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何かの役に立つかどうかなんてどーでもいい思考力教室

おおたとしまさ育児・教育ジャーナリスト
いもいもではあらゆるものが教材になる(提供:井本陽久)

何かの役に立つかどうかなんてどーでもいい

 図1の(1)のカレンダーで365日を表示するために、数字のカードが何枚必要かわかるだろうか。「月」を表す十の位は、0と1さえあればいいから2枚必要。同じく一の位は、0〜9の10枚必要。「日」を表す十の位は、0〜3の4枚必要。同じく一の位は、0〜9の10枚必要。合計、2+10+4+10=26枚。

図1(提供:井本陽久)
図1(提供:井本陽久)

 でも実は、4カ所ある挿入場所のどこにどのカードを挿入してもいいのだと考えれば、もっと減らすことができる。たとえば1のカードは4枚必要だ。11月11日を表すためだ。2は、2月22日の3枚必要。しかし、3〜9と0に関しては、2枚ずつしか必要ない。するとぜんぶで23枚あればいい。3枚減らせた。

 「僕の授業では起こらないんですけど、一般の授業ではきっとこの場面で、『カードはどこに挿入してもいいんですか? そうじゃないと答えが1つに絞れないですよね』って質問が賢い生徒から出たりしますよね。でもこれってすごくもったいないなあと思って。この生徒はせっかくこの問いの解決策としていろんな可能性を見てとることができたのに、「答えが1つに定まらないからおかしい」という一点で、自ら先生にほかの可能性を考えることを封じてもらいにいってるわけで。子どもたちがこういう変な思い込みをしているのって、いまの教育のあり方と無関係ではないですよね」

 と、イモニイこと井本陽久さん(52)は言う。

 「『あ、挿入場所を自由にすればもっと減らせる!』と発想できたなら、やればいいじゃないですか。『答えは26枚ですね』って先生が言っても、『僕はこう考えました!』って発表して、『あ、その考えがあったか!』ってなったら教室のみんなも面白いじゃないですか。でも僕らの教室では、これで終わりません。子どもたちはもっと減らせるって気づくんですよ。わかります? 『6と9をひっくり返して使えば2枚減らせるよね』って言う子が出てくるんです」

 「ズルい!」という声があがるが、そこで(2)の問題を見てもらう。立方体が4つ並ぶタイプ。実際にこのようなカレンダーを見たことがあるひとも多いだろう。実はこれで365日を表示するためには6と9を併用するしか方法がないのだ。

 「すると、2と5も併用できるって言い出す子が出てきますが、すぐに、逆さにしても2は5にならないとまわりから指摘されます。そこで諦めないのが子どもたちのすごさです。『いやいやできるよ』という子が現れます。カードを透明にしてデジタル数字を使えばいいんだと。そうなると、子どもたちはもっと減らす方法を考えます。もうそのときにはいかに『ズル』を思いつくかという方向に思考が向かいます。そうすると別の子が『あっ、減らせる!』って声を上げます。1と3を重ねれば8ができるから、それで減らせるって」

 7と7で0がつくれるが、それをやると7月7日のときに7が足りなくなるからその手は使えない。そんなことを吟味しながらやっていくと、透明なデジタル数字のカードを使えば15枚まで減らせることがわかった。

 「ズルっていうけど、要するに思い込みを捨てていくってことなんです。でもまだ思い込みがあるんです。『12枚でできる』という子が現れるんです」

 図2を見てほしい。これだけで365日を表すことができる。透明なカードに書くのは数字でなくていい。そうすればさらに減らせることに気づくのだ。

図2(提供:井本陽久)
図2(提供:井本陽久)

 「こんな発想は、『教材』をつくった我々としても想定していないんです。もうびっくりですよね。そしたらこんどは『11枚でできる』という子が現れました。これも意外な盲点でした。あえて不透明なカードを使って、裏表に数字を書けばいいじゃないかって。あ、そうかと思うんですけど、いざやってみると、365日を表示するために、どの数字の裏にどの数字を書くべきかという組み合わせを考えるのがすごく難しいんです」

 2時間の授業中、ずっとこれを考える。1回の授業では終わらないので、翌週もその続きを考える。この問題を解くのに、2回の授業、合計4時間を費やした。しかし体感時間では、授業はあっという間に終わる。

 「小学生の知識でも取り組めるけど、数学者がやっても夢中になれる教材です。この教材を考えたのは実は僕ではなくて、栄光学園での教え子で、大学入学直後から『いもいも』を手伝ってくれている塩谷悠馬くんです」

