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イギリスが大幅に妥協。ジョンソン首相が北アイルランドに「拒否権」をもたせる新提案:ブレグジットで。

今井佐緒里欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者、作家
10月2日保守党の年大会のジョンソン首相。背後に「ブレグジットを成し遂げる」。(写真:ロイター/アフロ)

大きな妥協

ジョンソン首相が、バックストップに対して新しい案を発表した。

10月17日に行われる欧州連合(EU)首脳会議に向けて、具体案を出したのだ。

4年の移行期間の間(2020年末に終了)、北アイルランドはEU関税同盟から抜けるものの、農業だけではなく、他の分野でもEUのルールにとどまる。ただし移行期間終了時と、その後さらに4年毎に、北アイルランド議会は、EUのルールに残るかどうかを決めることができるというものだ。要するに、北アイルランドは、EUに対して「拒否権」を持っているということになる。

具体的な税関、検疫等のコントロールはどうなるのか。

◎アイルランド島の国境については、電子化した申告のもとに、分散化した形で行われる。コントロールの数は大幅に減らし、国境にあるわけではない関連企業において行われるということである。

◎イギリスからアイルランドに運ばれる食料、農産品、あるいは工業・化学品等については、港において、EU基準に従っているかどうかのコントロールが行われる。

◎北アイルランド政府は、規則・規制についての相談はできるが、拒否権は持っていない。

確かに、日本とEUのEPAでも、TPPでも、今は自己申告制が主流になっているくらいグローバル化の中で手続きが簡素化されているのだから、上記のような措置でそれほど問題は起きないかもしれない(ただ、肝心の「人の移動」についてはどうなるのか、まだ情報を入手していない)。

ジョンソン首相は「そうだ、イギリスは妥協をした。ヨーロッパの友人たちはこのことを真に理解して、今度は彼らが妥協をする番であると心から期待している」と語った。

元々は、アイルランド島だけをEUの関税同盟(と単一市場のルールの一部)に残すというのが、EUが最初に提示したバックストップ案だったのだ。これを「ブリテン島と北アイルランドの間に境界を置いて、両者を分断するのか」と、メイ前首相の政府が猛反発した。それならと、ブリテン島もEUの関税同盟に残る案を提示して、EU側に受け入れられたのだった。メイ首相は親EUで、元々EU残留派だったので、こういう案が出たのだろう。ただ、分断に反対する声はイギリスで幅広いものだったと思う。

今までの待ち期間に「バックストップは北アイルランドに限定」という元々の案が再度聞こえてきたことは、以前の記事で書いたとおりである。

参考記事:バックストップは北アイルランドに限定か。法の抜け道を探るジョンソン首相と政府。

イギリスの一部の有志政治家達が唱えていると報道した記事もあったが、どうも欧州大陸のほうからも聞こえてきていて、どこが出所なのかはっきりわからない情報だった。それに、報道はごく一部のメディアで、大きく取り上げられたわけでもない。

「ジョンソン首相は暴君で、合意なき離脱をもくろんでいる!」というピリピリした雰囲気の中で、この情報が大きなニュースにならなかったのは無理もないが、筆者はこのような声が再度出てきたことに大変驚いた。妙に気になって仕方がない情報だったので、この欄で紹介した。

今回のジョンソン首相案では、北アイルランドはEU関税同盟から撤退するものの、EUのルールは守ることになる。ジョンソン政権内で極秘に進められていた、EUへ譲歩する大きな妥協だったのだろう。まさかジョンソン首相が了承するとは思わなかった。それにしても、北アイルランドに「拒否権」をもたせるとは・・・!! この部分に関してはおそらくEU側も一枚噛んでいるのでは、と筆者は疑っている。

民主主義の土俵で

内容としては「なんて頭がいいんだ!」と、感心した。

「不満なら総選挙をしろ」という主張といい、こういう戦略をたてられる人がいることが、さすが民主主義発祥の地の一つとうならせる。

「北アイルランドでは、国民投票でEU残留派のほうが多かったのに、彼らのEU市民権を剥奪するのか」というのは、反論しにくい主張である。剥奪したら、完全にそっちが悪者になってしまうからだ。だから、彼らの権利は全部は剥奪しない。それどころか、彼らに決めさせようというのだ。より一層民主的ではないか。

ただ問題は、北アイルランドは今、自治政府がつくれなくて無政府状態になっているほど、イギリス派とアイルランド派が拮抗して対立していることだ。このような場合、ロンドンの政府が直接統治できることになっている(イギリス領なのだから、当然かも知れないが)。

あまりにも不安定な状態で、永遠に続く火種を抱える措置なのではないかという不安に襲われる。

参考記事:英国EU離脱で、北アイルランドの本当に「マズい」状況。鍵を握るアイルランド首相はどういう人物か

この案に、強硬派のイギリス側であるDUP党は賛成している。一方で、アイルランド島の統一を目指す強硬派のシン・フェイン党は反対している。すでに不協和音が現れている。

EUは合意するか

EU側にとっては、「厳格な国境を設けない」「アイルランド島が南北で協力して経済を保持する」「EU単一市場と、その中におけるアイルランドの保護」という3つを法的に保証しなければならないという。 「法的」がポイントだ。

これは筆者の推測だが、おそらくEU側は、法的な位置づけを明確にすることを条件に、大筋では受け入れるのではないかと思う。

まず、内容的に拒否しにくい。北アイルランドの市民に決めさせることは、民主的な方法で文句が付けにくい。あまりにも位置づけが不安定なのが欠点なのと、あまりに「住民に決めさせる」とやると、またぞろカタルーニャあたりが騒がしくなりそうなのが難点かもしれない。

