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計算機の普及で軽視と重視を生んだ気象統計業務

饒村曜気象予報士
統計のイメージ(ペイレスイメージズ/アフロ)

統計から始まった気象業務

 明治5年7月23日(1872年8月26日)に北海道函館で、北海道開拓使により函館気候測量所(現在の函館地方気象台)が設置され、日本で初めて気象等の観測が始まりました。

 明治8年(1875年)6月1日には、東京市赤坂で、内務省地理局によって東京気象台と称された気象係(現在の気象庁)が設置され、東京での気象等の観測が始まりました。

 当時の気象等の観測の目的は、その場所の気候観測でした。

東京気象台設立日の観測データはない

 東京気象台が明治8年(1875年)6月1日に業務を開始したのを記念して、6月1日が気象記念日となっていますが、明治8年(1875年)6月1日の気象観測値はありません。

 翌2日も、3日も、4日もありません。

 東京の気象観測データがあるのは、明治8年(1875年)6月5日以降です。

 これは、当時、観測データをそのまま使うのではなく、5日ごとに平均した値を使っていたからです。

 1月1日から5日ごとに区切った半旬では、31番目の半旬は5月31日から6月4日の5日間、32番目の半旬は6月5日からの5日間ということになりますので、気象業務の組織ができたのが6月1日でも、気象の観測開始は32半旬が始まる6月5日からだったのです。

 6月1日から始まったのは、空中電気と地震の観測でした。

 つまり、気象業務は、観測してから統計するのではなく、統計して利用するために観測が始まったのです。

計算機の高性能化と普及

 平成7年(1995年)4月に気象庁統計室の補佐官になりましたが、計算機の高性能化と価格の急激な低価格化が一気に進んだ頃でした。

 一般家庭のパソコンでもCDーROMが使えるようになり、400万円位したCDーROMを作る装置の価格が100万円台に下がってきました。

 そこで、前任者の計画を下敷きに、気象庁の持っている膨大なデータを印刷物ではなく、CDーROMという電子媒体で行うこととし、91万円の仕様書案を作りましたが、実際の導入価格は19万円でした。

 このような計算機の高性能化と価格の急効果は、統計は計算機を導入すれば簡単になり、導入コスト以上の人件費を削減することができると考える人が増えました。

 行政改革で、統計業務は国ではなく、独立行政法人など、国以外で行ったほうが良いのではないかとか、事業仕分けで統計を行っている部署は大幅な人員と予算の削減ができると言われたりしました。

 ただ、統計は、入力するデータを集め、そのデータの品質管理することにかなりの労力を必要とします。

 そして、得られた統計結果をどう利用するかにも、知恵と労力がいります。

 計算機に置き換えることができる集計作業は、統計業務の一部であることを理解してもらうのが大変でした。

月が変って2日目

 計算機の高性能化と価格の急激な低価格化は、気象統計業務を大きく変えると同時に、飛躍的な利用の拡大を生みました。

 その一例が、統計の早期発表と電子媒体での閲覧です。

 現在は、土日にかかわらず、1日には「先月の気象統計はこうでした」という発表が行われていますが、平成7年(1995年)までは、一ヶ月分の気象統計を翌月の15日頃に発表していました。

 それが気象統計業務の見直しで、月が変わって2日目(土日を除いて)の発表に変わりました。

 品質管理等の作業をするのに、半月かかっていたのが大幅に短縮できたといっても、この時は2日の勤務日が必要だったからですが、これを境に、テレビやラジオ、新聞などで取り上げられるようになりました。

 半月前の気象統計は一般国民の関心事ではなくなりますが、一昨日までの気象統計は関心を持つ一般国民がでてくるからだと思います。

 また、現在は、スマートフォンなどで簡単に気象統計を見ることができますが、平成7年(1995年)すぎまでは、全国にある気象台のどこかへでかけてゆき、紙で印刷した資料(印刷する時間だけ遅れている資料)を閲覧するという方法でしか入手できませんでした。

 気象統計業務の閲覧用のパソコンを2台ずつ全国の気象台に配布し、気象統計作業が終わった資料は、一般の利用者が即座に見ることができるようになりました。

 インターネットが普及する前の話です。

 のちに、インターネット利用が急速に進んだとき、電子媒体での閲覧が始まっていたことから比較的容易に移行できたのではないかと思います。

 統計室の補佐官時代には、全国の気象台に閲覧用のパソコンを2台ずつ置く計画を立てたのですが、提出した仕様書は、決裁の段階で2倍の予算になりました。

 上層部の決断で、2年計画を1年でやれということになったためですが、長い気象庁勤務のなかで、決裁の途中で予算額が大幅に増えた初めての経験でした。

 それだけ、当時の気象庁上層部に先見の明があったのではないかと思います。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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