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首相辞任・後継報道と「知る権利」

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
9月16日に党総裁指名を受け菅内閣発足。17日、臨時国会開会、18日閉会。(写真:ロイター/アフロ)

内閣総理大臣の辞任表明から与党総裁選までの報じかた

9月16日、菅義偉氏が自民党総裁に指名された。

どの報道も、与党における総裁就任が内閣総理大臣就任を意味する成り行きとなることから、菅氏の写真を大きく掲載し、菅内閣の発足を報じた。これについては新聞各紙がそれぞれ「表現の自由」の主体であるわけだから、それぞれのカラーやスタイルがあっていい。

ただ、そこに至る前の段階については、気になることがあった。その「気になること」を、9月6日掲載の東京新聞「新聞を読んで」に1000字で寄稿した。以下は、その内容をもとに、加筆したものである。

9月16日 総裁指名に関するニュース・Yahoo!ニュースより
9月16日 総裁指名に関するニュース・Yahoo!ニュースより

8月28日、安倍首相が辞任を表明した。持病の悪化が理由と説明された。翌29日の朝刊各紙は、これを一斉に報じた。一面の大見出しはほぼ同じだったが、本文および二面以下で何を主軸に据えたかで、視点の違いが出た。

視点は大きく分けて、▽経済政策への評価、▽民主主義と法に基づく政治が守られたか、▽集団的自衛権の行使を容認することとなった安全保障政策を中心とする外交政策への評価、▽オリンピックの行方と暮らしへの支援を含む対コロナ政策―の四分野に分かれる。どの新聞も、これらのすべてをなんらかの形で振り返り論評していたが、何を真っ先に扱うかを見るとそれぞれのカラーとスタンスがわかる。

経済紙である日経新聞は「未完のアベノミクス」など、辞任が経済に与える影響とアベノミクスの評価検証をまず打ち出した。一方、民主主義や憲法、そして政治倫理と公文書問題について問う姿勢を強く打ち出したのが東京新聞、毎日新聞だった。

東京新聞は、《異論切り捨て》による「社会の分断」の問題をまず指摘し(8月29日1面)、「説明責任『国民が判断』」(同2面)、「現場の声」、「真実明らかにする努力を」(同27面)、「遠のく対話」(30日1面)といったキーワードが並び、民主主義・立憲主義について起きた問題に着眼している。

「公文書クライシス」を連載し、単行本『公文書危機』も出版した毎日新聞も、社説で「民主主義ゆがめた深い罪」(8月30日)と、民主主義と法の問題について問いかけている。

「知る権利」に生じた亀裂

民主主義は、人体にたとえれば血流の《めぐり》のことである。トップダウンではなく、ボトムアップの意思決定が民主主義の基本理念だが、これが実際には絵に描いた餅で終わりやすい。そのために、「民」の側からの血流を上げていく仕組みとして選挙権や請願権や「表現の自由」が保障され、統治担当者(議員や行政職)の意思決定や実務がどうだったかを知る仕組みが、「情報公開法」やメディアの「表現の自由」保障によって確保される。これが憲法が採用しているもっとも基本的な構図なのだが、この7年8か月の間に、この基本構図にいくつもの遮断、ひび割れが生じていた。このことは各紙がそれぞれの視点から厳しい評価をしている。

朝日新聞の9月1日掲載の社説は、「安倍改憲 首相が自ら招いた頓挫」と題して、安倍政権の憲法との向き合い方をクローズアップしていた。2015年の新安保法制が、多くの疑問を残しながら審議打ち切りとなり、騒然とした混乱状況の中で採決されたことは、今でも多くの人の記憶に残っている。その他にも「特定秘密保護法」など、日本国憲法と相いれないのではないか、という指摘を多方面から受けた法律が、合意にいたる熟議(十分な議論)なしで制定されていった。

さらに問題なのは「公文書問題」で、公文書が書き換えられたり廃棄されたり、最終的には作成されないという状況では、後からの検証ができない。「モリカケ問題」や自衛隊の南スーダン派遣中の「日報」、2019年の「あいちトリエンナーレ」補助金不交付の決定過程などが不透明なままで終わりかけているが、これらは終わらせてはならない問題である。

