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「不自由展」と「公の施設」 何のための《安全》か――大阪の場合

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
すべての表現が「表現の足場」を奪われないことが「表現の自由」だが…(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

「表現の不自由展かんさい」実行委員会が提訴

7月16~18日に開催予定だった「表現の不自由展かんさい」の開催場所となっていた「エル・おおさか」(大阪府立労働センター)が、いったん出していた利用承認を取り消した。このことを違法だとして、「表現の不自由展かんさい」実行委員会のメンバーが30日、処分の取り消しを求めて大阪地裁に提訴した。実行委側は予定通りの開催を目指しており、施設側の決定を一時停止することも同時に求めている。

提訴を公表する記者会見は、嫌がらせや妨害などを避けるため、関係者のみで、当事者の氏名を伏せる形で行われたという。

大阪の「表現の不自由展」利用許可を、実行委側提訴

産経新聞 6/30(水) 6/30(水) 17:29配信

実行委員会は3月に施設利用を申請し、施設側はこれをいったん承認したが、6月25日付で、「管理上の支障が認められる」として利用承認の取り消しを通知したという。提訴の記者会見に先立つ6月28日に、同実行委員会はこの件を大阪地裁に提訴する方針を明らかにしていた。「憲法で表現の自由が保障されている以上、利用承認の取り消しは厳格に判断されるべきで、今回は取り消しの要件に当たらない」といった主張を行うとしている。

「表現の不自由展」実行委、会場の使用求め提訴へ 大阪

毎日新聞 6/28(月) 21:09配信

「表現の不自由展かんさい」実行委、会場利用求め提訴へ

6/28(月) 21:00配信

この提訴をどう受け止めるかについて、大阪府知事の定例記者会見での発言を詳細に紹介する記事もあり、「表現の自由」をめぐる衝突に《公》がどのような姿勢をとるべきか、という問題が再び注目を集めている。

大阪府・吉村知事が定例会見6月30日(全文4)表現の不自由展「明らかに差し迫った危険がある」

Yahoo!ニュース オリジナルThe Page 6/30(水) 19:05配信

会見の内容を伝えた上記記録によれば、吉村氏は、「(エル・おおさかの)中には常設の保育所も入っている。そのような施設で行われて本当に大丈夫なのか」「どちらかといえば反対です」と、指定管理者の判断に同調し、訴訟については「指定管理者が適切に対応していく」と述べている。

公の施設の利用不許可を巡っては、最高裁判例で「明らかに差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要」と示されている(泉佐野市民会館事件最高裁1995年判決など)。

裁判で「表現の自由」を言うことの意味

原告(実行委員会)は、憲法上の「表現の自由」で争うということだが、おそらく実際の裁判では、直接の憲法判断に踏み込むことはせず、地方自治法に基づいた判断をすることになるだろう。裁判では、憲法判断をするのは訴えられている問題を解決するのにどうしても必要な場合に限ることとする傾向が強いからである。このケースは、「公の施設」を利用させないことについて「正当な理由」があると言えるか、という判断になるだろう。

しかし、「表現の自由」はここで重要な意味を持つ。

「表現の自由」は、この判断の中で生かされることになる。これまでの裁判例からは、「よほどの切迫した理由がないとこうした取り消しは認められない」という考え方になるはずだが、ここで裁判所が「表現の自由」の重さを適切に認識し、この「正当な理由」を安易には認めない、という姿勢をとるかどうかが判断の分かれ目になる。

行政の処分が適切だったか、違法だったのではないかということが争われた裁判で、裁判所が「表現の自由」の重要性を踏まえて行政側を「裁量の逸脱」つまり「違法」と認めた判決が、つい最近、東京地裁で出された。えいが「宮本から君へ」への助成金を不交付とした芸術文化振興会の決定について、裁判所がそうした判断を示したのである。このように、《公》は「表現の自由」の重要性をしっかり認識した対応を取るべきことが、裁判所によって確認されてきていることを視野に入れる必要がある。