 では次の「教材」。頭の中でイメージしてほしい。

 AさんとBさんが相対している。それぞれが自分の手のひらに0〜9までの数字を書く。お互いにその数字を当てるために、8つまで質問をしていい。ただし「偶数ですか?」のように、YESかNOかで答えられる質問に限られる。筋のいい質問ができるかどうかが勝敗の分かれ目になる思考ゲームだ。

 対戦をくり返していくうちに子どもたちは、数字を確定するためにはどういう質問をどういう順番でしていけばいちばん効率がいいのかを自然に考え始める。詰め将棋みたいなノリだ。しまいには「嘘を2回つかれても、何回質問すれば数字を確定できるか?」という高度な問いを立てて考え始める。

 子どもたちはこの問題にもう2カ月以上取り組んでいるが、まだファイナルアンサーにたどり着いていない。授業の時間は週2時間だが、おそらく子どもたちは、風呂に入っているとき、通学時間の電車の中で、あるいは授業中に暇なとき、この問題を考え続けているはずだ。

 これが、イモニイの「数理思考力」の授業の一端だ。正解に最短距離でたどり着くための「思考力」ではない。「先行き不透明な時代」を生き抜くために必要な「思考力」でもない。いわば「何かの役に立つかどうかなんてどーでもいい思考力」である。

花まるから独立して授業ラインナップをリニューアル

 イモニイこと井本陽久さんは、大学卒業後、母校の栄光学園の数学教師になる。テストで高得点をとるために、似たような問題を何度も解いて解法を覚えるような勉強法に時間を費やす生徒たちを見て、授業の仕方を根本から考え直した。答えを出すことではなくて、いかに自分の頭で考えるかに重点を置く。その結果、子どもたちが思わず「プルッ」と躍動する授業が実現した。その噂はクチコミで伝わり、全国から授業見学がひっきりなしにやってくるようになった。

 「花まる学習会」代表の高濱正伸さんと出会い、意気投合。栄光学園で教えながら、花まる学習会傘下でのちに「いもいも」と呼ばれることになる教室を運営することになる。2016年のことだ。当初は栄光学園での数学の授業を援用した内容だったが、「いもいも」では、数学の枠組みを飛び出す独自教材が次々開発された。売り文句には「学校の成績は上げません」を掲げた。

 当時の様子は「『奇跡』が起こる名もない教室。超進学校のカリスマ数学教師の壮大なる実験」に描いたとおりであり、この話は拙著『いま、ここで輝く。 超進学校を飛び出したカリスマ教師「イモニイ」と奇跡の教室』(エッセンシャル出版)にも収録されている。その後「いもいも」は週刊誌「AERA」で特集されたり、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」でも取り上げられたりして、一躍世間の注目を浴びる存在になる。

 目の前にいる子どもたちの躍動感を見て、「こんな授業があったら面白い!」を次々実現していった結果、「表現コミュニケーション」「遊びの教室」「言語的思考力」「数理思考力」「森の教室」など、たくさんの「授業」ができた。一方で、なくなってしまったものもある。たくさんの仲間が加わり、去っても行く。2022年9月には「森のスコーレ」というフリースクールまで立ち上げた。諸事情により、寮はすぐにやめた。面白いことはやってみて、変化していきながら、それでもダメならやめる。それが「いもいも」スタイルだ。

 その「いもいも」がとうとう花まるグループを離れて独立することになった。2023年4月から「いもいも教室」「井本数理思考教室」「いもいもデイスクール」の3銘柄に絞って活動する。いもいも教室では、数理、言語、表現コミュニケーションの分野にわたる幅広い教材を使用する。井本数理思考教室では、数学好きの生徒たちに対して、数学分野に特化した教材を使う。いもいもデイスクールは、平日昼間のフリースクールである。

 常にマイナーチェンジを続けてきたいもいもであるが、今回の変化はメジャーなアップデートだ。思いをイモニイに尋ねた。

「目の前の子どもたちをプルッとさせたい」という思いだけ

−−−−花まるグループからの独立は何を意味するのですか?

井本 高濱さんは、「好きなようにやっていい」と言ってくれて、本当にひと言も、いもいもに口を出しませんでした。「井本先生はどこまでも純粋に教育に向き合ってほしいから、お金のことは心配しなくていい」とも言ってくれました。そのおかげで本当に思ったとおりのことに挑戦できて、その試行錯誤によってようやく高濱さんのもとを離れてやっていける体制が整ったのだと思います。いつまでも高濱さんに甘えていてはいけないという思いはずっとありました。

 今回、花まるグループを離れる決断をして、あらためて、いもいもがいままで何をしてきたのかを振り返る機会にもなりました。

 僕ってもともと、こんなことを実現したいみたいな目標を設定して前に進むタイプじゃなくて、そのときそのときの流れを感じながらそれに乗っていくだけじゃないですか。

 そんななかでずっと変わらないものがあるとすれば、それは「目の前の子どもたちをプルッとさせたい」という思いだけなんですよね。ひたすらそれを追求していたら、こんなところまで来ちゃった。

