【光る君へ】藤原伊周・隆家兄弟が花山法皇に矢を射た事件の経緯とは
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原伊周・隆家兄弟が藤原道長に敵対心をあらわにしていた。その挙句、2人は花山法皇に矢を射るという、前代未聞の大事件をやらかしてしまった(長徳の変)。その背景や経緯について、詳しく見ることにしよう。
藤原伊周・隆家兄弟は、摂政・関白を務めた道隆の子である(母は高階貴子の娘)。伊周には道頼、道親という2人の兄がいたが、道隆が高階家を重視していたこともあり、早くから伊周は後継者の候補として扱われていた。たしかに、伊周は母の文才を受け継ぎ、教養豊かな人物だったと伝っている。
伊周が後継者の有力な候補だったことは、その猛烈な出世ぶりから明らかである。伊周は寛和元年(985)に元服すると、従五位下に叙された。以後、伊周の出世は順調で、正暦元年(990)に道隆が摂政になると、蔵人頭に任じられた。
その翌年に参議になると、従三位・権中納言から正三位・権大納言に短期間で昇進した。おじの藤原道長を追い抜き、21歳で内大臣に就任したのは、正暦5年(994)のことだった。
長徳元年(995)に道隆が飲水病(糖尿病)で死去すると、跡を継いだ弟の道兼も疫病で亡くなった。伊周は有力な後継者候補だったが、内覧の地位に就いたのは道長だった。以後、伊周は道長を恨むようになった。以上の経緯を踏まえて勃発したのが長徳の変である。
長徳2年(996)1月、花山法皇は太政大臣を務めた故藤原為光の四女のもとを訪れた。一方で、為光の三女に心を寄せていたのが伊周である。
伊周は花山法皇が為光の三女のもとに通ったと誤解し、弟の隆家にどう対応すべきか相談したのである。隆家は激しい性格だったといわれているので、相談相手としてはふさわしくなかったのかもしれない。
伊周と隆家は従者を引き連れて、花山法皇の一行を待ち伏せした。その際、従者の1人が花山法皇に矢を放つと、衣の袖を射抜いたのである。一説によると、伊周らは花山法皇を襲撃した際、2人の従者を殺害し、その首を持ち帰ったといわれている。
当時、公家がプライドを傷つけられたことにより、メンツを保つために激しい闘争に及ぶことがあった。しかし、いかにメンツを重んじたとはいえ、さすがにこれはやりすぎで、罪を問われることになったのである。
それは単なる逼塞で済むような問題ではなく、政治的な失脚を意味したが、その点に関しては改めて取り上げることにしよう。