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「奇跡」が起こる名もない教室。超進学校のカリスマ数学教師の壮大なる実験

おおたとしまさ育児・教育ジャーナリスト
井本陽久さんによる、名もなき学習会の授業風景(著者撮影)

「『学校』になじめない子」が自然に集まる教室

 神奈川の進学校・栄光学園の数学教師・井本陽久さん(通称・イモニイ)は、一般の中学生を対象にした学習会を毎週開催している。学習会の名前は特に決めていない。

 通っている中学生たちは「塾」に通っているのだと認識しているが、一般的な塾とは雰囲気がちょっと違う。子供たちの中にすでにあるものを「いいね!」と承認すること自体を目的とした教室なのだ。誤解のないように、最初に保護者に「学校の成績を上げることを目的にはしません」と宣言する。

 イモニイは知る人ぞ知る数学のカリスマ教師だが(栄光学園での授業の様子はこちらの記事を参照)、ここで特別な数学を教えるというわけでもない。数学や英語などという教科の概念すらない。中1から中3までごちゃ混ぜで授業する。

 生徒の一般募集もしていない。生徒たちは「縁あって出会った子供たち」。普通の公立中学校に通う子供たちも、御三家といわれる超進学校に通う子供たちもいるのだが、どちらかというと「学校」になじめないタイプの子供たちが多い。

 かといって、そういうタイプの子供たちのための特別な教育をする教室でもない。わかった瞬間に、子供たちが見せる目の輝き、全身から伝わるプルッとした躍動感。イモニイ自身が、そういったものを追求したいと思う純粋な気持ちで学習会を開催したところ、「縁あって」そういうタイプの子供たちが集まり、増えていったのだ。

 「ものすごい個性的な子供たちですよ。でも本当にみんないい子です」とイモニイは笑って私を教室に案内してくれた。

この教室ではありのままの自分でいられる

 土曜日の夕方。教室には22人の子供たちが集合した。全員出席だ。

 「はい、こんばんは。今日はまず、『ことばでおえかき』からやろう」

 1人の子供が黒板の前に立つ。それ以外の子供たちには、イモニイが用意した「図形」が見せられる。図形を見た子供たちが、言葉でその形や色を表現し、黒板の前に立つ子供が同じ図形を黒板に描くというゲームだ。

 この日実際に使われた図形が冒頭の写真。図形を見せた瞬間「キモっ!」「うわー」という声が上がる。言葉で説明するのが難しいという意味だ。

 図形を見た子供たちは思い思いの方法で、図形を言葉に置き換える。図形の全体像を伝える子供もいれば、黒板に描くための手順を客観的に説明する子供もいる。実際の図形に近い形に描けているときに「いいぞ、いいぞ」とその方向性で間違っていないことを伝える子供もいる。

 完成形を知らない黒板の前の子供の立場になって伝え方を工夫するのはもちろん、仲間の発言を受けて次に自分がどんな発言をすれば黒板の前の子供が迷いなく図形を描くことができるかを必死に考える。余計なことをいえば混乱させてしまうかもしれない。自ずと相補的なチームワークが必要になる。

 大方の形が再現できたところで、イモニイはさらに負荷をかける。

 「だいたい似たような図になったよね。でももうちょっと細かく見てみて。細かく見る方法はどんな方法があった? 部分的に見てみるというのも1つの方法だよね」

 すると子供たちは細部に目を凝らし、そして気付く。

 「赤いVの先端が、青のVの3分の1以下の位置に来るようにずらして」

 「青と赤のVって、微妙に形が違うよね!」

 「青のVの左の頂点と赤のVの左の頂点が合ってないから」

 完成度を高めるための最後の一押しのアドバイスが続く。現物との違いを指摘するわけだが、それが「ダメ出し」にはなっていない。どうすればより良くなるかという建設的なアドバイスの形になっている。それが目的を達成するための近道であることを、この教室の子供たちは知っているのであろう。

 その清々しい姿に、グッと来てしまう。彼らの中には、学校で「ダメ出し」ばかりされている子供も少なくない。自己肯定感が非常に低い状態でやってくる子供も多いのだとイモニイは言う。しかしこの教室ではお互いにダメ出しはしない。個性的な子供が多いが、それを「お互い様」と認め、尊重する。