 小学生でも考えられるような問題を子どもたちの前に置くと、それを考えていくうちに、子どもたちの中に新しい問いが生まれて、それをみんなに共有するとまた新しい問いが生まれて……というように、問いが自動生成されていく。そんなスタイルの授業になっていきました。

 「ふざけ、いたずら、ズル、脱線」のような、世間一般では「悪い」と思われてしまうようなものも含めて、子どもたちのいろんな発想を面白がって拾っていくうちに、子どもたち同士がものすごくいい雰囲気になっていくのも、いもいもをやってみて気づいた大きな発見です。それが世間的にも注目を浴びて、勉強が苦手な子や学校が苦手な子も、いもいもに参加してくれるようになりました。

 数学が苦手な子でもプルッとできる教材を考える必要があった一方で、数学的なことを徹底的に考えたい子もいました。やっぱり僕の原点は数学ですし。だから今回、数学に限らない思考力の授業を「いもいも教室」として、数学に特化した授業を「井本数理思考教室」と名乗ることにしました。

 栄光学園やいもいもでの経験のすべてを振り返ってみて、いま、自分でもちょっと見えてきたことがあります。

 みんなからバカにされるようなこと、無意味だと思われるようなこと、そんなことを子どもがしたときにこそ、僕は「いいね」って反射的に言いたくなっちゃうんです。天邪鬼ですよね。

 兄貴の影響もありますよ。兄貴には障害があって、できないことも多い。障害者を大切にする世の中の雰囲気はありますけど、それが実際は単なる特別扱いでしかない面ってあるじゃないですか。一般的には「自分でやりなさい」「○○ができるようになりなさい」って求めるのに、障害者に対しては「障害者はできないんだからしょうがない。やらなくていい」ってなる。

 それって嘘っぽいですよね。まわりのみんなはそれを「優しさ」と考えているんでしょうけれど、当事者からすれば「別物扱い」されているように感じます。その反発として、「兄貴はうまく歩けないけど、それがいいんじゃん。なんでみんなわからないの?」みたいに言いたくなる感じが幼いころからありました。

 だから、ちょっと変わったことをしてまわりを驚かせるような子に出会うと、僕は思わず「いいね」って言いたくなっちゃう。なんでそれがいいのかは、実は後付けで考えてるんですけど、そうしていると、本当に「あ、いいじゃん!」って思えるようになるんです。それって、囚われた価値観から解放されて、新たな価値判断の視点を得たということですよね。

 数学の解答についても同じで、正解・不正解なんてどうでもよくて、その子の解答にはその子の息づかいがあるわけで、そこに「いいね」って言ってあげたくなっちゃう。それでむしろ生徒たちの誤答に着目して、それを教材として活用するスタイルが生まれたんだと思います。

いもいもの授業の一コマ(提供:井本陽久)
いもいもの授業の一コマ(提供:井本陽久)

 息づかいが感じられる誤答をみんなに共有すると、答えは間違っていても、教室のみんなが「すげー!」って歓声を上げます。それで本人はうれしいし、まわりの子どもたちも、結果よりもプロセスを楽しむ体質になっていきます。だから、仮にさっさと正解にたどり着いたとしても、もっと面白い別解はないかと考えるように、勝手になります。予め決まった正解に最短距離でたどり着くことではなくて、自分なりの問いをもつことを楽しめるようになります。

 いもいもを始めて、そこに土屋(イモニイの中高の同級生)も加わってくれるようになって、「井本がやってることって、子どもたちのありのままを認めるってことだよね」と言ってもらえて、「ああ、そういうことだったのか」と気づきました。教育の目的って子どもを良い方向へ変えることだと一般的には思われていると思いますけど、いもいもでは、子どもを見ている大人の側が変わることに価値を見出すようになりました。

 思い返してみると、栄光学園でも、ほかの授業でズタボロだけど僕の授業だけは超前向きに取り組んでいるような生徒が結構いたんですよ。ああ、そういうことだったのかとわかりました。そういう子たちに合わせようとしていたわけではなくて、子どもたちを萎縮させる「余計なもの」を引っこ抜いて、彼らが自然に自分が考えたことを表に出せるようにしただけです。

 不登校とか成績不振とかの“症状”が出ている子だと違いがわかりやすいんですけど、結局のところ、学校でうまくやっている子どもたちだって、“症状”として出ないだけで、みんな大なり小なり我慢しているんだろうなって思います。てことは、ありのままの自分を面白がってもらえる経験って、すべての子どもたちが欲していることなんだろうなと思えてくるわけです。