名誉毀損やプライバシー侵害、肖像権侵害や著作権侵害のように、特定の人の権利を侵害している表現の場合には、「違法」な表現ということになるが、「不自由展」はその意味で違法な作品の展示ではないため、これを「不快」に思った人が多数いるとしても、そのことを理由に「公の施設」の利用を拒むことは、法的に認められない。

ここでは、「不自由展」の作品が好きか嫌いか、その社会的意義を認めるか認めないかという個人的見解を超えた、すべての人にとっての「表現の自由」の問題として考えなくてはならない。批判の自由はすべての人にあるが、その表現方法が平穏な限度を超えている場合には、強要や脅迫、業務妨害、平穏生活権侵害などの「違法な」ものとなり、《公》が制止すべきものとなる。大阪府はまずその努力を尽くして、それでもどうしてもこのイベントに会場を使用させることが市民に対して具体的な危害を及ぼすと言えるか、慎重に判断すべき立場にある。裁判では、そこが問われるだろう。

明らかに差し迫った危険の発生が具体的に予見されるか

今回の大阪のようなケースでは、使用許可取り消しは、「明らかに差し迫った危険の発生が具体的に予見される」場合でないと、違法となる。「これこれのことが起きる」ということが特定的に言えるのでなければならない。「あいちトリエンナーレ2019」であったような、はっきりと放火を予期させる脅迫などがその例である。しかしどの報道を見ても、市街地で現実の暴力や破壊行動があったとか、そういう内容の予告文・脅迫文が送られてきたという事実は見られない。施設内に保育所があるにしても、その保育所に来る児童や保育士に向かって排撃・侮辱の怒号(ヘイトスピーチ)が行われるということが具体的に予見されるのだろうか、あるいはそうした内容の脅迫が指定管理者や知事のもとに届いているのだろうか。少なくとも筆者は、そうした記事や談話を見つけることはできなかった。

児童やその保護者や保育士が、なんだか不穏なムードで怖いと感じることは、気の毒ではある。しかしその程度では、「明らかに差し迫った危険の発生が具体的に予見される」状況とは言えない。そしてその状況は、その状況を起こしている人々にやめてもらうのが筋である。「その状況を起こしている人々」と言った時、「それは「表現の不自由展」を企画した人々だ」「この展示会を企画すればそうなることはわかっていただろうに」と論じることは誤りである。大阪府知事の言うとおり、批判者にも批判の自由はあるし、批判者の側の正義感情や個人的信念がある場合、これを封じるべきではない。しかしそれと同じく、企画展を行おうとする側の「表現の自由」もある。どちらも、作品を展示する、批評を書くなど、平穏な表現方法の範囲内で許容されるものである。今回の妨害者はその限度を逸脱しているのだから、批判の自由や正義で正当化することはできない。

逆に、今回の妨害活動が「批判の自由」の範囲内の言論で、「そちら側の表現の自由もある」という擁護ができる程度のものであるならば、会場使用許可取り消しが「正当」と認められるほどの「危険」を「具体的に予見」することは無理だろう。

さて、このように、物理的な身体攻撃や破壊ではない心理的な恐怖感・不安感が問題となったとき、これを裁判所がどう判断するだろうか。この程度でも「管理者が差し迫った危険があると予見したことには具体性があった」と認めるのか、それともこの不安感はまだ抽象的なものにとどまり、公の施設の使用許可取り消しを正当化する理由にまではならない、と見るのだろうか。

この問題を、「公の施設」の市民への提供、という問題系を離れて、もっと広く、「市民の不安や恐怖というものについて裁判所はどんな姿勢をとっているか」という観点から見てみると、裁判所の判断はかなりバラバラだという印象がある。中には厳しい事例もある。

たとえば、2015年から2016年ごろにかけて政府によって実施された「Jアラート」や避難訓練によって、隣国から武力攻撃を受けることに真剣な恐怖感を抱き、日常生活を妨げられたと訴えた原告が含まれる裁判で、裁判所はこれを具体的な人格権(ないし人格的利益)への侵害があったとは認めていない(たとえば釧路地裁2021年3月16日判決)。相当の音量をもって否応なく危機感を与える音があり、その前提として政府が与えた危険情報があり、これを真剣に受け止めた結果、他のことが手につかなくなり、心身の不調をきたすことになった人がいても、それでもこれを具体性のない主観的で抽象的な不安感情にすぎない、と見る裁判所があるのが現状である。

