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村田諒太の世界戦で涙したリングガールが写真集 「家賃が払えなくても、どうにかなると信じ続けました」

斉藤貴志芸能ライター/編集者
(C)2022 by Mana Amano

村田諒太×ゴロフキン、井上尚弥×ドネアとボクシング世界戦のリングガールを務め、試合後に涙する姿も話題になった天野麻菜が、31歳にして初の写真集『なまのまな』を発売した。グラビアは8年ぶりの再開で、スレンダーでFカップというボディを存分に披露している。インスタではビールで乾杯する動画を9年間、3300日以上にわたり、1日も欠かさずアップしていたりも。17歳で上京してからの波乱に満ちた芸能人生を前編、後編と語ってもらった。

なりたい職業が多すぎて女優で全部演じようと

――グラビア、ラウンドガール、パチンコ、フットサルに、毎日上げているビールの動画と活動が多岐にわたりますが、もともと志していたのは女優なんですよね?

天野 そうです。女優になりたくて、東京に出てきました。

――小学3年生からの夢だったそうですが、3年生のときに何かあったんですか?

天野 ふと「女優になろう」と決めたんです(笑)。テレビっ子でドラマをよく観ていたこともありますけど、何よりなりたい職業が多すぎて。学校の先生も楽しそう、キャビンアテンダントさんもカッコいい、お医者さんもなれるものなら……とかいろいろ考えながら、人生1回で全部を叶えるのは無理だなと。そんなときにテレビを観ていて、「あれ? 女優さんになったら役で全部できるのか。じゃあ、女優で!」と決意を固めてしまったんです(笑)。小4のときの担任の先生にも「キミは女優になったらいいよ」と勧めてもらって、卒業アルバムにも将来の夢を“女優”と書いていました。

――好きなドラマもあったんですか?

天野 『やまとなでしこ』が流行っていた頃で、あの時代のドラマはめちゃめちゃ好きです。『ランチの女王』とかも観ていました。

教育実習の先生に連絡先を聞きに行きました

――目立ちたがりでもあったとか?

天野 そうだったかもしれません。国語の本読みですごく感情を込めて、担任の先生に「演劇部に入りなさい」と言われたんです。入ってからも「主役しかありえない」くらいの勢いで、学芸会に出たのを覚えています。中学に入ってからは控えめになりましたけど、学級委員は自ら手を上げて「やります!」みたいな。

――その頃からモテていたんでしょうね。

天野 残念ながら中学まではモテた思い出がなくて、高校でやっとですかね。でも、人気の男子とかでなく、「何を考えているんだろう?」というような変わった人に告白されることが多くて。私も同級生には興味ありませんでした。年上の人に憧れを抱いて、教育実習の先生が好きすぎて「連絡先を教えて!」とお願いしました。

――2週間くらいの実習の間に?

天野 そうです。「決まりで教えられない」と言われたんですけど、「テストで100点取るから!」と言ったりして。結局その2週間ではダメだったんですけど、あとで学校に挨拶に来たとき、コソッと連絡先をもらって、何年もメールしていました。つき合うとかではなくて、やっぱり大人への憧れという感じでしたね。

高校を辞めて上京してキッチンで寝泊まりして

――地元の大阪から上京したのは、高3のときだったとか。

天野 18歳になる年の春ですね。でも、高校は辞めてしまったんです。学校に通っていても女優の夢は叶いそうになくて、どうしたらタレントになれるか考えながら、しょっちゅう東京に遊びに行っていたら、出席日数が足りなくて留年してしまって。もともと卒業したら上京するつもりでしたけど、1年早めて、キャリーバッグひとつで出てきました。

――大胆ですね(笑)。

天野 今考えたら、そうですよね(笑)。母も、「明日から東京に行きます」と言ったら「あら、そう。行ってらっしゃい」くらいな感じで。バイトした貯金をちょっと持って行きました。

――それまでもオーディションを受けていたり?

天野 当時は受け方もわからなくて。東京に行ったらタレントになれるものだと、勝手に甘い期待を持っていました(笑)。

――事務所は決まっていたんですか?

天野 紹介してもらえる、というくらいでした。東京に出ていた友だちがスカウトされて、本人は興味ないから「麻菜ちゃんを紹介しようか」と言ってくれて。未成年だったので、一度母親も東京に来てもらって、事務所の社長さんとお会いして、所属になったのがスタートでした。

――住むところは出てきてから探したんですか?

天野 その友だちの実家に居候させてもらいました。でも、3ヵ月で喧嘩してしまって。以後は知り合った人に「1週間だけ泊めてください」とか、転々としていました。人の家だから、キッチンしか寝る場所がなかったりもしました(笑)。

お金がなくて、よく生きていたなと(笑)

――食べるのにも困るような時期もありました?