 不登校の子どもたちと多く関わるようになって、彼らへの理解が深まったというよりも、学校が子どもたちに何を強いているのかを相対化できたような気がします。その学校でうまくやれている子たちはつまり、外の評価軸に飼い慣らされているんです。外の評価軸というのは親の期待だったり、先生の期待だったり、社会の期待だったりということです。

 その期待にある程度応えられちゃっているからこそ、いつか期待を裏切るのが怖くてしょうがない。いつまでも期待に応えようとしてしまう。いま自分がもっている外からの評価を手放せなくなるんです。自分って何なんだろうなんて考えることもなく、気づいたら、外からの評価軸にしがみつくだけの人生になっていて、大人になってからも生きづらさから逃れられないケースって多いんだろうと思います。そのまま親になると、子どもにも外からの評価を得ることを求めてしまう。本当はその親御さんもそんな生き方やめたいはずなんです。

 昔は学校における外からの評価軸は良くも悪くも「成績」だけだったからある意に後腐れがなかったわけですけど、いまは学校でも「態度、意欲、関心」とか「主体性」とか「協調性」とか人格的な部分まで評価の対象になっているじゃないですか。生活のいたるところで「評価」にさらされている。それってしんどいですよね。

自分である必要がない勉強には意味がない

−−−−数理思考教室に、「いもいも」ではなくて「井本」を冠したところに私としてはひっかかりを感じます。もちろん当事者的には深い意味がなくて、あくまでも便宜上の理由だとは思いますが、客観的には、進学校でユニークな授業を行う「井本」先生がまずあって、数学の枠組みを取っ払ったところに化学反応が起こって「いもいも」という新しい世界観がつくられたけれど、その中でもゆるぎない部分を再び、より純度の高い「井本」的「核」として抽出しているように見えます。まるで輪廻のようなサイクルを感じます

井本 ああ、そうかもしれませんね。いもいもの活動を通じて数学の枠組みを取っ払ってできたいろいろな教材をフル活用してさまざまな角度から思考力を経験してもらうのが「いもいも教室」。僕の原点である数学に特化して、数学が大好きな子どもたちだからこそプルッとするような教材に特化するのが「井本数理思考教室」です。

 有名中高一貫校に入ってくるような優秀な子どものなかには本当に数学の才能に溢れている子どももいっぱいいるはずなんです。でも、結果的にその才能をつぶされてしまった子がたくさんいると思います。本当ならもっと自由に自分で問いを立てて、もっと自由に考えられるはずなのに、それを封じられて、問題集で速く正解を求める訓練ばかりやらされてしまうわけですから。自分である必要がない勉強をさせられているってことですよね。

 そういう問題意識から栄光学園における僕の授業が形づくられました。思わずプルッとしちゃう瞬間を、本当に数学が好きなもっと多くの子どもたちに味わってもらいたい。それが井本数理思考教室の狙いです。

 僕は、その子であることが無意味な勉強は学びにはなり得ないと思っています。だから、いもいもでは、自分をよりどころにして考える楽しさを経験してほしい。そのための教材をこれからも開発していきたいと思っています。

 「思考力」という言葉は、世間一般には、抽象的なことを考える力とか一般化して考える力みたいなことを駆使して難しい課題の解決に当たる、みたいな文脈で使われがちですよね。だから「私、思考力ないから」なんて言い方までできてしまう。でも、僕にとっては、「思考力」って、身につけるものでも、レベルアップするものでもありません。むしろ、みんながもともともっている力です。

 「将来に備えて手持ちを増やす」教育にはきりがありません。それよりも子どもたちが「いまある手持ちでなんとかする」を思う存分できる学び場をつくっていきたいと思います。いまある手持ちでなんとかするって、即ち、自分をよりどころにするってことだし、それこそが生きるってことだと思うし、それができていれば誰だって生き生きできるはずですよね。

育児・教育ジャーナリスト

1973年東京生まれ。麻布中学・高校卒業。東京外国語大学英米語学科中退。上智大学英語学科卒業。リクルートから独立後、数々の育児・教育誌のデスクや監修を歴任。男性の育児、夫婦関係、学校や塾の現状などに関し、各種メディアへの寄稿、コメント掲載、出演多数。中高教員免許をもつほか、小学校での教員経験、心理カウンセラーとしての活動経験あり。著書は『ルポ名門校』『ルポ塾歴社会』『ルポ教育虐待』『受験と進学の新常識』『中学受験「必笑法」』『なぜ中学受験するのか?』『ルポ父親たちの葛藤』『<喧嘩とセックス>夫婦のお作法』など70冊以上。

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