 イモニイがそういう「ルール」を設けているわけではない。教室内がざわつこうが、一部の子供が問題発言をしようが、イモニイは原則的には黙って見守る。生徒たちの自律性が、集団としての秩序と文化を醸成した。「ここではどんな発言をしてもいいのだ」という安心感が共有されている。

 学校ではいじめられ先生からも「問題児」扱いされていた子供が、この教室には自然になじんでいる。それを見て、その子の母親は思わず涙した。また人前で発言できなかったある女子は、この教室に来てから学校でも発言できるようになった。「どうせできねーよ」とネガティブな発言が目立った男子も、意欲的に課題に取り組む姿勢を見せるようになった。この教室では、割と頻繁に「奇跡」が起こる。

 コーチングだとか心理療法だとか、「扱いにくい子」「問題児」を「治す」ための何かをしたわけではない。イモニイは、子供たちが自然に没入できる課題を与えているだけだ。環境設定だけをして、子供たちを信じて、彼らに任せることで、子供たち同士が「ありのままの自分」を認め合う文化を築き上げているのだ。「そうなるはずだ」という信念が、イモニイの胸の内にはもともとあった。

カリスマ塾講師とカリスマ数学教師のコラボ

 ある意味で、この教室は「実験」である。

 長年の教師経験の中でイモニイが抱くようになった教育に対する仮説を、試す場である。今年で3年目。仮説は確信に変わっている。「ルールで縛ったり、口うるさく注意したりする必要はない。子供たちを信じて、ありのままを認めてあげれば、子供たちは自ずから最高に輝くはず」。それがイモニイの仮説であり、信念であり、栄光学園ではすでに証明されている。

 しかしそれだけでは「優秀な生徒が集まる栄光学園のような学校だから可能なのだ」と思うひとも多いだろう。「偏差値の低い子には強制が必要だ」と言ってはばからないひともいる。普通の学校や塾ではなかなか「実験」ができない。学級崩壊でもしてしまったら誰も責任がとれないからだ。結局、従来通りの教室運営を踏襲してしまう。

 イモニイは、自分の仮説を試してみたかった。信念を証明したかった。テストでいい点を取るためではない、いい大学に行くためでもない、これからのグローバル社会がどうなるかなんてどうでもいい。目の前の子供たちのことだけを考えて、その子たちがありのままで輝くための理想の教育を実践してみたいという思いを強くしていた。

 そこに手を差し伸べたのが、高濱正伸さんだった。大人気の学習教室「花まる学習会」の代表であり、メディアでも引っ張りだこの「カリスマ塾講師」である。ただし、一般に「カリスマ塾講師」という言葉がもつニュアンスと高濱さんのパーソナリティは違う。たしかに塾講師であり、異常なカリスマ性をもつことは事実だが、高濱さんも偏差値だとか大学進学実績だとかいうわかりやすい成果を掲げるタイプの教育者ではない。人間としてのたくましさを育てる教育を追求している第一人者である。

 イモニイの学習会は、「花まる学習会」系列「花まるラボ」主催の「特別授業」という立て付けで実施されている。イモニイは高濱さんから、「利益なんて気にしなくていいから、井本先生の思うとおりの教育をしてください」とだけ言われている。

インスタントに世界平和を実現するためには?

 授業の続きに話を戻す。

 「ことばでおえかき」に約25分を費やした。続いて「合同二分割」。プリントに描かれた図形に補助線を書き入れ、合同の図形をつくるというパズル的な課題である。これは「個人プレー」。1枚のプリントをクリアすると、次のプリントに進めるしくみ。実際のプリントが下の写真だ。どんどん先に進む子もいれば、足踏みしてしまう子もいる。

「合同二分割」のプリント例(著者撮影)
「合同二分割」のプリント例(著者撮影)

 補助線が見えてくるかどうかは「ひらめき」次第だと思われがちだが違う。与えられた図形を見て、その特徴を捉え、論理的に考えていくと、補助線が引かれるべき場所が絞られてくる。シンプルな課題だが、頭に汗をかくような負荷がかかる。「うーん」と頭を抱える子供が続出する。

 続いて、「スピーチ」の時間。今回はOくんが「平和について考える」というテーマで話をすることになっている。Oくんが事前に用意したレジュメには、「超危険思想。もし戦争経験者がいたら殴られるほどヤバイ話。人によってはつまらない」と警告がある。また「ここでの平和の定義は戦争や喧嘩など大小問わず争いがないこと」という断り書きもある。