天野 ありましたね。お金は全然なかったので。バイトもしましたけど、家賃もなかなか払えず、電気はよく止まりました(笑)。今思うと、よくまともに生きていられたなと。でも、ごはんにこだわりはなかったし、お洋服も人にもらったりして、何とかやってきました。20歳の頃、1回就職したんです。社宅に住ませていただいたので、そこからやっと人間らしい生活になった感じです。

――就職したのは、一度芸能界を諦めたから?

天野 ではなくて、バイトをしていると時間の使い方が難しいと感じていたとき、知り合った会社の社長さんが「芸能をやりながらでもいい」と融通を利かせてくれたんです。おかげで社員として働きながら、たまに舞台やグラビアをやったり、二足のわらじでいけて。その会社には1年半くらいいました。

――どんな仕事をしていたんですか?

天野 会社自体はIT系でしたけど、上司がコンサルタントもやられている方で、社内で高卒認定を取る人たちのための塾を開設したんですね。私自身、高校を中退していたので、まず自分で認定を取って、そのノウハウを伝える講師をしていました。

――教える側になったんですね。

天野 はい。塾講師をしながら、生徒をどう増やすか、どう運営していくか、経営にも携わらせてもらいました。将来、自分で事務所を立ち上げたときに、知っておいたほうがいいことも教えていただきました。

抵抗あったグラビアで雑誌に載ったら楽しいかもと

――グラビアを始めたのは19歳からでしたっけ?

天野 18歳か19歳から、ちょこちょこやらせてもらいました。

――21歳のときに「ヤングジャンプ」の「ぷるるんQUEEN」に選ばれて。

天野 懐かしい! 「ヤングジャンプ」さんの携帯サイトで、投票で4回勝ち抜いて誌面に載れることになったんです。それをきっかけに他の雑誌にも載せていただいて、DVDも出せました。

――グラビアにやり甲斐も感じました?

天野 最初はイヤでした。女優になろうと思って東京に来たのに、なぜ水着を着ないといけないんだろうと。それもあって、グラビアを始めるまでにタイムラグがあったんです。でも、東京に来て何もしてないのもどうかと思って。「ここまではできません」という線引きをちゃんとして、そこを越えなければいいということでやっていました。

――やってみたら楽しさも?

天野 雑誌に載ると地元の大阪の人の目にも触れて、「天野じゃね?」と同級生から連絡が来たり。母にも「買ったよ」と言われて、「楽しいかも」となりました。

――反響が喜びだったと。

天野 そうです。あと、カメラマンさんのシャッター音に、何かときめいたんです(笑)。水着でも服でも撮られることが好きになって、グラビアがイヤとか怖いという気持ちは払しょくされた感じです。

――グラビアではFカップが武器になりました。

天野 ありがたいことに、そこは恵まれていたと思います。

毎日ビールを飲みつつ食事を豆腐だけにしたり

――水着グラビアをやりながら、ビールを飲む動画も毎日上げていたわけですよね。スタイルキープの努力もしていたんですか?

天野 何となく気をつかっています。これだけビールを飲んでいて体型維持ができたら、みんながオーッとなるだろうとも考えていて(笑)。しばらく前まで運動は何もしてなかったんですけど、今年またグラビアを頑張ろうと思ってからは、いろいろやるようになりました。ボクシングのリングガールのときも、1ヵ月前からダイエットを始めます。30代になったので、急に来週撮影とかになると、対応し切れないので(笑)。

――どんなダイエットをするんですか?

天野 2週間くらいお豆腐ばかり食べたり、エスカレーターとかは一切使わず階段を上ったり。あと、サウナに行ってととのったりもします。

――食事とか誘惑に負けたりはしませんか?

天野 意外と負けません。意志はめちゃくちゃ固いので。飲み会に行くことはあっても、翌日はすごく節制して、バランスを取っています。

落ち込んだら必ず観る映画があります

――『FUJI BOXING』のリングガールは、どういう流れで始めたんですか?

天野 事務所にいたとき、「やりませんか?」とお話をいただきました。最初はボクシングを全然知らなかったので、「いえ、結構です」とお断りしたんですけど、「1回でいいから」ということだったので。それでやってみたら、想像と全然違っていました。ボクシングを間近で観たら面白くて、もう「行けーっ!」みたいになって(笑)。新しい世界を知れたと思って続けさせてもらって、気づけば4年になっていました。

――村田×ゴロフキン戦での涙は話題になりました。

天野 わざと泣いたわけではなくて、溢れ出してしまって。リングガールが感情を見せることに、否定的なコメントもたくさんいただきましたけど、「あれは感動するよね。泣いてしまうよね」と共感してくださる方のほうが、どちらかというと多かったです。

――普段も涙もろいほうですか?