しかし、他に具体案がない。これを土台に話し合うしかない。ジョンソン首相は、「これを受け入れないのなら合意なき離脱だ」と言っている。イギリス内に首相を批判する人は大勢いても、代案を出す人は誰もいない。離脱延期は解決ではない。労働党が9月下旬に党大会で決めた「再国民投票」も、解決にはならない。

もしここで、労働党が決断を先送りせずに、多くの党員が主張したように「EU離脱反対」とはっきりと採決していれば、EU側の考えが多少変わったかもしれないのに。強引にでも党内をまとめた保守党と異なり、「本当にヘタレな野党だ」と批判することはできるが、欧州の左派はどこも苦悩している。もしかしたらここが分岐点で、労働党の大没落につながるかもしれない予感がする。

EU側としても、合意なき離脱だけは避けたい。バルニエ交渉官は「それだけはありえない」と言っている。

それに、もういい加減にイギリスに振り回されるのにうんざりしているのだ。フランス、ルクセンブルク、フィンランド等、あちらこちらの首脳から不満の声が出てきていた。

しかも、ユンケル委員長と委員会の任期は10月末で終わる。目下、デア・ライエン新委員会の結成でもめており、ブレグジット問題はユンケル委員長の時代で決着を付けたいに違いない。 ともあれ、ジョンソン首相は妥協したのだから。

ユンケル委員長は、アイルランドのバラッカー首相の意見を注意深く聞くという。もしバラッカー首相が了承すれば、決まるだろう。EUはアイルランドの味方というポジションを堅持しているからだ。アイルランドはどう出るか。もし了承しなかったら? 他の加盟国は?(アイルランドはいずれは、シェンゲン協定に入るという切り札?爆弾?をもっているが)。

欧州大陸の人達にとって、大国イギリスがEU離脱することはどういう影響をもたらすのかと不安をもたせるものの、それでも結局は「他人事」である。極右の政争の具に使われる心配のほうが大きいのではないか(といっても、大きな力をもつ極右政党で、EU離脱を唱えている所は、欧州大陸には見当たらないと言っても過言ではない)。だからわざわざメルケル首相が「加盟国の団結と一致」を強調しているのだと思う。

英国議会と欧州議会

となれば、後は英国下院と、欧州議会だ。

英国下院では、保守党とDUP党の与党では過半数に届いていないのが、最大の難点だ。

しかし、保守党は今、首相が豪腕を奮った結果、「合意なき離脱もやむなし」で一応まとまっている。党議拘束に反対するEU残留派は除名して追い出したので、この新案を「EU残留」の立場からひっくり返そうとする「獅子身中の虫」は、もういない。ちなみに、あのメイ前首相すら、ジョンソン首相の党議拘束には従った。 どうなるのか、ここが山場だろう。

同党内のEU残留派は反対票を投じるだろうが、離脱派はどうだろう。党が決定した「再国民投票」は手段であって、具体的政策ではない。

以前に下院で行われた「示唆的投票」では、「合意なき離脱回避で、ブレグジット中止」案には、110人ほどの労働党議員が大量棄権した。あの人達の動向が気になるところだ。

今回の投票に、コービン党首は党議拘束をかけるのだろうか。かけられるか。その行為に大義はあるか。ジョンソン首相が保守党員にかけた「合意なき離脱もやむなし」につながる党議拘束には、「国民投票の結果を実現する」という大義があった。やはり、労働党の運命は、ここが分水嶺になりそうだ。

そして、多くの人が忘れているが、ブレグジット案は欧州議会で可決されなければならない。

欧州議会では、第一報を聞いた反応はポジティブなものではなかったというが、欧州理事会で合意に至る議定書ができあがれば、「他に良い方法もないので、妥協する」という理由で大半の議員が、そして「喜んで」と極右やイギリスの議員たちが賛成にまわるのは想像にかたくない。

離脱へと加速するか

一気に、イギリスのEU離脱が現実味を帯びてきた。

イギリスとしては、北アイルランドをイギリス側にいつまでも付けておくために、本当に二つの島の間に橋をかけるかもしれない。橋は技術的に無理なら、トンネルを掘るかもしれない。きっと本気なのかもしれない。

参考記事:スコットランドと北アイルランドに橋を架ける案が浮上中。ジョンソン首相が指示

それにしても、「国民投票で離脱が多数派だったから、離脱するのだ。主権在民だ、市民の意志だ。だから、バックストップ問題も、北アイルランドの市民に決めさせるのだ。不満なら総選挙をして、市民に問おうではないか」ーーなんという見事な戦略だろう。

ウィストン・チャーチルは言った。「民主主義とは、今までに行われてきた他のすべての政治体制を除いて、最悪の体制だと言われています」と。つまり「全部最悪な中で、民主主義は一番マシ」ということだ。やはりチャーチルの国である。

ちょっと先走るが、この「市民に決めさせる」の連鎖が、スコットランドに続く日はやって来るのだろうか。

離脱期限まで、あと28日。

欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者、作家

フランス・パリ在住。追求するテーマは異文明の出会い、平等と自由。EU、国際社会や地政学、文化、各国社会等をテーマに執筆。ソルボンヌ(Paris 3)大学院国際関係・欧州研究学院修士号取得。日本EU学会、日仏政治学会会員。駐日EU代表部公式ウェブマガジン「EU MAG」執筆。前大使のインタビュー記事も担当(〜18年)。編著「ニッポンの評判 世界17カ国レポート」新潮社、欧州の章編著「世界で広がる脱原発」宝島社、他。Association de Presse France-Japon会員。仏の某省関連で働く。出版社の編集者出身。 早大卒。ご連絡 saorit2010あっとhotmail.fr

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