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アーティストが《自由に発言すること》の社会的意味 ― 検察庁法改正問題が起こした市民意識の変容

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
その人々がステレオタイプを超えて自由に発言することが、社会の意識を変える可能性が(写真:アフロ)

採決見送り「散会」からの週明け

検察庁法改正案を審議する内閣委員会が、5月15日、採決なしの「散会」となった。

追記:この記事公開直後の5月18日午前、改正案件そのものが「見送り」の見通しとの報道に接した。

委員会散会後の週末にも、この件への社会的関心は高まり続けていた。そして、この件での芸能人たちの発信・発言についても、この週末、メディア上で大いに取り上げられていた。

検察庁法改正、著名人の抗議は「勉強せずという人が多い感じ…」(指原さん)⇒EXIT兼近は「批判することって自由」(ハフポスト5/17)

泉谷しげる 芸能人の政治的発言に「納税者が政治がおかしいって言うの当たり前」(デイリー 5月17日)

前回の投稿で確認したとおり、民主主義の担い手としての発言資格は、誰でも平等に持っている。

芸能人・アーティストの「政治的表現の自由」――民主主義は誰のもの? 検察庁法改正問題から考える

この局面では、人は、職業名も性別も人種も出身地も関係のない「市民」「有権者」「納税者」「主権者」としてカウントされる。発言しないことも本人の「表現の自由」である。だから、自分で考えて発言しなかったという姿勢も、「納税者の権利だ」という見解も、それぞれに正しい。あえて付け加えるならば、今、なんらかの事情で納税をしていない人も、その国の政策やルールのもとに暮らす住民であるかぎり、自分が服している政治政策について発言する資格がある。

それを特定の人々にだけ否定することは、あってはならないというのも、その通りである。しかし、この憲法ルールは国や自治体に課されているルールで、私人が私人の言論に対して「黙れ」と「言う」ことについては、原則として「それも表現の自由」ということになり、これを禁止するルールはとくにない。脅迫や侮辱、人格権侵害となるような、悪質性の強いものは、それとして扱われるが、冷笑トーンでたしなめる発言は、法的規制の対象とはならないのである。だからこそ、「黙れ」と言われた人には、「黙らないこと」によって対抗する「自由」がある。

しかし、「法律で禁止すべきかどうか」だけが法の議論ではない。この「黙れ」という声について、もう一歩踏み込んで考えてみる必要がある。

モラル・ハラスメントによる沈黙強制

発言者への嫌がらせは、このように続いていた。

小泉今日子への嫌がらせ「ウイルス同様、それ以上に怖い行為」TBS金平氏が批判(デイリースポーツ5/16)

「潰す」「干される」検察庁法改正反対の著名人への中傷続々(女性自身5月11日)

ここでは、モラル・ハラスメント(意欲を失わせるハラスメント)が集中したことが見て取れる。本来あるべき「批判」は、議論の応酬を前提として、発言内容について何かを言うことだが、これらの言葉は、発言者にただ《黙れ》と命じるものなので、「批判」と分けて「沈黙強制」と呼ぶことにする。

「籠の鳥」の著名人

こうした沈黙強制には、上からの――政府または企業などの――強制と、同じ立場の私人同士のものがある。1950年代から70年代のアメリカで、映画やテレビの業界人が言論統制のターゲットとなった「レッド・パージ」では、その二つが絡み合っていた。

この「レッド・パージ」の時期の状況と、日本で芸能人が発言不能の状態に置かれてきたことには、ある共通性がある。それは、彼らは仕事の都合上、彼らを起用するメディアの都合に沿わざるを得ない、という現実だ。この事情を読み解いているのが以下の記事である。

芸能人に政治的発言求める前に 封じているのは誰か 中立・公正、意識しすぎるメディア(毎日新聞デジタル2018年10月29日)

この記事は、「面倒は避けたい」という理由で芸能人の発言内容を縛るメディアについて考察している。そして「芸能人すら自由にモノを言えない社会が、庶民にとって自由な社会であるはずがない。」と結ぶこの記事は、問題の所在を的確に表現している。ここには芸能人のマネージメントをするプロダクションの存在も入ってくるだろう。さらに言えば、メディアやプロダクション自身も、スポンサーの意向を忖度せざるを得ない、というのが、ことの本質だ。

