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室戸台風は初めて正式に名前がついた台風

饒村曜気象予報士
秋の大阪城公園内にある室戸台風時の犠牲者を慰霊する教育塔(写真:アフロ)

昭和9年(1934年)9月20日朝に那覇市の東約100kmにあった台風は、速度を早めながら、21日5時ごろ室戸岬の北に上陸しています(図1)。室戸台風の教訓は、現在にも生きています。過去の大災害を語り継ぐことが、今後の災害の軽減につながります。

図1 室戸台風の経路図(○印は6時の位置)と昭和9年9月20日9時の地上天気図
図1 室戸台風の経路図(○印は6時の位置)と昭和9年9月20日9時の地上天気図

室戸岬測候所で世界最低気圧を観測

台風が近くに上陸した室戸岬測候所では、21日5時10分に911.6hPaの最低気圧を観測しましたが、これは、明治18年(1885)9月22日6時30分にインドのカルカッタ南西のフォルスポイントの燈台兼測候所で観測した919hPaという当時の世界最低気圧を7hPaも更新しています(図2)。このため、この昭和9年9月の台風は、世界最低気圧を更新した地名から「室戸台風」と付けられ、いろいろな報告書などに使用されました。

気象庁は、昭和29年の洞爺丸台風以降、顕著な災害を起こした自然現象について名前をつけていますが、それ以前について、正式に名前がついているのは昭和9年9月の室戸台風だけです。

図2 室戸岬測候所の気圧変化
図2 室戸岬測候所の気圧変化

阪神地区で台風の眼

神戸測候所では21日7時44分から5分間、風雨ともに小康状態となり、一時的に空が明るくなり、台風の眼に入っています。阪神地方は、前方に四国や紀州の山脈を控えていることもあって、しっかりした眼を持ち発達したままの台風がそのまま襲来することは希なことです。そしてこの発達したままの台風は大阪湾などに高潮を引きおこし、大惨事が発生しました。

日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士は、昭和40年の素粒子についての国際会議の講演で、「室戸台風の風が、非常に恐ろしく、ショックを受けたが、このショックが中間子理論を発見させたのではないか」と述べています。天才が考えに考えた蓄積があり、そこに室戸台風の刺激があってのことと思いますが、湯川博士の住んでいた西宮市は、室戸台風の直径約25kmの眼の中に入っています。

室戸台風の被害

室戸台風の被害は、大阪府が一番大きく、近畿・四国を中心として死者・行方不明者合わせて3,066名(大阪府は1,888名」)という大きなものでした。これらの被害は、主として風害、高潮害および水害によるものです(表)。

私が持っている9月21日の大阪朝日新聞の第一夕刊では、4面しかない新聞の全てにおいて、台風記事で埋め尽くされています(同じ日の夕刊でも、第二夕刊以降は台風以外の記事も少しは掲載されています)。このことは、室戸台風の被害が非常に深刻であったことの反映ではないかと考えています。

表 室戸台風による被害一覧
表 室戸台風による被害一覧

室戸台風の予報

昭和9年当時、中央気象台は、全国を9に分けて暴風警報を発表していましたが、近畿地方を含む2区に対しては、20日14時10分に「風雨強かるべし」、20日20時20分に「暴風雨の虞あり」という暴風警報を発表しています。また、大阪測候所は、20日15時に大阪府管内に第1回目の地方暴風警報を発表し、21日2時には大阪府管内に暴風雨が来襲し高潮を伴うことを内容とした2回目の地方暴風警報を発表しました。

台風の中心は、725ミリ程度(注:約968hPa)で、東経130度半、北緯29度半にあり、中心から300キロメートル以内では大暴風雨です。進行方向は北北東で毎時45キロメートルとなっておりますから、このまま進めば、夜半九州の東海上、明朝紀淡海峡か大阪湾あたり、それから次第に北東に進むでしょう。従って進路付近の漁船は、最も厳重な警戒を要します。又、進路を外れた地方でも九州、四国、本州全部にわたって総て相当な警戒を要します。

出典:9月20日21時30分からNHKラジオで放送された漁業気象の一部

中央気象台では、台風はきわめて強いものであることが分かっており進路は予想したコースをとっていました。それにもかかわらず大きな災害となった原因としては、この台風の中心気圧が約968hPaをはるかに下回るという、考えられないはど記録的であったことがあげられます。また、室戸岬測候所で所員が暴風雨の中で血まみれになりながら観測したデータ、これまでに観測されたことがないほど気圧が低い台風がやってきたというデータは、有線の切断によって直ちに東京や大阪に伝わりませんでした。

深刻な学校の被害

室戸台風の中心付近や南東側では、学校、工場、神社・仏閣など大建築の倒壊や、列車の転覆など風による被害が著しいものでした。中でも小学校の倒壊による惨害は、深刻な社会問題となりました。最も被害の大きかった大阪市の状況をみると、市内の小学校の7割以上を占めていた古い木造建築の176校がすべて大被害を被っています。建物の被害に加えて、この台風は、折悪しく、午前8時を中心として激甚を極めたため、職員・児童の大部分は、既に登校の途中か登校後でした。このため、職員・児童をはじめ、出迎えにいった父兄等までも校舎の倒壊に巻きこまれ、多数の死傷者がでました。

一方、幼稚園については、建物が木造建築であり、約8割の31園が全壊・半壊・大破したものの、災害時刻が幼児の登園時刻より早かったため、職員・幼児の死傷者は小学校の場合に較べて少なかったと言われています。

室戸台風は広い暴風域を持った台風ですが、地形などの関係で、台風がごく近く(淡路島付近)まで接近し、風向が南に変わった途端に記録的に強い風が吹いています。大阪府立大阪測候所では、6時00分が北東の風6.4m/s、7時00分が東南東の風12.8m/s、7時50分が南の風23.3m/s、8時00分が南の風29.8m/sです。8時3分には風速計が吹き飛びましたが、瞬間風速は南の風60m/s以上と見積もられています。

もし、台風の接近とともに徐々に風雨が強まっていたら、多くの人々が21日の早朝から警戒し、これだけの被害にならなかったかもしれません。

教職員25名をはじめ、600名以上の子供たちが亡くなるなどの甚大な被害をうけ、このようなことが二度とおこらないことを願って、昭和11年10月30日に大阪城公園内に作られたのが教育塔です。

室戸台風による学校の木造校舎被害は、その後の鉄筋校舎の建設を促進させる動きとなりました。また、風雨が強い時は、臨時休校とするなど生徒の登校を制限する措置もとられるようになっています。

室戸台風以降、「高潮」という言葉が全国的に定着

室戸台風は南よりの強い風により、大阪湾沿岸を中心に四国東部、和歌山県などで高潮が発生しました。この台風の被害の大半を占めている大阪湾では、天文潮からの偏差が3.1mという高潮が起こり大被害となりましたが、これは満潮のほぼ3時間後の高潮です。それでも大阪城付近まで高潮が進入しました。もし、室戸台風の接近が満潮時であれば、これ以上の惨害が発生したであろうことが十分考えられます。

室戸台風について調査報告をまとめるにあたって、関西では高潮、関東では津波または風津波(地震津波や山津波に対応する言葉)と呼ばれていた現象をどう呼ぶかというのが問題となりました。議論の結果、関西の台風ということでもあり、高潮という言葉が使われたわけですが、この調査報告書以後、高潮という言葉が全国的に広まり定着しました。

図表の出典:饒村曜(1993)、続・台風物語、日本気象協会

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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