 「小学校の3〜4年くらいのころから、ずっとこのことを考えていました。この世に完全な平和をもたらすためにもっとも手っ取り早い方法は、人類絶滅なんだと思うんですけど……。人間には欲とか、闘争本能とかがあるわけで、人間の存在自体が、平和の妨げになっているというのが僕の結論です」

 極論である。Oくんが補足する。

 「人類絶滅以外にも方法はあるのかもしれないけれど、無であれば平和でしょ。平和が必ずしも無でなければいけないということではないけれど……。もっと科学が進歩して人間の脳から欲とかそういうものが排除できるようになれば絶滅はしなくてもよくなるかもしれないけど、それっていまはできないじゃん」

 極論を発端として、ある種の思考実験が始まる。以下、議論の筋道のごく一部を再現する。「生徒」は不特定の生徒の発言である。

 

生徒  平和になっても人類がいなかったら意味ないじゃん。

Oくん  でも平和は平和じゃん。

生徒  人類が絶滅しても、別の生物が進化してまた戦争を起こすようになるかもしれないじゃん。

Oくん  オレは、永遠の平和をつくるとは言ってない。でもいま、人間がいる限りは一瞬の平和もつくれないんだよ。

生徒  異議あり! そもそも平和を切望しているのは人類であって、平和が実現したところでそれを目的とする人類がいなくなったらそもそも根本が崩れるので、意味がないと思う。

Oくん  意味はないけど、平和は実現する。

 多くの生徒が挙手して反論や持論を語り出す。ここからOくんはファシリテータとして振る舞い始める。以下、複数の子供たちの発言の一部。

 「そのような平和の状態を望んでいるひとは実はものすごく少数で、大半のひとたちが思っている平和というのは、自分たちがいるところでの平和であって、大半のひとの求める平和は、その手段では実現できないと思う」

 「私はね、死にたくないわけよ。オレはね、100歳まで生きるという目標があるから、平和ごときのために私の命を奪うというのは、たいへん大きな問題だと思うのね。同じように自分が生きたいひとがほかにもいると思うから、平和のために命を犠牲にするのは嫌だね」

 「人類一人一人を完全に隔離すれば、平和は実現できる。ほかのひとと接しないからさ」

 「これまでも人類は何千年も何万年も平和を求めているのに実現していない。ということはそんなに簡単に実現できることではないってことでしょ。だから全員死ねばいいみたいなことを言うのはいささか暴論なのではないかと思う」

無理を実現しようとするとディストピアが現れる

 さまざまな角度からの意見が出そろったところで、イモニイが発言する。

 「これ、面白いから続けましょう。いまさらオレが論点整理する必要もないかもしれないけど、ここだけちょっと確認しておこう。Oくんが出してくれたのは、争いごとがない世の中を実現するためには、争いのもととなる人間なんて全部いなくなっちゃえばいいんだという論理だよね。それに対してみんなは、争いが起こらないという定義に対してはそりゃそうなんだけど、争いが起こらなければ自分がそれを望むかというとそうではなくて、自分もそこにいたいということだよね。自分がそこにいて、なおかつ争いが起こらない状況をつくるためにはどうしたらいいかということを考えてくれているんだよね。その方向性でみんなの意見を聞いてみたいじゃない。そのファシリテートしてください」

 Oくんは持論を一端脇に置き、ファシリテータに徹する。最初にOくんが極論をぶち込んでいるので、みんなも極論を発言しやすくなっている。

 「飲み会とかでアルコールを飲めば、みんなワーイとなって、めっちゃアドレナリンとか出て、そういう状況では喧嘩とかなくなるんだけど、それが冷めたあとに喧嘩とか起こるから、常にアドレナリンが出て、楽しい気分でいられるように、すべての人間を洗脳できる薬を開発すればいいと思う」

 「ペットですね。みなさん、犬を飼いましょう。犬がダメなら、ハムスターを飼いましょう。インコでもいいです。動物と仲良くふれあえないひとは平和じゃないんですよ」

 「みんなずっと寝てればいいんじゃないかと思う」

 「バーチャルリアリティの世界に人間のデータをすべてコピーしちゃって、その中だけで生きていけば、現実の世界での争いはなくなるはず」

 「必ず市に5個くらい動物園をつくって、全員が1カ月くらい動物園で飼育員体験する法律をつくれば、動物が嫌いな人でも動物に癒やされると思う」

 「なぜ争いが起こるかと言えば、平等じゃないから。だから、人間のDNAをぜんぶいっしょにしちゃえばいい。それでももっているものとか食べるものとかぜんぶいっしょにしちゃえばいい。そうすれば羨ましいとか欲とかが出てこないわけでしょ」

