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アウシュビッツ収容所囚人からの手紙をデジタルで公開:Google Arts & Culture

佐藤仁学術研究員・著述家
アウシュビッツ博物館提供

 第2次大戦時にナチスドイツが約600万人のユダヤ人、政治犯、ロマなどを殺害した、いわゆるホロコースト。そのホロコーストの象徴のような施設が、ポーランドに設立されたアウシュビッツ絶滅収容所で、アウシュビッツでは約110万人が殺害された。ナチスドイツの収容所政策は「労働を通じた絶滅」だったので、死ぬまで働かされ、働けない子供や老人は収容所に到着直後に選別されてガス室で殺害された。そのアウシュビッツ絶滅収容所から外部に送られた手紙が、Googleのデジタルアーカイブ「Google Arts & Culture」にも掲載されることになった。アウシュビッツ博物館に保管されていた21の手紙で、アウシュビッツが建設されて一番最初に移送されたポーランド人のTadeusz Korczowski氏の手紙だ。Googleでは他にも様々な歴史や自然科学に関する世界中の知をデジタルアーカイブGoogle Arts & Cultureで公開し、世界中の研究者の研究や学生の学習などに活用されている。

アウシュビッツから送られたKorczowski氏の手紙(アウシュビッツ博物館提供)
アウシュビッツから送られたKorczowski氏の手紙(アウシュビッツ博物館提供)
アウシュビッツから送られたKorczowski氏の手紙(アウシュビッツ博物館提供)
アウシュビッツから送られたKorczowski氏の手紙(アウシュビッツ博物館提供)

6月14日、最初のポーランド人がアウシュビッツに移送されたのを記念して

 アウシュビッツへの大量移送が開始されて80周年を記念して、囚人の手紙をデジタルアーカイブとして6月14日に公開することになった。1940年6月14日は、最初のポーランド人728人(主に政治犯とレジスタンス参加者で生き残ったのは325人)、ユダヤ人20人が刑務所からアウシュビッツに移送された日。Googleのデジタルアーカイブでのタイトルも「私は6月14日からアウシュビッツ収容所にいた」(I have been in the concentration camp Auschwitz since June 14 …)である。Korczowski氏の最初の手紙は1940年8月7日で「私は健康で元気です。可能であればお金を送ってください」と家族あてに書かれている。また母親の誕生日に母親に宛てて書いた「お母さん、お元気でお過ごしください!愛しています」といった手紙も公開されている。1940年8月31日の妻宛ての手紙には「冬に備えて準備をしてください。靴の準備も忘れずに」と書かれている。1940年10月13日の手紙には「先日の手紙はとても嬉しかったです。生き返りました!」と妻への返事が書かれている。

アウシュビッツから送られたKorczowski氏の手紙(アウシュビッツ博物館提供)
アウシュビッツから送られたKorczowski氏の手紙(アウシュビッツ博物館提供)

 アウシュビッツ博物館のスポークスマンのBartosz Bartyzel氏は「書かれた手紙はドイツ語のみです。ナチスドイツが内容を検閲するからです。収容所内の不平不満を書くことは許されませんでした。だからドイツ語での"Ich bin gesund und fuehle mich gut"(私は健康で元気です)ばかりが目立ちます」と語っているように、リアルな様子は決して伝えることはできなかった。そのため公開された手紙を見ても当時のリアルな収容所の様子や書き手の本心を知ることはできないが、それでも約80年前の絶滅収容所からの囚人の手紙は歴史的な価値は高い。

 アウシュビッツに収容されたユダヤ人は他の収容所に移送されることはあっても、戦争が終わるまで解放されることはなかったが、ポーランド人だったKorczowski氏は1941年10月にアウシュビッツからクラクフの刑務所に送られ、1942年4月に解放され、その後はレジスタンス活動を行っていた。戦後、共産党に再び逮捕され1946年1月に解放された。

ユダヤ人囚人の手紙は家族や友人の追跡のため

 ポーランド人のKorczowski氏はドイツ語で手紙を書くことが許されて家族にちゃんと届けることができたが、ユダヤ人が手紙を書くことは別の意味を持っていた。ユダヤ人に手紙を書かせることは、その宛先にナチスドイツが踏み込んで、ユダヤ人の家族や親せき、友人を逮捕することが目的だった。つまりまだ逮捕していないユダヤ人を探すために囚人に手紙を書かせて、その住所にユダヤ人が隠れていることが発覚していた。そのことの様子はアウシュビッツ絶滅収容所に収容されていた筆者の「アウシュヴィッツの音楽隊」で以下のように記載されている。

1943年も終わりに近いころ、アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の収容者は、家族にあてて手紙を送ることを収容所長から許可された。いや正確には許可という言葉を使うべきではないだろう。なぜなら実際にはこれは一種の命令で、囚人たちはそれを果たすかどうか厳しく監視されていたからである。だからこれに従いたくない者たちは彼らの通信を全く架空の相手にあてたりした。

これらのはがきは真面目に書かれた場合には、ゲシュタポが探し回っていた様々な事柄の隠されている場所を明るみに出すことになるのだった。収容者たちはこのことを警戒した。単語数の制限、金や品物を送ってくれるように頼まないこと、一身上のことだけを書くこと、発信地としてビルケナウ労働収容所と記すこと等、いくつかの条件を囚人たちは課せられていた 。

出典:シモン・ラックス、ルネ・クーディー著、大久保喬樹訳『アウシュヴィッツの音楽隊』音楽之友社、2009年 P15

Google Arts & Culture

学術研究員・著述家

グローバルガバナンスにおけるデジタルやメディアの果たす役割に関して研究。科学技術の発展とメディアの多様化によって世界は大きく進化してきました。それらが国際秩序をどう変化させたのか、また人間の行動と文化現象はどのように変容してきたのかを解明していきたいです。国際政治学(科学技術と戦争/平和・国家と人間の安全保障)歴史情報学(ホロコーストの記憶と表象のデジタル化)。修士(国際政治学)修士(社会デザイン学)。近著「情報通信アウトルック:ICTの浸透が変える未来」(NTT出版・共著)「情報通信アウトルック:ビッグデータが社会を変える」(同)「徹底研究!GAFA」(洋泉社・共著)など多数。

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