寺田寅彦忌 昭和の「天災は忘れた頃にやってくる」から令和の「天災は忘れる前にやってくる」へ
寅彦忌
伝説の警告「天災は忘れた頃にやって来る」を言い出したといわれる物理学者で随筆家の寺田寅彦は、明治11年(1878年)11月28日に東京都麴町区(現在の千代田区)で生まれています(高知市育ち)。
この年は寅年で、しかもこの日は寅の日でした。
このため、寅彦と名付けられたといわれる寺田寅彦ですが、亡くなったのは57歳になった、昭和10年(1935年)12月31日のことです。
このため、12月31日の大晦日は「寅彦忌」、あるいは、ペンネームの吉村冬彦から「冬彦忌」と呼ばれています。
「天災は忘れた頃にやって来る」は、寺田寅彦の言葉とされていますが、著書の中にはその文言はありません。
しかし、これに相当する発言が色々と残されています。
例えば、昭和9年(1934年)は災害が相次いでいますが、この年の11月に寺田寅彦が書いた「天災と国防」には、防災対策が進まない原因は、希にしか起こらないので、人間が忘れたころに次の災害がおきるという意味のことを書いています。
引用:天災と国防、経済往来(昭和9年(1934年)11月)
そのおもなる原因は、畢竟そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前者の転覆を忘れたころにそろそろ後者を引き出すようになるからであろう。
昭和9年(1934年)の災害
寺田寅彦が「天災は忘れたころにやってくる」といったとされる昭和9年(1934年)は、函館大火や北陸豪雨、室戸台風などの災害が相次いでいます(表、図)。
しかし、近年は、天災に人災が加わった災害が毎年のように発生しています。
寺田寅彦が今の時代に生きていたら、「災害は忘れる前にやってくる」と言ったかもしれません。
現在の科学的国防軍
寺田寅彦が、戦前の日本帝国陸軍と海軍が絶大なる力を持っていた時代に主張していたことがあります。
災害を避けるためのあらゆる方法や施設は、「科学的研究にその基礎をおかなければならないという根本の第一義を忘却しないようにすることがいちばん肝要」と主張しています。
加えて、防災のためには軍隊のような組織を作り、日々防災のための研究を続け、災害出動の訓練を行って災害に備えるという考えを主張しています。
昭和9年(1934年)の11月に書いた「天災と国防」には、防災のための具体的な施策として科学的国防軍創設の提案があります。
引用:天災と国防、経済往来(昭和9年(1934年)11月)
日本のような特殊な天災の敵を四面に控えた国では、陸軍、海軍のほかにもう一つ、科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時に備えるのが当然である。
防災のためには軍隊のような組織を作り、日々防災のための研究を続け、災害出動の訓練を行って災害に備えるという考え方は、現在の防衛省や消防庁などの業務の中で実現しています。
年末年始で多くの人が休んでいます。しかし、防衛省や消防庁、気象庁や海上保安庁、地方自治体などの防災担当者は休みなく活動しています。
年末年始も休みなく備えている人々によって、私たちは災害の拡大から守られているのです。
しかし、これだけでは災害は減りません。
各自が、日頃の減災対策をおこなっていることの積み重ねがあって、防災担当者の努力がいきると思います。
減災対策
災害を防ごうとする防災対策をやろうとし、手間と時間とお金がかかりすぎるということであきらめてしまうのが最悪の選択です。
少しでも災害を減らすために、できることの積み重ねが大事です。
災害の程度がワンランク減ること、特に人的被害がワンランク減ることは大きな意味を持ちます。
たとえば、簡易固定であったために地震で家具が倒れてきて下敷きになったとしても、簡易固定しておいたおかげで家具の倒れるスピードが落ちたことで死亡が重傷に、重傷が軽傷に変わったとすれば、どうでしょうか。
地震で家具が倒れて下敷きになったことは同じでも、その後におきることは雲泥の差になります。
年末年始は、家族が集まる機会が多いと思います。
少しでも災害を減らすために、家族で減災対策について考えてみませんか。
そのときのキーワードは「災害時は我慢しろ」です。その時に、「我慢できない」という意見がでてきたら、そこが重点をおく対策です。
例えば、「赤ちゃんに空腹を我慢しろ」といえるでしょうか。
「病気の人に薬を我慢しろ」といえるでしょうか。
「我慢しろとはいえない」と思ったところ、そこが防災対策を日ごろから重点的に行うべきところだと思います。
全ての防災対策はできなくても、赤ちゃんのミルクの用意、予備の持病の薬の準備などなど、少なくとも「我慢できないことに対する防災準備」は早急に行ってください。
図の出典:饒村曜(平成5年(1993年))、続・台風物語、日本気象協会。
表の出典:筆者作成。