 「みんな共通の神をつくる。1日にご飯は3食とか、絶対に3日に1回はホウレンソウを食べるとか、戦争をしちゃダメとか決めてもらって、みんなそれに従う」

 念のために書いておくが、そういう世界を彼らが望んでいるというわけではない。あくまでも思考実験である。その中で、人間が存在しながら完璧な平和な状態をつくるにはどうしたらいいかという命題に論理的にアプローチしていくと、なぜかディストピアのような世界観ばかりが発案されるというたいへん興味深い現象が起きたのだ。

 30分ほど議論したところで、イモニイが発言する。

 「この議論はまた別の日に続けていきたいね。興味深かったのはさ、闘争本能が起こらないように薬を開発するとか、なんとか教みたいな宗教をつくるとかさ、バーチャルリアリティの世界に暮らすとかさ、要は、みんなを同じ方向にコントロールするという方法論がいっぱい出た一方で、動物を飼うとか、飼育員経験をするとか、人間だけの世界に別の物を入れてみようという発想が出たこと。この2つの方向性はちょっと逆のことのように見える。あと思ったのは、Oくん。いきなり激しいテーマをぶっ込んできたけど、そのテーマ設定が非常に面白い。そして内容には関係ないんだけど、オマエ、ファシリテート上手いね。これなかなかできないよ」

 みんながOくんのファシリテートを拍手で讃えた。

「制約」が子供たちの能力を高める場面もある

 授業時間は残り30分。哲学対話が予想外に盛り上がり、大幅に予定を押した。本来は授業の後半1時間をかけて取り組むはずだった最後の課題「カプラ」に30分しか残されていない。

 「カプラ」とは、小さなかまぼこ板のような積み木である。「シンプルイズベスト」な、本来は幼児用のおもちゃである。

 別の教室に、複雑に積み上げられたサンプルのカプラがある(下写真)。それを目視して、記憶して、教室で再現するという課題だ。4人1組で取り組む。サンプルのカプラを見に行っていいのは1人1回のみ。要するに1グループで4回しかサンプルを見るチャンスがない。1時間の制限時間のうち、どのタイミングで誰がサンプルを見に行くのか、作戦は自由だ。

サンプルのカプラの積み方を記憶する(著者撮影)
サンプルのカプラの積み方を記憶する(著者撮影)

 が、この日は30分しか時間がなくなってしまったので、ルールを緩めた。誰もが自由に、何度でもサンプルを見に行けるようにしたのだ。いつもより短い時間で完成させるためである。

 しかしイモニイも想定していなかったことが起きた。いつもより仕上がりが遅れたのである。なぜか。

 「これは面白い現象ですね。1回見て、それを必死に記憶して、記憶が消える前になんとか再現しようという緊張感が弱まった結果、何度見ても覚えられないし、再現できないという症状が出てしまいました。しかも全グループでその症状が起きています」

 通常やっている「1回しか見てはいけない」という「制約」が、子供たちの力を高めていたことに、この日初めて気付いたというのだ。

生徒たちが再現したカプラ(著者撮影)
生徒たちが再現したカプラ(著者撮影)

 また、大勢が何度も教室を行き来するために、移動の途中で机にぶつかり、せっかく完成間近だったカプラが崩れるという「事故」が頻発した。しかし、印象的だったのは、この教室の子供たちが「加害者」を責めないことだ。

 目の前のカプラがガシャンという音を立てて崩れるときにはさすがに落胆の表情を見せる。涙目になる子供もいる。しかし、ぶつかってしまった友達を責めるようなことはなく、気持ちを切り替えて、また一からカプラを積み上げ直すのである。それが、この教室のみんなに共通する態度なのだ。

「奇跡」を「奇跡」と決めつけているのは大人たち

 イモニイと私は教室の後ろでその様子をただ見守る。イモニイは、「ほら、ちゃんと謝らなきゃ」などという口も挟まない。イモニイは私にこっそり耳打ちする。

 「この教室で起きているほとんどのことは、学校では注意されてしまうようなことでしょう。でもそこで、注意してしまったり、問題が起こらないようにコントロールしてしまったりしたら、おかしなことになると思いますよ」

