそういうものだと思われるのは困るという声は聞きました。その点に関しては、各施設によって改善努力がなされているということはこういう取材の場でなるべく言おう、というつもりではいます。ただしこれは当たり前の話ですが、社会の目が行き届かなくなれば、いつでもすぐにでも状況が悪化すると思います。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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