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日本学術会議任命拒否問題がもたらしている言論空間の歪み

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
言論の自由には、フラットな言論空間が必要だが…。(提供:Panther Media/アフロイメージマート)

「学問の自由」と同時に「表現の自由」の問題

 日本学術会議の任命拒否を巡り、多くの識者・表現者が声を上げた。

 当初は「学問の自由の侵害だ」という学者からの声明や談話が続いたが、時間を経るにつれ、この問題の影響は社会の広範囲に及ぶことが見えてきた。ジャーナリストや作家など、「大学」に所属する学者ではない表現者が声を上げていることには当然の理由がある。

  

 憲法23条「学問の自由」は、「大学の自治」を中心的な要素としているが、専門的な学問の世界は学会などを通じてその外にも広がっている。中でも日本学術会議は、「学術」の名にあるとおり、学問にたずさわる人々の見識を政府のために提供するべく設置され、法的にも認められた公的機関である。

 大学や影響力のある学者は狙い撃ちされやすく、その心理的影響は広く社会に及ぶ。戦前には政府が大学に特定の教員(学者)の休職を強いたことがあった。滝川事件では、文部大臣が大学に学者の罷免を要求し、学者のほうが反発して辞任という流れとなり、矢内原事件では、辞職させることに決まったことを受けて学者が自ら身を引く、という形だったが、政府の圧力によって失職に追い込まれている点では共通している。

 ところで、この種の事例としてもっとも有名な「天皇機関説事件」は、直接には大学内で起きた問題ではなかった。すでに大学を退任し名誉教授になっていた美濃部達吉が国会で非難されたのだが、これが「見せしめ」的な効果を持ち、大学内の学問内容や一般社会、公務員人事にまで影響した。このような影響は、当然に「表現」の世界にも波及する。学者の見解も出版やメディア上の発言など「表現」を通じて社会に認識されるものだから、ここが萎縮すれば、一般社会の市民が学識者の考えに接する機会も減っていく。市民にとっては思考や言論の足場が得にくくなっていく。

 筆者は、この種の事柄を「シンボルの政治」という観点から見ている。日本学術会議任命問題は、結果的にまさに「シンボルの政治」の問題へと発展してしまった。

 憲法に「学問の自由」が明記され、政治と学問は距離を置くべきだとされてきたのは、こうしたことを繰り返さないためだった。日本学術会議法に定められた人選の方式も、日本学術会議自身が次期の会員候補者を選び推薦し(同法17条)、内閣総理大臣がこれに「基づいて」任命する(同法7条2項)こととなっているが、これは多くの識者がすでに指摘しているとおり、実質の人選が日本学術会議に任され、内閣総理大臣の任命は形式的なものにとどまると読むべきである。

 さらに最近の研究や報道で、日本学術会議の設立は、そもそも「学問の自由」制定の背景理念と切り離せない関係にあり、学術研究者が戦争協力を余儀なくされてきた流れを断ち切るという決断が込められていたこともわかってきた(これについては、推薦を受けながら任命されなかった当事者である加藤陽子教授の論説が毎日新聞に掲載されている)。

加藤陽子の近代史の扉 学術会議の自律性保障 日本側が磨いた学問の自由(毎日新聞2020年11月21日)

 したがって、日本学術会議が2017年に、この会議としては軍事研究は行わないという姿勢を確認し、軍事研究を圧力的に要請する動きをけん制する声明を出したことも、同会議のもともとの設立趣旨からして筋の通ったことだと言える(これは日本という国でおよそ軍事研究を行うことができないように禁止することを求めているのではなく、同会議としては行わないという姿勢表明である)。

日本学術会議「軍事的安全保障研究に関する声明」(2017年)

 一方、最近の報道で、この任命拒否は日本学術会議に軍事研究協力を要請したいという政府の意向から発したものだったとの取材や読み解きもある。こうなると、政府の振る舞いは、日本学術会議設立の理念・含意に真っ向から反することになる。