 その「おかしなこと」を、普通の学校では当たり前のようにやってしまう。そこではいじめなどさまざまな人間関係の問題が起きているのである。

 この名もない学習会の教室では、あえて大人が注意やコントロールをしないことで、子供たちは、集団としての自律性やお互いの個性を認め合う姿勢を身に付けているのだ。これぞ多様性のある社会である。

 聞けば最初のころは言い争いやいがみ合いもあったのだそうだ。しかし、それも黙って見守り、子供たち自身に解決を委ねることで、少しずつ、集団として成長してきたのだとイモニイは言う。さきほどの「平和」の議論ではないが、これこそが、人類が求める「理想の社会」の「ミニチュア」ではないか。

 「理想の社会」なんて机上の空論で「奇跡」でも起こらない限り実現するわけがないと私たち大人は知っている。しかし、限りなく「奇跡」に近いことが、この教室では起きている。この子たちなら、ひょっとして、社会にも「奇跡」を起こすことができるかもしれない。そう思えてくる。

 いや、私たち大人が「奇跡」だと決めつけていることが、実は「奇跡」でも何でもないことを、子供たちが証明しているだけなのかもしれない。子供たちには、大人たちにとっての「奇跡」をいとも簡単に実現する力がもともと備わっているのかもしれない。

 「僕はただ、目の前の子供たちだけを見て、ありのままの彼らを承認しているだけなんです。その子たちがつくる社会が楽しみでしょうがないんです。これからの社会をこうしたいから子供たちにこんなことを教えようとか、こんな力を引き出してあげようとか、そんな発想は一切ありません」

 教育とは何か。教育者の役割は何か。それを根底から考え直させられる授業であった。

 イモニイの実験は続く。

※2018年9月13日追記 イモニイの塾のホームページができたとのことなので、URLを追記します(記事冒頭にもリンクを埋め込みました)

http://imoimojuku.net

   ******

 栄光学園の数学教師としてのイモニイ。名もない学習会の指導者としてのイモニイ。前回記事と今回で、イモニイの2つの顔を紹介した。しかしイモニイにはまだ、別の顔がある。

 毎週金曜日の夜には、栄光学園の生徒たちとともに児童養護施設を訪れ、子供たちに勉強を教える「学習ボランティア」の活動を、かれこれ20年以上続けている。「学校」と「施設」がつながって、学習支援する形が広まっていけば、さまざまな問題が解決に向かうのではないかと、イモニイは考えている。

 夏休み、冬休み、春休みなど、学校の長期休暇には、フィリピンやカンボジアなど東南アジアのスラム街に行き、学校に通えない子供たちに学びの楽しさを伝える活動を、これももう何年も続けている。普段学校には通えない子供が知的好奇心を刺激されたときの目の輝き、躍動感が、たまらないのだという。

 いずれ、これらの現場も取材してレポートしようと思う。乞うご期待。

 “Men for others, with others.”

 他者のために

 他者とともに

 周縁で苦しむ状況におかれた他者に目を向け

 協調・協力し合い

 問題解決のために

 喜んで自分を差し出すことのできる人間になるように

 あなたたちの間で力ある者になりたいなら、みなに仕える人になり、

 あなたたちの間で先頭に立ちたいなら、みなのしもべになりなさい。

 仕えてもらうためではなく、仕えるため。

 (マタイ福音書20・26~28)

 イモニイの職場であり、母校である栄光学園の校訓だ。

育児・教育ジャーナリスト

1973年東京生まれ。麻布中学・高校卒業。東京外国語大学英米語学科中退。上智大学英語学科卒業。リクルートから独立後、数々の育児・教育誌のデスクや監修を歴任。男性の育児、夫婦関係、学校や塾の現状などに関し、各種メディアへの寄稿、コメント掲載、出演多数。中高教員免許をもつほか、小学校での教員経験、心理カウンセラーとしての活動経験あり。著書は『ルポ名門校』『ルポ塾歴社会』『ルポ教育虐待』『受験と進学の新常識』『中学受験「必笑法」』『なぜ中学受験するのか?』『ルポ父親たちの葛藤』『<喧嘩とセックス>夫婦のお作法』など70冊以上。

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