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性暴力を防ぐ責任と、職場職員の「表現の自由」―2022年5月30日の長崎地裁判決から考える

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
法に基づきレッドカードを出すことは正当な権利。それを妨害することは二次加害。(写真:イメージマート)

性暴力被害を認めた長崎地裁判決

長崎では今年の8月にも、世界平和を願う式典が行われた。平和とは、そこに生きる人間の身の安全が確保されることである。そこに共にいる人間の身の安全を互いに守り合い、少なくとも目の前の人間との間でそれが守られるという信頼を破壊することはしない。それが私たちにできる「平和」維持の第一歩だろう。しかし性暴力はその信頼をいとも簡単に破壊してしまう。

今年の春、性暴力事件と「表現の自由」の関係について考えさせられる判決が出た。2022年5月30日、長崎地裁は、報道機関に所属する女性記者が公務員から受けた性暴力について被害を認定し、損害賠償を命じる判決を言い渡した。

長崎市に1900万円賠償命令 女性記者への性暴力―地裁(時事ドットコムニュース2022年05月30日)

原告となった記者は、長崎市の原爆被爆対策部長(当時・男性・故人)から取材中に性暴力を受けたとして、市に約7400万円の損害賠償などを求めていた。判決の内容は、市に約1975万円の賠償を命じるというものだった。

判決は、①性行為に関する合意があったとは認められず、部長(当時)の行為は性暴力に当たる、②行為に至る前提の取材応答には職務関連性があるため、この性暴力は職権乱用に当たる、ということを認めた。この点について判決は、取材側の記者と取材源となる部長(当時)の間の力関係に優劣があり、部長(当時)がその関係性に乗じて加害に及んだことが職権濫用に当たることを重く認めた。また、これによって記者の職業としての取材活動に支障を生じさせたことも加害として認めている。

また判決は、③市には二次被害を防止する責任があったにもかかわらず、これを行わなかったことも違法だったと認めた。この点については、別の市幹部が、問題の行為は原告から誘った合意の上での私的関係によるものだったとする虚偽情報を流布していたのだが、このことが二次被害にあたるとし、この種の二次被害を防ぐべき注意義務が市にあるとしたのである。

判決は、これらの3点を総合して、原告が受けた被害について、市の賠償責任を認めた(原告の訴えのうち、謝罪広告掲載の請求は認めなかった)。

判決のおおよその内容は以上のとおりなのだが、この判決はさまざまな角度から、重要な意義を持っている。本稿ではとくに「表現の自由とルール」の観点から、最後の部分に着眼したい。

組織としての防止責任

いわゆる「パワハラ防止法」が2022年4月から中小企業にも適用され、すべての事業者がハラスメントを防止し、起きたハラスメントについて誠実に対処することが法的に求められることとなった。

この長崎地裁判決が、一連の出来事を個人(故人)の行為と見て終わらせるのではなく、組織としての「市」に法的責任を認めたことには、この流れの中で、大きな社会的意義がある。この判決の論理は、自治体だけでなく、報道機関を含めた企業や学校や医療機関などなど、あらゆる人的組織にも及ぶからである。とくに、加害者本人とは別の職員の流言による二次被害について、市の注意義務を認め、これを止める対策を行わなかったことに組織的過失を認めた点は、「表現の自由」の観点から見ても重要だ。

これは、問題の視野を広げてみると、社内ヘイトスピーチについて企業の職場環境配慮義務を前提として人格権侵害を認めた「フジ住宅ヘイトスピーチ事件」(2021年11月18日・大阪高裁判決)の考え方とも共通している。これらの判決を流れとして見ると、裁判所が、組織の職場管理責任を通じて個人の人格権を保護する方向に向かっていること、そのために職場内の言論にもそれなりの限界があるという見方をとっていることが読み取れる。

「二次加害」を防止する責任

この事件では、部長(当時)とは別の市幹部が、これは原告から誘った合意の上での私的関係だったとする虚偽情報を広めていた。判決は、この種の二次被害を防ぐべき注意義務が市にあるので、市がこれを防止しなかったことを違法だったと認めた。

被害者は、「自分のほうに落ち度があったのではないか」「被害を申し立てたとしても自分の落ち度と決めつけられるのが関の山ではないか」という怯えた心理状態を抱えていることが多い。たとえば、「そんな(人物の)ところに一人で行けばどうなるか、少し考えればわかったでしょうに」と混ぜ返す談笑が、噂話として交わされる場面は、日常の中にかなりあるようで、筆者もそうした談笑場面に出会うことが時々ある。その多くは法的責任を問いようのないもので、「それがハラスメント体質の克服を座礁させてしまうことについて、どうかご理解を」と啓発に努めるしかない事柄がほとんどではある。

しかし、たとえば過酷な侮辱的扱いを受けて人と会うこともできない心理状態になっていた人が、ようやく立ち直って職に復帰し会合に出席したとき、その出鼻でこの種の談笑に取り囲まれることになれば、当人は決定的な萎縮と自己軽蔑を背負わされ、正当な権利主張も困難になることは想像にかたくない。このような具体的場面については、法的な意味での「二次加害」と考えるべきだろう。

長崎市の事例では、そうした揶揄的な空気の全体を違法と見たわけではなく、その空気を醸成するような偽情報を流布したことを違法とし、こうした二次加害を防止する責任がこうした職場組織にはある、との管理責任に照らして、この二次加害の実質放置を「違法」とした。

「二次加害」を語るときのレベル

「二次加害」という言葉については、社会に理解を促す言葉という側面と、「違法」「不法」を認定するさいの法的な意味とを、区別して考える必要がある。これを法的な言葉として使う場合には、漠然不明確なものとならないように、歯止めも必要になる。