ここで話は、前回の投稿で整理した検察庁法改正案の議論に接続する。自分に利益や優遇(検察庁法改正案の場合には定年延長)を与えてくれる者(スポンサー)(検察庁法改正案の場合には内閣)に対して、人間は、自主・独立を貫くことができるだろうか。歴史の経験は、この問いに対して「否」と言っているように見える。

公的助成による芸術祭は、だからこそ、スポンサー(助成金を出す組織)と出展作品の選定者を、同じ組織には委ねず、分けた上で、芸術系の専門家の判断を尊重してきた。この形で確保されてきた《芸術の自由》が、崩れていくのか、立て直すことができるのかが今、問われている。「芸術」と「検察」 という、まるでかけ離れた世界に見えるものが、じつはパラレルに ーおそらくは同根の出来事としてー 同じ危機を共有しているのである。

しかし、今回考察の対象としている芸能人への沈黙強制については、これとは別の、一般人同士の中で起きている出来事と見てよいだろう。

ステレオタイプという籠

ある特定の人々をターゲットとした沈黙強制は、昨年「主戦場」というドキュメンタリー映画が上映中止となった「しんゆり映画祭」でも見られた。このときの上映への抗議・妨害の中に、明らかに在日コリアンに対する沈黙強制があったことを、妨害を受けた当事者の人々が語っている。《〇〇は黙っていろ》というタイプのものである。

表現の自由の勝利 「主戦場」に長い列 しんゆり映画祭(神奈川新聞  2019年11月04日)

行政は上映守る立場 「主戦場」問題でトークショー(神奈川新聞  2019年12月19日)

バッシングを受けた芸能人の一人、小泉氏の談話(先の記事)を見ても、根は似ている。

前回の投稿で挙げた、タレントのローラ氏の発言への否定的批判についても、同じ構図があてはまる。

ローラの“政治的発言”に非難轟々、「CMタレントは発言するな」というバッシングの異常性(WEZZY 2018.12.27)

芸能人、アーティストなど「著名人」と呼ばれる人々は、公人とは異なるが、一般人の《範》ないし《ロールモデル》となることが期待されているという意味で、シンボル的な存在である。それは、優等生・模範生という意味での《範》とは違う。芸能人が演じる《範》というのは、本来は、悪役なり政治家役なり刑事役なりの《らしさ》である。本来ならば、一人の俳優が役に応じてさまざまな《らしさ》を演じ分けてよいはずだが、これが本人の外見や性別などによって、外から枠づけされてしまうことが少なくない。1960年代の人気女優マリリン・モンローは、恋愛コメディ映画の主役として一世を風靡したが、当人が弁護士役を希望しても叶わなかったという。《可愛い女》《セックス・シンボル》として人気が出てしまった分、そのイメージを壊す役柄ができなくなってしまった典型例だろう。

こうした《枠》ないし《型》のことを、「ステレオタイプ」という。これは《とりあえずの型》のようなもので、一人一人は、この型にはまらない、さまざまな個性を持っている。このとき、「らしくない」「似合わない」という理由で相手の個性を封じてしまうと、《ステレオタイプの押しつけ》となる。これが下に向かって起きるときには「差別」となるが、実際にはこうした「らしさ」への拘束は、社会的地位の高い人にも起きる。最たるものが皇族だろう。

これが今、芸能人と呼ばれる職種の人々に対して起きている。大物芸能人となると差別なのか上方排除なのかよくわからないところもあるが、ともかく「芸能人」、「女」、「歌手」、などなどの記号に対して社会が持つイメージと、《政治について考え発言をする》ということが、似合わないこととされてしまっているのである。

より正確に言えば、旧来のステレオタイプに縛られない発言をする人々が出てきたために、《元の型に戻れ》というバッシング反応が出てきた、というべきだろう。このような現象は、たとえば1910年代イギリスで参政権を求めた女性たちへのバッシング、1960年代アメリカでデモ活動に参加した黒人へのバッシング、1970年代アメリカでLGBTQ(とくにゲイ)が政治的発言を始めたことへのバッシングでも見られた。