総じて、国民の「知る権利」が塞がれる方向に傾いてきた。そこにはメディアの「不自由」問題も関係している。なぜなら、国民の多くは、国会で行われる衆議院・参議院の本会議を傍聴するところまでは付き合えず、メディアを通してさまざまなことを知る。だから、国民の「知る権利」確保のためには、メディアの取材の自由と報道の自由がしっかり認められなくてはならない。そこにさまざまな不自由が生じてきたことに、メディア自身がはっきりとした検証の姿勢をもってほしいと思う。そこには「喉元過ぎれば…」で終わらせてはならない普遍的意義があるからである。起きてしまった亀裂を修復するにはまず、起きてしまった亀裂を見定める作業が必要である。

知らせるべきことはレース予想ではなく…

さて、前首相退任後の後継者がどうなるかについては、28日から16日まで、各紙が連日で報じた。これについては東京新聞(中日新聞)の敢えて地味な報道姿勢に目が留まった。9月1日から2日にかけて、各紙ともに一面で、菅氏が優勢・有力だ、と大きな写真入りで報じていたが、東京新聞だけは写真を載せず、「自民、簡略型で総裁選 108万党員の声 反映せず」(2日1面)との見出しである。ここでは、「誰が勝ちそうか」よりも「何が問題か」に注目する姿勢が示されていた。さらに、メディアの報道が「勝ち馬に乗れ」という流れを作り出してしまうと、この「空気」が民主的なプロセスを歪めることになりかねない。敢えて地味な紙面には、このことを避ける意志が示されていた。

本稿の元となった記事「新聞を読んで」を書くに当たって、「この理解でよいか、筆者が無用の深読みをしている可能性はないか」と東京新聞に問い合わせたところ、まさにその編集方針でそうした紙面になった、との回答をいただいた。

多くの人・メディアが耳目を引く派手なほうへと向かっているときに、派手な道をとらずにいることは、覚悟のいることである。そして、その覚悟と努力は、なかなか目立たない。目立たないからこそ、ここでこの件に光を当てたいと思った。

公正・公平・中立の理念が神経質に言われる昨今の傾向からすれば、メディアがチアリーダーの役割を買って出ることは、避けようとするのが一貫性のある姿勢に思われるのだが、どうだろう。また、国民の「知る権利」に資する仕事とは何かについても、考えさせられる一幕だった。

果たして、党員・党友投票をしないと決めた党執行部に対して、党地方組織は党員の声を反映させるための予備選実施を相次いで決めた。そして16日、投票が行われ、冒頭のとおりの結果がでた。そして内閣が発足し、臨時会が開催されたのも束の間、18日には閉会となった。前首相時代にも憲法53条に基づく国会開催要求を3か月の長期にわかって黙殺したあと、臨時会開会の冒頭で解散を宣言し、議論の一切を封じたことが憲法違反に問われている。こうした議論抜き・対話抜きの体質が引き継がれてはならないはずである。

「知る権利」を確保し「対話」を代弁する仕事

最後に「表現の自由」と民主主義の視角から。

ジャーナリストが「対話」を求める人々を代弁して「対話」を実現しようとすれば、おのずと異論の側に立つことになる。

ジャーナリズムのこの姿勢は、やみくもな批判とは異なる。しかし為政者の側に体力が弱まってくると、異論対論を消化しきれず、質問者を敵対視し、排除する方向に傾きやすい。この傾いたところを「中立」と見てはならない。

「対話」を代弁・実現する姿勢を果敢に見せたことでテレビ番組から降板させられたキャスターや、ドキュメンタリー映画の題材にまでなった女性記者の話題は、今、あらためて問い直されている。民主主義と報道の自由の弱体化については、国連特別報告者からの指摘もあったことを思い起こしたい。議論抜きの国会閉会も、これと同じ流れにある。

それが仮に、前首相の病気による体力低下のためだったのだとするならば、この部分は、健康体の新首相が引き継いではならない部分である。この部分は、先延ばしにしてきた検証を真摯に行い、軌道修正をするべき部分である。

一般社会の側の「知る権利」が弱められてきたことについて、社会の側があらためて思い起こし、立て直す必要がある。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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