しかし、これを基準にして大阪府の指定管理者や知事の判断を「無理筋」と言うことはできない。この釧路地裁判決のレベルまでハードルを上げてしまうと、危険の予見や恐怖感というものはまったくカウントされないことになってしまい、これまでのさまざまな裁判で「人格権」というものが認められてきたことの意味までが失われてしまう。

だから、裁判所のこうした判断姿勢のほうに問題があることも、論じていかなくてはならない。恐怖や不安によるストレスが生身の人間の平穏な生活を脅かし、結果的に心身の健康をむしばむことさえあるという問題については、かなり鈍感な姿勢を示す裁判所があるのが現状だが、その一方で、諸般の事情から不安を感じる市民がいるとき、その心情に歩み寄って《公》の業務を取り消したり止めたりする決断をする長も存在する。鈍感な判断をしてしまう裁判所に対しては、大阪府知事の姿勢に学んでほしいと思う部分もある。

「表現の自由」のフェアネス――恣意的な歩み寄りはNG

しかし、大阪府知事の敏感さを尊敬することとは別に、この決断が公平・公正かどうかという問題を、問わなくてはならない。せっかくの敏感さも、ある者に対してだけきめ細かく歩み寄り、ある者に対してはその歩み寄りを見せない、という恣意的・選択的なものであってはならず、フェアなものでなくてはならない。そして、すべての立場の人に平等に歩み寄ろうとすると、その歩み寄りには一定の限界が出てくる。衝突している見解があるとき、片方の人々の「批判の自由」や「不安感」にあまりにもきめ細かく歩み寄ってしまうと、もう片側の人々に泣き寝入りを強制することになってしまう。今回の大阪のケースがそれである。これは内容を理由とした差別的取り扱いではないにしても、結果的に地方自治法が禁じる差別的取り扱いにもつながりかねない。こうした恣意的な歩み寄りを防ぐためにも、「公の施設」の利用を拒む場合には「明らかに差し迫った危険の発生が具体的に予見される」ことが必要、とのハードルは必要である。

「表現の自由」は、公正さ(フェアネス)と密接な関連を持っている。どのような表現も公平に、表現の空間に出てくる資格が与えられることが、「表現の自由」の基本である。そこでは、作品を批判する自由は当然あるが、そのときに批判の対象も同じ土俵にいられることが、「表現の自由」の大前提となる公正性(フェアネス)である。周囲に恐怖を与え、表現者を事実上「出展できない」状態に追い込むことは、批判や抗議という言論の限度を超えた「暴力」であり、法的に認められない。だから、この施設の付近が騒然と荒れた雰囲気になっているとしたら、この騒乱状態について制止すべきは、その騒乱状態を作りだしている妨害者である。

この状況で、簡単に施設使用許可の取り消しが認められてしまうと、どんな表現でも騒がしい嫌がらせを受けたら「公の施設」を使えないということになる(公平な運用を考えたら、大阪府はそうしなくてはならなくなる)。そうなると、この種の事柄は「やった者勝ち」ということになってしまい、およそ法治国家とは言えない状態が慢性化していくおそれが出てくる。文化行政がその流れに加担すべきではない。こう考えてくると、この裁判には、その流れを食い止める公共的な意義がある。

おわりに

芸術や文芸の役割は、その時代の常識を疑い、人間の本質を問いかけることにある。多数派から見ると不快で、常識に反すると感じるものもあるだろう。このとき、作品に違和感を持つ人も含めて議論が起きることは、市民社会を活性化し、強めることにつながる。ここで見たくないものを封じることを繰り返せば、社会にとって損失になる。作品を見た上での批評ができない状態で、推測や先入観による言論が幅を利かせてしまうと、社会が弱体化していくからだ。「批判の自由」を大切に考えるのであれば、だからこそ、この流れを止めることが必要だ。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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