Yahoo!ニュース

パンサラッサ以外にもあった、吉田豊が語る「伯楽の漢気溢れるエピソード」

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
8日に行われたパンサラッサの引退式

主戦も驚いたダート挑戦

 8日、冬の冷たい空気に包まれた中山競馬場でパンサラッサの引退式が行われた。稀代の逃げ馬は、日本国内でのGⅠ勝ちこそなかったものの、ドバイとサウジアラビアでそれぞれGⅠを勝利。芝とダートの両方で大仕事をやってのけた様は、正に大谷翔平選手ばりの二刀流のサクセスストーリーだった。

23年サウジC(GⅠ)を制し、芝とダート両方のGⅠ制覇を達成したパンサラッサ。鞍上は吉田豊騎手
23年サウジC(GⅠ)を制し、芝とダート両方のGⅠ制覇を達成したパンサラッサ。鞍上は吉田豊騎手

 ドバイでは一昨年ドバイターフ(GⅠ)を1着同着で制し、サウジアラビアでは昨年のサウジC(GⅠ)を優勝したわけだが、後者はダートでのレースという事もあり「参戦を表明した際にはかなりの批判の言葉もいただいた」と、管理した矢作芳人調教師は吐露した。
 前年にドバイターフを勝ち、天皇賞・秋(G I)では世界最強とも言われるイクイノックスに一泡吹かせようかという2着に善戦。しかし、サウジCに参戦を表明した時点でのダートでの実績は16頭立ての11着というのが1度あるのみ。外野がかまびすしくなるのも頷けた。
 かくいう矢作自身も、簡単な挑戦ではないと考えていた事が、引退式でのスピーチからうかがえた。
 その挑戦を「難しい任務」と評し、遂行したパンサラッサ自身やスタッフのお陰と語った上で、手綱を取った吉田豊にも感謝の意を述べた。
 しかし、吉田に言わせると「感謝するのは僕の方です」となる。

「感謝するのは僕の方です」と語る吉田豊。サウジC優勝時
「感謝するのは僕の方です」と語る吉田豊。サウジC優勝時

 「サウジCを使うと聞いた時は、正直『え?!』と思いました。ダートの実績がなかったし、もし逃げられなかったら、キックバックのダートを浴びて全く競馬にならずに終わってしまう可能性が高い。矢作先生でなければ、あの挑戦はなかったと思います」
 サウジアラビアへ向かう飛行機は彼と一緒だったのだが「ダート戦で逃げられなかったら終わりですよ」と何度も繰り返す等、緊張のほどが感じられた。そのくらい、主戦ジョッキーにとっては異次元のチャレンジだったという事だろう。

サウジアラビアへ向かう飛行機では終始緊張気味の言葉が口から洩れていた吉田豊
サウジアラビアへ向かう飛行機では終始緊張気味の言葉が口から洩れていた吉田豊

年月を経ても風化しなかった思い

 そもそも前年のドバイターフ挑戦の際、海外遠征にもかかわらず吉田とのタッグが継続された経緯として、以前、別の原稿で記したエピソードがあった。すなわち、吉田がリージェントブラフでドバイWC(GⅠ)に挑んだ2004年、当時技術調教師だった矢作の交通費を、吉田が持ったという話だ。漢気が服を着ているような矢作が、この時の恩を忘れるわけがなく、自らの管理馬であるパンサラッサの挑戦にあたり今度は吉田をドバイへ招待した。2件の遠征の間に横たわる20年近い歳月にも、その気持ちは風化する事もブレる事もなかったのだ。ちなみに伯楽に言わせると「そういう裏話もあったけど、それより何より吉田豊の騎乗技術を見込んでの事」となるのだが……。

22年ドバイターフ(GⅠ)を1着同着で制した吉田豊とパンサラッサ(右端)
22年ドバイターフ(GⅠ)を1着同着で制した吉田豊とパンサラッサ(右端)

他にもあった伯楽の漢気溢れる逸話

 さて、そんな2人の関係だが、リージェントブラフからパンサラッサまでの長い期間、疎遠になっていたわけでは、勿論ない。ここでジョッキーがまた一つ「矢作先生らしい」と語る逸話がある。
 それは今から丁度10年前の、2014年の事だった。吉田は新潟競馬場での新馬戦で、1頭の騎乗を矢作から依頼された。レーヌドブリエというその牝馬は、新馬戦で5着に敗れたが、翌15年、500万条件で再びその背中を任されると、今度は勝利。すると、続くローズS(GⅡ)他、計6戦連続で騎乗する等、同馬の引退までに幾度もその手綱を取る事になった。
 また、17年にはホウオウドリームという馬が東京へ遠征。その際も依頼され、これを勝利すると、続く1戦もまた東京で吉田が騎乗。見事に連勝を決めてみせた。吉田は言う。
 「この馬の引退間際(20年)には3戦連続、関東圏で使ったのですが、その際も全て乗せていただけました」

ホウオウドリーム騎乗時の吉田豊(右)と矢作
ホウオウドリーム騎乗時の吉田豊(右)と矢作

 レーヌドブリエとホウオウドリームの2頭に共通するのは、いずれも母がメジロドーベルという点だ。
 吉田豊とのコンビで、オークス等GⅠを5勝もしたメジロドーベルは、師匠の大久保洋吉が管理していた。そして、その産駒も全て大久保の厩舎に入った。メジロアレグレット、メジロシャレード、メジロオードリー、メジロダイボサツらが該当馬で、それらの主戦は全て吉田だった。しかし、15年には大久保の定年のより厩舎が解散。そんなタイミングもあり、レーヌドブリエとホウオウドリームは矢作厩舎に入ったのだ。吉田が述懐する。
 「大久保厩舎の解散で『あぁ、もうドーベルの子供にも乗れなくなっちゃうんだなぁ……』と淋しく感じていたら、その気持ちを汲み取るように、矢作先生が依頼してくださいました。また乗れると思うと嬉しかったし、矢作先生の“漢気”を感じずにはいられませんでした」

「矢作先生(左)の漢気を感じずにはいられませんでした」と語る吉田豊(右)
「矢作先生(左)の漢気を感じずにはいられませんでした」と語る吉田豊(右)


 矢作、吉田、パンサラッサのトロイカ体制は終わりを告げたが、伯楽とベテランジョッキーの物語はまだ続きがありそうだ。パンサラッサという蝶番で、より強固になったと思える2人の絆の新たなるストーリーは果たしてどう展開していくのだろう。漆黒の夜空の下で行われた個性派の引退セレモニーを見て、そんな期待をせずにはいられなかった。

引退式でパンサラッサに騎乗する吉田豊と、右から2人目が矢作
引退式でパンサラッサに騎乗する吉田豊と、右から2人目が矢作

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)



ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

平松さとしの最近の記事