刑事事件での有罪判決はもちろん、民事事件でも、ハラスメント加害が認定されれば、その人物は職場での懲戒など事実上強力な社会的制裁を受けることになる。万が一冤罪であった場合の深刻さを考えたとき、法的判断の場面では、被害者の訴えの真実性について綿密に検証するプロセスが必要である。

しかしこの原則が、被害を訴える人々にとっては酷なものとなってしまう。このことを「二次加害」として論じる論者もいる。しかし仮にここで、裁判や報道で真摯な検証姿勢をとること自体を「二次加害」と見てしまうと、「公正な裁判」、「真実報道」という理念とどうしても衝突してしまう。この問題は、稿をあらためて論じたいと思う。

真実確認のプロセス(法の適正手続)が被害申立者にとって苦痛なハードルになってしまうことは重々理解しつつ、しかしこのプロセスを抜き去ることはできない。被害について聞き取る側は被害者の決意に十分な敬意を払いつつ、共同作業で真実追求に努める、という姿勢をとるしかないのではないか。そしてこの長崎市のケースでは、原告がこの関門に耐え抜いて各種の立証を行ったことが、判決文から読み取れる。この労力と勇気を、私たちは敬意をもって高く評価すべきである。

「二次加害」としての中傷・流言

これに対して、被害者の訴えを虚偽の流言によって歪曲し貶めることや、混ぜ返したり揶揄したりして正当な訴えを心理的に挫折させることは、「表現の自由」として放置できる言論ではなく、法的な意味での「二次加害」そのものである。これは本人の人格を傷つけるだけでなく、真実の検証をも歪め阻害することになるので、真実追求の必要性から正当化する理由がない。――つまり、「『表現の自由』の重要性から考えて被害申立者当人につらい思いをさせることになっても致し方ない」、と言える要素がない。

「本人にも落ち度があった」(過失相殺)、「そうなることはわかっていたはずではないか」(危険への自発的接近)ということが、裁判の場で争点となることはたしかにある。しかし、これを理由として、その手前のところで、ハラスメントの調査請求や裁判提訴そのものを抑え込んだり頓挫させようとすることがあれば、これは法的な意味での「二次加害」である。

長崎市のケースでは、虚偽の情報の流布はこれにあたる二次加害だったといえる。これを法的にアウトと、裁判所が認めたことの意義は大きい。

発言場面が職場内ということで、公然性がないため、一見、そうした職場内発言(陰口や私的文書)は法的責任を問われない言論であるかのように思われてきた。さらに、同一職場で働く職員同士や経営者と従業員のように、ある種の共同体のメンバー同士の中で起きたハラスメントと異なり、部外者に対する陰口ということで、ハラスメント問題にも問いにくいように見える。しかしこの判決は、そこで法的責任を認めた。

また、長崎市のケースとは異なるが、性被害にあった人を加害者や組織が先回りして「彼(女)には精神的に問題がある、虚言癖がある、妄想癖がある」といった噂を広めることも世間にはあると聞く。もちろん、実際に虚言癖のある人によって中傷被害を受けている人が、この被害について救済を求めている場合には話は別だが、ハラスメントの加害者が保身のために被害者の性格や精神状態や職業態度を先回りして貶め、発言や被害申立の信用度を低めるようなことがあれば、これは法的な意味での「二次加害」であり、また法的な意味での人格権侵害と認定されるべき事柄となる。

職場同僚の友情アウティングは…

最後にもう一点。こうした被害を受けた人々が、自分のプライバシーを守って沈黙するか、社会的にはプライバシーを守りながら職場内のハラスメント対応機関に調査や懲戒などの対応を求めるか、法的救済を求めて裁判に訴えるか、「表現の自由」の主体として社会に向けて声を上げるかは、どれを選ぶにしても、高度な自己決定となる(ただし、最後の「声を上げる」選択は、発言の仕方によっては名誉毀損や信用毀損になることがあるので、発言したいと思う人にそれなりの知識が必要になる)。

性被害その他のハラスメント事例を、被害者当人の了解を得ずに社会に公表することは、当人を深刻に傷つけるアウティングとなる。仮に事情を知っている者が善意や正義感や友情からしたことでも、本人の意に反する被害アウティングは、原則としてプライバシー侵害となる。

ただ、加害行為が犯罪(親告罪ではないもの)にあたるレベルのものであるときには、公益通報や刑事告発の対象になる。親告罪は、被害者本人による告訴が必要だが、親告罪でないものは、被害者本人の告訴がなくても加害者を起訴することができる。2017年の刑法改正によって、強制わいせつ罪、準強制わいせつ罪、強姦罪、準強姦罪、わいせつ目的又は結婚目的の略取及び誘拐の罪、これらの略取及び誘拐の罪を幇助する目的で犯した被略取者引渡し等の罪及びわいせつ目的被略取者引渡し等の罪が、親告罪ではなくなった。

一方、こうした犯罪とまでは言えないハラスメント問題について、当人がさまざまな事情から黙っているときに、「同僚として黙って見ていられない」と感じる人もいると思う。が、そういうときにできることは、職場組織のハラスメント対応機関に情報提供の通報をするところまでで、当人の了解なくメディアやSNS上で本人特定ができるような情報提供をするべきではない。こういう場合、ハラスメント相談を受ける調査機関や法務専門家には高度な守秘義務があるので、こうしたアウティングは職務規律違反になることがハッキリしているが、友人的な同僚や学生同士の間では、正義感や友情からのアウティングが起きないとも限らない。これは発言者の「表現の自由」よりも被害者の意思のほうが優先することを注記しておきたい。

※この記事は、「新聞研究」最新号(2022年8-9月号)に寄稿した判例評論「記者への取材源の加害は職権濫用 知る権利の侵害認めた長崎性暴力判決」をもとに、一般市民向けに加筆&リライトしたものです。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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