自身初のGⅠ制覇に挑むジョッキーが、天皇賞・春に懸ける思いとエピソード
初めての競馬場が天皇賞当日
菱田裕二が生まれたのは1992年9月だから、現在31歳。京都競馬場からクルマで15分くらいのところで生まれ育ったという。
幼少時はJリーグ・京都サンガの下部組織でプレーするほどサッカーに興じたが、小学6年生になった04年に転機が訪れた。
「父はギャンブルを一切しない人でしたけど、ピクニック的な感覚で、家族揃って京都競馬場へ行きました」
その日、行われたレースで、1頭の馬が大逃げをすると、場内が沸きに沸いた。結果、そのまま逃げ切った。横山典弘の神騎乗で、イングランディーレが制した天皇賞・春(GⅠ)だった。
この日を境に、目指すはサッカーのゴールではなく、競馬のゴールに替わった。
「競馬の本を読みまくるようになったし、筋トレやランニング等、騎手になるための努力をするようになりました」
しかし、中学2年の時、その旨を両親に伝えると、反対された。
「危険だからと反対され、ショックでした」
ところが中学3年になったある日、父から勧められたのは、なんと“乗馬”だった。落ち込みながらも毎日のトレーニングは欠かさずに続けていた我が子の姿を見て、父親の方が翻意してくれたのだった。
競馬学校の受験は合格したが、1年の時にいきなり留年となった。
「腐りそうになりました。でも、最初は反対をしながらも、最終的に許してくれた家族のためにも、中途半端に辞めてはいけないと考えを改めました」
見返してみせるというつもりで頑張ると、テストの点は毎回トップ。3年後の2012年、無事に卒業し、栗東・岡田稲男厩舎から夢にまで見た騎手デビューを果たした。
テーオーロイヤルとの出合い
「その後は師匠の岡田先生を始め、本当に沢山の方々に助けていただきました」
3年目の14年にはタガノグランパで日本ダービー(GⅠ)に騎乗。4着に健闘すると、菊花賞(GⅠ)でも4着に奮闘した。
いずれGⅠを勝てるかと思いきや、競馬の世界はそれほど甘くなかった。その後も有馬記念(GⅠ)や天皇賞・秋(GⅠ)、皐月賞(GⅠ)等でも騎乗機会をもらえたが、タガノグランパの4着を上回る結果を残す事は、なかなか出来なかった。
そんな21年に出合ったのがテーオーロイヤルだった。師匠の岡田が管理するこの馬が、デビューして間もない頃からその鞍上を任された。
すると、22年にはダイヤモンドS(GⅢ)を優勝し、勇躍、天皇賞・春(GⅠ)に挑戦した。
「ダイヤモンドSを勝った後も状態は良くて、返し馬を終えた時点で馬からの自信も伝わり、僕自身も手応えを充分に感じました」
結果はタイトルホルダーの3着。
「負けはしたけど、自分の中では最も勝ちに近付けたGⅠでした」
悔しさと共に、過去1番で印象に残るGⅠとなった。
秋にはタッグでジャパンC(GⅠ)にも挑戦した。菱田にとっても初めてのジャパンC騎乗だった。
「こういった国際舞台となるレースには乗りたいし、乗らなくちゃいけないと、ずっと考えていました。テーオーロイヤルにとっては決して合っている舞台とは言えなかった分、負けてしまった(14着)けど(ヴェラアズールで)勝ったライアン・ムーアさんの馬群を縫いながらもブレーキをかけずに乗るという素晴らしい技術を、目の当たりに出来て、勉強になりました。こういう経験をさせてくれたテーオーロイヤルには感謝しかありません」
今週末の天皇賞に懸ける想い
その後、1年近い長期休養を挟んだテーオーロイヤルだが、昨秋にカムバック。今春のダイヤモンドSで菱田が改めてコンビを結成するとトップハンデもモノとせず快勝。更に前走の阪神大賞典(GⅡ)では2着に5馬身の差をつけて重賞連勝を飾ってみせた。
「一昨年の時点で完成していると感じていたのですが、長い休養を経て戻って来たら、更に強くなっていました」
そんな相棒と、今週末、一昨年以来の天皇賞・春(GⅠ)に再挑戦する。菱田にとって、これが30回目となるJRAのGⅠ騎乗を目前に控え、その心境を次のように語った。
「ずっとお世話になっている師匠のためにも、色々な経験をさせてくれたテーオーロイヤルのためにも、勝って恩返しをしたいです」
冒頭で記したように、京都は地元のため、当日は「おそらく家族も総出で応援に来てくれるはずです」と言う。騎手になる事を最初は反対したという父も「今では誰よりも応援してくれる理解者」だそうだ。菱田少年がその父に連れられて初めて競馬場を訪れたのが、04年の天皇賞・春当日。それから丁度20年。同じ淀で、成長した姿を見せる事が何よりもの親孝行となるだろう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)