春の嵐と函館大火 これを機に北海道の中心は函館から札幌へ
春は、春一番からメイストームまで強い風が吹くことが多く、大火になりやすいので、過去の大火経験を風化させない努力が必要です。
昭和9年の春の嵐
昭和9年3月21日の朝に能登半島沖にあった低気圧は、12時間で20hPa以上も気圧が下がるという急発達をし、旭川では現在も一位の記録である961.0hPaを観測しました(図1)。
函館では20m/s以上の強い南南西の風が吹き、最大風速は24.2m/s(現在も歴代3位)でした。
この強風のなか、18時40分に函館市の南側に位置する函館山の麓から出火(火元は強風で壊れた家の囲炉裏の火)し約12時間にわたって燃え広がっています。
函館の街は、函館山から細長く北に広がり、東側も西側も海に面していますので、人々は北側に逃げざるを得ませんが、街の南側からの出火で、強い南風による飛び火によって、その逃げる先々で新たに火災が発生し、市街地の1/3(1万1000棟)が焼けるという大火なっています(図2)。
函館大火
強風によって火事が燃え広がる場合、焼失区域はその時の風向を中心に60~30度の線形になると言われていますが、函館の街そのものが、この線形であり、街の形と、火元の位置と気象状態が最悪の組み合わせでした。
昭和9年の函館大火は、地震以外では最大の火災で、当時、北海道最大の都市であった函館の約半分の10万人が被災し、2166名が亡くなっています。
多数の焼死者に加え、火災から海岸部へ逃れた人に高波が襲うなどで917名もの溺死者を出しています。さらに、着の身着のままで難を逃れた被災者にとって、雪が降り続いて気温が氷点下となった函館の夜は過酷で、217名の凍死者を出ました(図4)。
函館大火の数年後、函館市の人口は横這いだったのに対し、人口が増え続けていた札幌市が北海道一の都市となっていますので、北海道の主役が切り替わったきっかけになった大火ともいえます(表)。
函館大火のお礼を77年後の東日本大震災で
函館大火のあと、全国から沢山の支援物資が列車や船舶で函館におくられました。
その77年後の平成23年(1911)に東日本大震災が発生すると、函館市は函館大火に際し、全国から送られた支援のお返しとして、津波によって漁船の97%(約600隻)を失った岩手県久慈市に対し、228隻の中古船を送っています。
寺田寅彦の提唱した「科学的国防軍」
伝説の警告「転載は忘れた頃にやって来る」を言い出したといわれる物理学者で随筆家の寺田寅彦は、函館大火の翌々月の中央公論に「函館の大火について」という文章を書いていますが、この中で、火災に対する科学的な考え方の重要性を述べています。
また、昭和9年に相次いだ災害(2月の函館大火、7月の北陸洪水、9月の室戸台風)を受け、同年11月に「天災と国防」を書いています。
「日本のような特殊な天災の敵を四面に控えた国では、陸軍、海軍のほかにもう一つ、科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時に備えるのが当然である」などと記された寺田寅彦の考え方は、現在の消防庁や防衛省の役割に引き継がれています。