(アメリカの「ゲイ公民権運動」でステレオタイプを破り、政治の世界に躍り出た人物ミルク。受けたバッシングや脅迫も熾烈だったという。映画「ハーヴェイ・ミルク」予告編 YouTube(公開))

ステレオタイプを超えて

さらに、以下の記事では、一連の芸能人の発言に対し、「根拠となる自らの立場を明らかにしていない」「政治的な思想なり態度なりを表明したことのない人が(いきなり発言するのは)唐突感が否めない」と論評されているが、ここにも見るべき問題がある。

「小泉今日子ら芸能人の“政権批判”が、どこか空虚な理由」日刊SPA! 2020年5月5日

評論家ではない一般の人々が、自分の感じたことを表明するにあたって、いちいちこのような条件を課されたら、まず発言できなくなる。このように、《〇〇は〇〇らしくしていろ》というステレオタイプを与えられた人々が、《らしくないこと》をしようとすると、高度な要求を課されるというのも、差別のひとつの形である。アメリカ南部では、1960年代まで、黒人が選挙で投票しようとすると、政治について判断するに足る知力があるかどうかを判定する「識字テスト」が課せられ、およそ無理なレベルの高度な知識を要求された。そのため、実際に投票所に行く人は稀だった。今、そのような制度を採用する州があれば、すぐに公民権法違反、または憲法違反の判決が下されるだろう。このような思考は、差別にあたるのである。

(映画「グローリー 明日への行進」の最初のほうに「識字テスト」のシーンが出てくる。(映画「グローリー 明日への行進」予告編YouTube(公開)))

芸能の担い手が《お座敷お抱え》の愛玩物から脱皮して主体性を確立してきた歴史が、今、繰り返されようとしているのかもしれない。

今では日本の伝統芸術の最高峰とされている能も、もとは美少年の座敷芸のようなものだったものが、ある時期、担い手たちの強い意志によって、舞台芸術へと脱皮していったという。

「伝統芸能 能楽」。文化庁公式サイトより
「伝統芸能 能楽」。文化庁公式サイトより

舞妓・芸妓の芸能も、かつては「旦那衆」の「お座敷」に供される愛玩品だったが、今では、芸術芸能の一分野となっている。

「京都をつなぐ無形文化遺産」京都市文化市民局文化財保護課HPより
「京都をつなぐ無形文化遺産」京都市文化市民局文化財保護課HPより

文化人・千利休と政治権力者・豊臣秀吉との関係も、読み解けば、学ぶべきことの宝庫であるに違いない。

メディアという「お座敷」に囲われてきた芸能人の多くが、今回のような明確な気概を示すに至ったのは、歴史の自然な流れなのではないだろうか。

アーティストが「表現の自由」を得ることの社会的意味

SNSやメディア上で、シンボル的な存在である芸能人がバッシングを受けることは、見せしめ的な効果をもつ。それを見た一般の人が「自分も下手に発言をしたらあのように叩かれるのか」と思って萎縮してしまうのである。「干されますよ」という脅し言葉を見れば、「自分もそういう発言をしたら就職に不利になるだろうか」と考える大学生もいるだろう。だからこそ、そういうシンボル的な存在である芸能人が自由に発言できるようになることが必要なのである。アーティストが「表現の自由」を得ることの、本当の社会的意味が、ここにある。

法律(憲法)上の「表現の自由」は、冷笑を禁止する法律も、小馬鹿にした上から目線でたしなめる言説を禁止する法律も認めないとは思う。しかし、それに屈したくないと思う人々の内的格闘には価値がある。「表現の自由」はそうした内的格闘をする人々によって支えられてきた。その格闘は、《ステレオタイプ》の縛りに悩むすべての人に希望を与えるものになるはずである。

この記事は、5月18日の未明に脱稿し、午前8時に公開した。その後、検察庁法改正そのものが「見送り」の見通しとの報道に接した。元検察官たちの苦言が効いたのだとも、世論の高まりが影響を与えたのだとも言われている。追記として、やはり民主主義の担い手としての市民意識、当事者意識に変革が起きつつあるのではないかという思いを強くした。(5月18日11:50記)

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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