 関連して、筆者は2016年に「天文学者と憲法学者のシンポジウム」でこの問題の発言者として登壇したことがあり、その時にこのシンポジウムのテーマソングを作成したことがある(音楽活動が研究活動の傍らのライフワークなので、こうした活動も行っている)。この動画は、スライドで問題を解説する内容にもなっているので、参考にご視聴いただければと思う。

「虚空の名前」(作詞・作曲 志田陽子/志田陽子「歌でつなぐ憲法の話」YouTube公開動画)

アラート機能を取り払った建物は・・・

 なぜ、政府・政治からの自由という形での《学問の独立性》が重要なのだろうか。それは必要なときに政治に対し警鐘、警報(アラート)を鳴らす役割が期待されているからである。日本学術会議法では、政府から日本学術会議に諮問すること(同法4条)とともに、日本学術会議から政府に勧告すること(同法5条)の両方ができる。こうした役割は、常に政府の見解や政策を相対化し、是々非々で熟慮をつくすことによって初めて、果たすことができる。

 憲法には裁判官の身分保障や違憲審査制など、本来、こうしたアラート機能が随所に組み込まれている。学術会議も同じ役割を託された組織といえる。「表現の自由」や「請願権」も、社会の中から起きてくるさまざまなアラートを塞いではならない、というルールである。一般社会から発せられるアラートには、「私はこのままでは生きていけない、助けてほしい」というSOSもあるだろうし、国策や地方自治への批判や提言を含むものもあるだろう。学識者の会議は、こうした一般社会の声をキャッチして、国政上見るべき問題に注目を促し、解決の方策を提案する役割も果たす。また、マスメディアも「表現の自由」を保障された表現主体だが、SOSの声が存在することを社会に知らせたり、識者の見解を知らせたり、自らが見解を示したりする中で、必要な時にはアラートを鳴らす役割を担っている。

 これに対して政府は、こうしたアラート機能を次々に無効化しようとしてきた。警鐘を鳴らす基礎となる情報公開の仕組みも、公文書の管理のおかしさから、機能不全を起こしている。2017年から2018年にかけて起きた南スーダンでの自衛隊の日報問題もそうである。筆者の関心から言えば、昨年に起きた「あいちトリエンナーレ2019」の補助金不交付問題も、決定過程が不透明なため同根の体質的問題があるのではないかと思わずはいられない。

 いま、森友・加計学園問題にこうした機能不全問題をみている国民やメディアも少なくない。そうした背景から行われた国会議員による臨時国会召集要求(憲法53条に基づく正式なもの)が無視され続けてきたことも、同根の問題の一環と言える。

 そして、任命人事の実質が掌握されることによって「アラート機能」が塞がれたものの最たる例が、裁判所と憲法81条(違憲審査権)ではないだろうか。憲法81条がわざわざ明文で裁判所に違憲な国家行為を「違憲だ」と判断する権限を与えているにもかかわらず、裁判所は事実上、重要な政治的問題を含む案件については判断しない(統治行為論)という自己拘束を続けている。1959年の砂川事件最高裁判決以来、この状態が決定的となってしまったのだが、2008年以降、当時の田中最高裁長官(故人)が最高裁判決前に駐日米大使と面会し、公判日程などを伝えたとする米公文書が見つかり、この判決が政治的圧力のもとに書かれた判決だったことが広く知られるようになった。こうした事柄について少しでも知っていれば、さまざまな領域で同じようなことが起きつつあるという連想が働くのが自然で、もしも「そうではない」としたら、政府はそれなりの筋だった説明ができなくてはならないはずだ。

 これらの状況を総合して考えると、いま私たちは、火災報知機を「うるさいから」と作動不能にしてしまった建物の中で――しかも多くの火器を扱っている建物の中で――寝起きしているようなものである。火災報知機を止めてしまった建物で火災が起きたときに、どれほどの惨事が起きるかは、1982年のホテルニュージャパン事件が示している。

死者33名史上最悪の「人災」ホテルニュージャパン火災を振り返る(週刊現代 2017年3月5日)

「ボヤで大騒ぎをして、後で社長の横井に叱られることを恐れていたのです。そのため最初に消防に通報したのは、従業員ではなく、燃え盛る炎を見たタクシーの運転手だったそうです。従業員が通報したのは発見から20分も後だった。・・・」(上記記事本文より引用)