天野 そうでもないです。人前で泣くことはありません。ただ、映画やドラマを観て泣くことは多いです。同じ映画で何度でも泣けるタイプなので(笑)。

――どんな映画で何度も泣くんですか?

天野 落ち込んだときや仕事に行き詰まったとき、必ず観る映画があります。『はじまりのうた』という洋画で、挫折したミュージシャンが主人公なんですけど、笑いあり、感動あり、ラブ要素もあって、青春っぽいんですね。その映画を夜中に観て泣いて「明日から頑張ろう」と自分をリセットします。これを観て泣かなくなったら、たぶん私は感情を失っています。自分の原点に帰るような映画です。

フリーになって仕事は全部自分で取ってきます

――天野さん自身、ここに辿り着くまで波乱万丈だったようですが、芸能界を辞めて大阪に帰ろうと思ったこともありました?

天野 そこまでは意外とないです。「絶対どうにかなる」と思っているタイプなので。行き詰まってストレスが溜まると、夜中に急にハーッと大きい声を出すときもありますけど、どこか負けん気が強くて、諦めようとは考えません。キッチンで寝起きしていた頃のほうがしんどくて(笑)、今はまだ仕事がありますから。

――今年、事務所を離れてフリーになったんですよね。マネージャー的な人はいるんですか?

天野 いません。全部1人でやっています。自分でホームページを作って、そこのアドレスにお仕事のメールをいただいたら、「〇〇様 ご連絡ありがとうございます」とビジネスメールを返信して、やり取りをしていて。お金の部分も全部自分でご相談しています。

――20歳のときの就職経験が役立っていたり?

天野 それもあるかもしれません。トラブルになったことは一度もなくて。あと、事務所にいたときから、マネージャーさんに頼るより自分で仕事を取ってきたいタイプだったんです。「〇〇さんと知り合いになって、撮影があるので行っていいですか?」というふうにお仕事に繋げたことも多くて、フリーでやることに抵抗はありませんでした。

ビールの動画を毎日上げたら5年で仕事に繋がって

――ビールの動画の投稿を始めたのも、広告代理店に「ビールのCMに出たい」と売り込みに行って、アドバイスされたのがきっかけだったとか。

天野 そうです。よくそんな営業に行ったものですね(笑)。絶対無理と言われるのはわかっていましたけど、ヒントをもらいに行く気持ちだったと思います。前日のイベントで代理店の方と知り合って、「今、近くにいるので」と飛び込みで会いに行きました。その方はビールのCMの担当でも何でもないんです(笑)。21歳の無名の私に「どうしたら出られますかね?」と聞かれても、向こうも困りますよね。でも、「ビールに関する動画を毎日撮ってみたら?」とひと言いただいて、それが今日まで続いています。CMの話は来ませんけど、5年くらい経って仕事に繋がるようになりました。

――とはいえ、事務所を離れるのは大きな決心だったのでは?

天野 もともと「事務所に入っていれば仕事が来る」とは思っていなかったんです。自分で動かないと始まらない。たまに「全然仕事をくれない」と事務所のグチを言う子もいますけど、私はたとえば出たい映画があったら、その監督さんのワークショップに参加したり、募集を探して応募したり、自分でいくらでも動ける気がしていて。トラブルを避けるために事務所の人に入ってほしいのはわかるので、私も所属してましたけど、もうフリーランスの時代が来ていることもあって、1人でやればいいかなと。(続く)

(C)2022 by Mana Amano
(C)2022 by Mana Amano

天野麻菜インタビュー後編はこちら

Profile

天野麻菜(あまの・まな)

1991年10月14日生まれ、大阪府出身。

2009年より活動を開始。「ミスiD」2013ファイナリスト。映画『サマーソング』、『THE BAD LOSERS』、ドラマ『ゲキカラドウ』、『オー!マイ・ボス!恋は別冊で』などに出演。『FUJI BOXING』(フジテレビ系)でリングガール。ファースト写真集『なまのまな』が発売中。

公式HP

天野麻菜ファースト写真集『なまのまな』

撮影/藤本和典 定価/3000円 発行/ワニブックス
撮影/藤本和典 定価/3000円 発行/ワニブックス

芸能ライター/編集者

埼玉県朝霞市出身。オリコンで雑誌『weekly oricon』、『月刊De-view』編集部などを経てフリーライター&編集者に。女優、アイドル、声優のインタビューや評論をエンタメサイトや雑誌で執筆中。監修本に『アイドル冬の時代 今こそ振り返るその光と影』『女性声優アーティストディスクガイド』(シンコーミュージック刊)など。取材・執筆の『井上喜久子17才です「おいおい!」』、『勝平大百科 50キャラで見る僕の声優史』、『90歳現役声優 元気をつくる「声」の話』(イマジカインフォス刊)が発売中。

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