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「不自由展」 ‘批判の自由’を踏み外した妨害への対処は――東京の場合

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

会場変更を余儀なくされた 「表現の不自由展」

 6月25日から東京・新宿区のギャラリーで開催される予定となっていた企画展「表現の不自由展・その後 TOKYO EDITION+特別展」の会場で妨害行為が続いているとして、同企画展の実行委員が10日、都内で緊急記者会見を開き、会場を変更しての開催継続を表明した。

 この企画展は、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で抗議が殺到し中断された企画展「表現の不自由展・その後」を再構成した内容だという。実行委員会は「不当な攻撃に屈せず、法的手続きを含め断固対応する」との決意を述べている。

新たな会場は、いったんは内定したものの、その後「近隣への迷惑がかかる」として貸し出しを拒否したという(6月24日・共同通信)。6月29日現在、この企画は会場確保のめどが立たず、展示会開催はまだ実現していない。

 報道によると、告知後から妨害メールや電話が会場に届くようになり、6日からは会場前で街宣活動が見られるようになったという。普通車で抗議に来る人もおり、「神楽坂の風紀を乱すな!」「場所の貸し出しをやめろ!」「開催を中止しろ!」と抗議する声が続いた。

筆者は6月10日に東京新聞からコメントを求められ、概要、次のような考えをお話しした。

展示を引き受けたギャラリーの意欲をくじく精神的妨害は、法的に見ても限度を超えている。「あいちトリエンナーレ2019」のときには「これに税金を使うのはどうか」という批判があったが、今回はそうした理屈も成り立たない。作品への批判は言論の応酬でやるべきで、表現者の足場を奪う妨害行為は認められない。「暴力を傍観することは加担するのと同じ」という言葉があるが、私たちも「批判の作法」を共有し、「表現の自由」を守る社会的環境をつくる必要がある。

 もう一本、ほぼ同時期にAERAの取材にも答え、コメントを提供した。この記事はYahoo!にも転載されているため、リンクを貼っておく。

踏み外した“批判の自由”  「表現の不自由展・その後」東京開催が脅かされないために必要な社会環境とは〈AERA〉

 限られた字数の中で、見解の骨の部分を的確にまとめていただいたが、このYahoo!個人オーサーのページでは、筆者の考え方をもう少し詳しく論じてみたい。この種の妨害がまた繰り返される可能性もあり、妨害と萎縮の連鎖が思わぬところにまで波及することも考えられるので、それを止めるために一人でも多く社会的発言をする必要があると思うからだ。そのため、この件を法学の観点からどう考えたらよいか、美術手帖にも急ぎ論説を寄せた。

都内で予定の「表現の不自由展」にまた妨害──憲法によって言えること・言えないこと

 この論説はYahoo!にも転載されたが、長くて無駄が多く複雑で読みにくい悪文であるとの指摘をコメント欄で多数頂戴したので、貴重なご批判の数々を真摯に受け止め、こちらのYahoo!個人オーサーのページでは、複雑化してしまった論点の読み解きを、少しでもわかりやすくなるように書き直し、論点ごとに話を区切って、お伝えしたい。

 妨害者は、企画展が予定されていたギャラリーの敷地内には足を踏み入れず、敷地外の路上から「やめろ」という怒声を上げ続けていたという。警官の注意を受けてからは、ラウドスピーカーの使用をやめて生声での怒号に切り替えたという。こうした材料からは、この妨害行動を刑法上の「脅迫」や「威力業務妨害」にあたると言うことができるかはまだわからず、状況を丁寧に見る必要が出てくる。が、少なくとも、すでに決まっている作品展示に対して「展示をやめろ」と命令口調で執拗に叫ぶ言葉は、「強要」にあたる。さらに被害者の生活の平穏や精神の平穏を害している点で、人格権の中の「平穏生活権」を侵害している。こうした妨害は「表現の自由」によって放任されるべき「批判」や「抗議」の限度を超えた実力行使になっており、法的な制止の対象となる。

 しかし、これまでに「表現の自由」と警察活動との関係が問題となった事例を見ると、警察が行動に出るべき場面と自己抑制すべき場面とが逆転していないか、と首をかしげたくなる。たとえば、近年問題となった選挙演説へのヤジ排除事件では、市民が「やめろ」と叫んだ表現に対して、警察が市民の身体を抱えて排除するという実力行使をしている。これが警察力の行使として「許容される」(2020年11月27日札幌地裁判決)のであれば、美術ギャラリーに対する怒声妨害について警察が排除できないというのは、均衡を欠く。むしろ憲法から言えば、本来の筋は逆なのである。

 ヤジ排除事件については、警察力による言論排除は行われるべきでなかった。市民が公人の進退にかかわる要望を述べることは、憲法21条によって保護されるべき政治的言論であると同時に、憲法16条「請願権」の趣旨からも、尊重されるべき言論だからである。

 これに対して、閑静な住宅街の中にある個人経営のギャラリーに向かって、予定されている企画を「やめろ」と連呼することには、そのような公共的要素がない。だから警察は、上記のヤジ排除事例のような言論排除は本来は自制すべきだったのだが、今回の妨害行為については、市民の安全や生活の平穏を守るために制止の行動に出てもよかったのである。