 現在の政府が、とてつもない独裁欲求にかられているのかどうか、筆者には確かめるすべがない。しかし、もっとも善意に解釈したとして、「こっちだって忙しいんだ、些細なことで煩わされたくない」とトップが思い、これを忖度した周囲がここに書かれている「社長と従業員」と同じマインドに陥っている、ということは十分に考えられる。そしてタクシー運転手の役割を担おうとしているのが、学識者や市井の人々だが、その声までも抑えたり排除したりしようとしてはいないだろうか。

言論空間の歪みあるいは傾斜

責任ある言論による抵抗力が落ちることで、言論空間の基礎体力が低下している…(写真撮影 志田陽子)
責任ある言論による抵抗力が落ちることで、言論空間の基礎体力が低下している…(写真撮影 志田陽子)

 政治から「自由」な立場で学者が発言し、裁判官が法的判断を行うということの意味は、ときに結果的に政府方針と違う内容になったとしても恐れなくてよい、ということである。つまりその時々の政治的趨勢に翻弄されないこと、忖度しないこと。行政はその時々の政治的決定(立法)に従うもので(法治主義)、この「政治的中立」の中では出せないアラートを出せるのが「政治からの自由」を保障された機関である。この「自由」の保障があってこそ、行政組織の内部からは出にくい辛口の提言や勧告(学者の場合)、そして法的な判断(裁判官の場合)ができる。だからこそ、これらを公金を使って支える意味がある。

 たとえば2013年に設置された「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)のように、政府の人選・指名による有識者会議というものもありうる。そういうものとは異なり、学術の世界の有識者を、学術の世界の推薦によって選出し任命するところに、日本学術会議という組織の「公的」意味がある。

 

 今回、トップレベルの学者が政府から名指しで疎まれるという出来事を、人びとは目の当たりにした。とりわけ、この一連の流れからは、安全保障や平和国家といった問題領域で発言をしたら、社会の主流から承認されず不利益を受けるかもしれない、という萎縮が広がることが懸念される。萎縮が社会に広まれば、社会全体の思考力が麻痺し、機能不全に陥っていくおそれがある。

 任命拒否の理由の説明は今のところ筋だったものとは言えず、いくら理由を読み解いても推測の域を出ない。このことが、さらに萎縮の余波を広げかねない。こうした中で「この領域で発言すると目を付けられる」といった言説が広まっていけば、その正確な真偽は不明なままでも、その方面の社会的発言は萎縮していくからである。日本学術会議は、学者がほぼ手弁当で時間と労力を提供しているのが実態だと伝え聞いているが、それでも社会的信用や名誉という人格的利益は大きいはずである。この会議メンバーになれる見込みの高い学識者が、先々のことを考えてこの方面の発言を控えてしまうことは十分に考えられ、おそらくそれはすでに十分に起きている。このように、負のシンボル効果はすでに「表現の自由」問題へと飛び火している。

 また、任命が行われなかったことの理由が釈然としない状況では、責任ある発言は行いにくい。学識者や、それに準じる論説を書くメディア関係者は、「ねつ造」などの指弾を受ければ社会的信用を失う、あるいは社会的バッシングを受ける。そのため、事実確認ができていない事柄には、慎重にならざるを得ない。その一方で、人気のある人の発言ならば信ぴょう性に問題があっても大丈夫、というマインドから出てくる発言のほうは、傷つくリスクが少ない分、幅を利かせやすい。デマが浸透しやすい下地ができてしまっているのである。テレビとネットでは、そうした状況が顕著に見られた。言論の環境がそのように傾斜や歪曲をこうむっていることも、法による治療がしにくい分、社会が自己修復を目指さなければならない問題である。

 私たち一人一人が「萎縮しない」という矜持を持つと同時に、政府には任命がなかったことの理由について、もっと率直な説明を行ってもらう必要がある。おそらく説明できない事柄なのではないかということは百も承知で、やはりここを明らかにしてもらう必要がある。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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