鯰のせいが定着した安政江戸地震
ナマズと地震の関係
地震を経験する多くの民族は、地震の原因について、大地を支えている、あるいは、地中の中にいる動物(牛、亀、魚類)や神霊が暴れるため、と考えていました。
日本でも、はじめは大きな魚と考えていましたが、江戸時代初期からは、「ナマズ」と魚種が特定され、安政江戸地震の時に大量に出回った錦絵(瓦版)では、ナマズが主役として登場しています。
安政江戸地震
安政2年10月2日(1855年11月11日)午後10時ごろ、安政江戸地震と呼ばれた江戸直下の大地震(マグニチュード6.9)により、江戸の下町を中心に、幕府の調査で死者4741人(寺社領と武家屋敷を含めると死者は約1万人)、全壊・焼失家屋が1万4千棟という大きな被害がでています。
震度6以上の揺れと推定されるのは江戸付近に限られる一方で、震度4以上の領域は東北地方南部から東海地方まで及んでいると推定されています。
震源は東京湾北部から荒川河口付近の地震、または千葉北西部の60キロメートルという深い場所の地震と考えられ、特に強い揺れを示したのは隅田川東側(現在の江東区)でした。
安政江戸地震の前年には、2つの大きな地震が発生しています。
嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に安政東海地震(マグニチュード8.4)、その約32時間後の11月5日(1854年12月24日)に安政南海地震(マグニチュード8.4)が発生しています。
相次ぐ地震だけでなく、黒船来航、内裏炎上などの災異が相次いだため、「嘉永」から「安政」に改元となっています。
当時は、元号が変わると、公式の記録はすべて1月1日に遡って新しい元号に代わりますので、嘉永東海地震・嘉永南海地震ではなく、安政東海地震・安政南海地震です。
なお、安政東海地震、安政南海地震、安政江戸地震は「安政三大地震」と呼ばれます。
江戸幕府は、安政三大地震で被災した各藩に対する復興資金の貸付や、旗本・御家人などの被災者への支援、江戸市中の復興に多額の出費を強いられています。
相次ぐ地震災害が江戸幕府の寿命を縮めたと考えることもできます。
鹿島神宮の要石
安政江戸地震では、被害情報を伝える多数の瓦版が発行されています。
地震発生が10月(神無月)であることから、留守居役のえびす様が、地震をおこした大ナマズをとらえ、神様の集まっている出雲に連行しようとしている絵柄の鯰絵など、よく売れたという記録がのこっています。
当時は、災害は世の乱れをただすべく、天が警告しているという考えがあり、多数の瓦版や鯰絵も、江戸幕府の寿命をさらに縮めたと考えることもできます。
茨城県にある鹿島神宮には要石と呼ばれる石があります。
日本をとりまくように大ナマズの頭と尾が鹿島の地で重なり合っており、鹿島明神がその頭と尾を要石で差し貫いているために、普段は地震がおこらないとされています。