イメージイラスト・武蔵野美術大学学生作品・許諾済
イメージイラスト・武蔵野美術大学学生作品・許諾済

民事で訴えるとしたら――人格権

 ここで裁判による解決をはかるとしたら、誰が誰に、何を訴えることができるだろうか。東京のケースでは、

(1)妨害を受けたギャラリーが妨害者を訴えるケース、

(2)企画主催者が妨害者を訴えるケース、

(3)企画主催者がギャラリーを訴えるケースが考えられる。

(大阪のケースは、会場が「公の施設」となるので、これとは別の考察が必要になる。それについては、稿を改めて論じたい)。

 民事裁判は、当事者が裁判を起こすことを選択して初めて、法律問題となる。法律で保障された権利は、本人が主張をしようと思ったときに使える道具のようなもので、その道具を使うか使わないかは、当事者の自由である。

 (1)と(2)については、度を越した妨害が繰り返される場合には、その妨害を止めてもらうための差止め請求ができる。(1)のタイプの訴訟が提起されるという話は今のところ聞いていないが、(2)については、会場を変えても妨害が起きているということだから、主催者(実行委員会)はこの線で妨害を止める訴えを起こすことができるだろう。また、主催者は他の会場で展示を開催するにあたって、会場探しにかかった手間や金銭的損害、そして精神的損害を、妨害者に対して請求できる。

 また、近年、SNS上での誹謗中傷が深刻な法的問題であることが、一般社会でも知られるようになってきた。最近の裁判例では、匿名による誹謗中傷を受けた被害者が、加害者を特定するのに費用がかかった場合、この費用の支払いを加害者に請求できることになった。こうした裁判理論の進展は、ネット以外の場にも生かされるべきである。もしも警察が制止に動かず問題を放任したために、主催者(実行委員会)が自力で妨害者を特定しなければならず、これに手間と費用がかかった場合、その費用は妨害者に請求できることとすべきである。

 筆者には、こうした妨害行動がどのような動機から行われているのかは、まったくわからない。芸術に対する個人的な確信によるものか、なんらかの政治的信念や正義感によるものか、あるいは怒声を発するスキルを持っているプロ集団が依頼に基づいて行っているのか、筆者には見当がつかない。一種の快楽犯罪である可能性もある。どのような動機から出ている行動であるにせよ、「会場運営者をこのように追い込めば、特定の表現を思いのままに社会から排除できる」という成功体験をこれ以上与えるべきではない。そうした行動には代償が伴うことを知ってもらうためにも、重い賠償ペナルティを求めることには意味がある。

民事で訴えるとしたら――会場使用の権利

 裁判のあり方として最後にあげた(3)は、開催会場が契約後に場所の提供を拒んだことについて、主催者が開催会場を訴えるという線である。これについては、ニコンサロン慰安婦写真展中止事件がある。判決を見ると、ここでは会場側に正当な理由があったとは認められず、会場側が損害賠償の支払いを命じられる判決も出ている(2015年12月25日東京地裁判決)。しかし今回、東京の「不自由展」では、主催者は、このタイプの法的問題にはしないようである。

 表現活動は、さまざまなアクターの連携によって成り立つものだ。その中で、表現者(企画主催者や作品の作者)がギャラリーや映画館を訴えなければならなくなるという筋は、そうしたさまざまな表現アクター同士の社会関係を分断しかねないため、当事者にとって悩ましい問題だろう。もちろん、ここで表現者が法的権利を行使しないことによって「ことを収める」のが賢明だと言いたいのではない。この種の妨害が、社会全体を息苦しくさせるダメージになることを、社会の側が知る必要があると言いたいのである。会場関係者を精神的に疲弊させて追い込む妨害行為というものは、表現活動者同士の社会関係を壊す可能性があるもので、このことがまた「表現の自由」にとっても、その連携によって成り立っている社会全体にとっても、じわじわくるダメージになりうるのである。

 このような場合、予定されていた会場が民間のギャラリーでなく公営の施設だった場合には、会場のほうにあと一段「頑張れ」と言うべきことになる。公共の会場が会場提供を拒否できるのは、よほどの具体的危険がある場合に限られるからである。これは大阪の「不自由展」妨害について、まさに今起きている問題で、6月30日には提訴に関する記者会見が行われると聞いている。筆者もこの問題には関心をもっているので、提訴に関する内容が報道で明らかになってから、一筆書きたいと考えている。

表現を伝えるには、ふさわしい会場が必要(撮影筆者)
表現を伝えるには、ふさわしい会場が必要(撮影筆者)

おわりに

 多様な価値観を認め合うことによって成り立つ現代社会においては、誰かが誰かの価値観や感情を傷つけ不快感を与える可能性をゼロにすることはできない。その中で、文化芸術や学術や市民活動に「誰かを不快にさせてはいけない」「すべての人の賛意を得られないものは不可」というフィルターがかかっていくと、民主的な市民文化は立ち行かなくなる。

 「不快だ」という論評を述べることと、違法な妨害行動に出ることとは異なる。この違いは、法律によって区別ができるものである。この当然の道理が、一部の人々の嫌悪感情によって破られ、その破れ目を《公》が黙認する状態が続くと、この社会の精神的自由度そのものが変質し、誰がいつ恣意的排除を受けても甘受するしかない社会へと向かってしまう。これは、今妨害を受けている表現を個人的には好まない、個人的には信条が異なる、という人にとっても、放置すれば巡り巡って自分事となってくる。このようなときに《公》がこの流れを放置すると、この流れを助長することになってしまう。このことに社会全体が危機感を持つ必要がある。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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