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東日本大震災の教訓の風化を防げ 空港を襲い川を遡る津波の教訓は東京オリンピックで一気に風化した

饒村曜気象予報士
三陸津波被災地(ペイレスイメージズ/アフロ)

 平成23年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災から約7年がたちました。

 地震発生直後から後世の防災に役立つという教訓が溢れていました。しかし、これらの教訓の風化はどんどん進んでいます。

 東日本大震災の約47年前、昭和39年(1964年)6月16日に発生した新潟地震と地震に伴って発生した津波の教訓は風化して忘れさられ、東日本大震災のときには活かされませんでした。

 津波が空港を襲い、川を遡ったのは東日本大震災が初めてと多くの人が思っていますが、新潟地震では、新潟空港が津波をかぶり、信濃川を津波が遡りました。

新潟地震

 新潟地震は、昭和39年(1964年)6月16日13時2分に、新潟県沖で発生したマグニチュード7.5の地震です。新潟県と山形県を中心に死者26人、全壊家屋8600棟、浸水家屋1万6000棟などの大きな被害が発生しました。

 私は新潟地震のときに、市内の信濃川沿いの中学校の生徒でした。地震発生直後に校庭に避難したのですが、そこで校庭に吹き出している砂混じりの水を見ました。これがあとで流砂現象と知りました。

 図は新潟地震による新潟市の災害状況です。浸水区域とあるのは、津波による浸水区域で、図中の丸で囲んだ数字の1のところが、当時私がいた宮浦中学校の位置です。また、数字の2は新潟地方気象台の位置で、私の自宅の近くでもあります。

図 新潟地震における新潟市の災害状況
図 新潟地震における新潟市の災害状況

 子供だったので、訳がわからなかったのですが、先生をはじめ、大人達が地震発生直後から津波を口にし、高い所へ避難しよう、避難させようとしていたのは記憶に残っています。今になって思えば、新潟地震発生時には、地震がおきたら高い所へ逃げるという、戦前の「稲むらの火」の教育を受けた大人が大勢いたからではないかと思います。

 津波が来るということで、校庭から屋上に避難しましたが、近所の人達も、続々と学校の屋上に集まってきました。近くに鉄筋コンクリート製の建物が少なかったためです。そして、屋上からは、いつもは見えない海が近くの屋根越しに見え、そして、校舎の1階部分がかなりの高さまで洗われるさまの一部始終を見ました。

 海岸沿いにあった新潟空港(図では新潟飛行場)は津波の被害に飲み込まれてて使用できなくなり、信濃川を津波が遡りました(写真1)。

写真1 信濃川を遡る新潟地震によって発生した津波
写真1 信濃川を遡る新潟地震によって発生した津波

 写真に映っている人達は新潟地方気象台の職員です。幸いに、写真撮影直後に気象台の測風塔の上に避難して無事でしたが、すぐに堤防を津波が越えており、プロが様子を見に川辺にゆくという危険行為を行ったということで、あとでひどく怒られた行為です。

 一般人が高台に逃げて川辺にはゆかなかったことや、盛土で高くなっている信濃川沿いを走る白新線の線路上に、多くの人が避難したことなど、地震が発生したら高いころに、すぐに逃げるということが徹底して行われていたと思います。

 東日本大震災の津波に比べれば規模が小さいのですが、巻き込まれればひとたまりもない津波が県庁所在地の市を襲いましたが、津波による死者はでませんでした。

新潟地震の教訓の風化

 新潟地震発生直後から、少し遠くの石油タンクが燃え上がって、キノコ雲があがり、その煙のために数日は薄暗く、肌寒い日が続きました。そして、断水が長期間続き、中学校は休校、その後仮設プレハブ校舎で授業再開となりました。

 新潟地震の教訓の風化は、あっという間に進みました。新潟市の被災地以外では、新潟地震の約4ヶ月後に開催された東京オリンピック(昭和39年(1964年)10月10日に開会式)のニュースで溢れてきたからです。

 被災者は、被害をもたらした地震についての記憶は長く残りますが、被災者以外の人の記憶は、時と共に急速に減衰してゆきます。新潟地震の被害は、いっとき、日本中の関心を集めましたが、新潟市付近を除くと、徐々に世間の関心はオリンピックに移っています。

 3日後には「飽きる」、3ヶ月後には「冷める」、3年後には「忘れる」といわれていますが、新潟地震の3ヶ月後はオリンピックムード一色となり、記憶の減衰はより大きかったのではないかと思います。

 私達はというと、東京オリンピック時はおろか、翌年までプレハブ校舎での授業でした。

 新潟地震の教訓が東日本大震災のときに活きていたらと思います。

 地震が発生したら津波が来るので、すぐに高いところに避難する。

 津波は川を遡るので、地震が発生したら海辺や川辺にはゆかない。川に沿って上流に逃げるのではなく川から離れて高いところに避難する。

 東日本大震災発生直後のテレビでは、ヘリコプターからの生中継が流されていました。そこには、津波に追われて逃げ回る何台もの車が写っていました。被害者感情から再放送されることはないと思われる画像ですが、生中継を見ながら、早く車を捨てて、すぐ近くにある高速道路へよじ登って欲しいと叫びながら見ていました。

 車を使っても水平方向の移動では津波の速さに負けます。

 津波の避難はとにかく高いところへの移動、垂直方向への移動です

教訓を忘れないために続ける

 東日本大震災による津波により多くの人の命が失われました。東日本大震災の発生ですが、このとき、もし皆が、より高い所へ逃げていれば、もっと数多くの命が助かったのではないかという思いが、多くの人の心に残りました。

 平成23年(2011年)6月に成立した津波対策推進法では、「国民の間に広く津波対策についての理解と関心を深めるようにするため、11月5日を「津波防災の日」としました。

 これは、安政南海地震で津波が襲った日、旧暦の安政元年11月5日(1854年12月24日)に由来します。

 しかし、マスコミによる注目もなく、国民の認知度も低いままでした。「このままではいけない!」と立ち上がったのがお天気キャスター森田正光さんで、日本のテレビ界で大活躍している木原実さんなど、お天気キャスター等に呼びかけて開催したのが「第1回津波防災の日のイベント」です(写真2)。テレビ局もバラバラな上、放送する時間も違うので、お天気キャスターが一か所に集まるというのはこれが初めてのもので、会場で集めた募金とイベント収入は東日本大震災の被災者へ日本赤十字社を通じて寄付されました。

写真2 第1回津波防災の日のイベント(平成23年(2011年)11月1日、壇上左端から2人目が森田正光さん、右端が筆者)
写真2 第1回津波防災の日のイベント(平成23年(2011年)11月1日、壇上左端から2人目が森田正光さん、右端が筆者)

 この「津波防災の日のイベント」は、第2回以降は、津波防災の日の11月5日から安政南海地震の日を西暦になおした12月24日までの間で、お天気キャスター等が集まりやすい日に開催しています。

 昨年、平成29年(2017年)も、12月15日に「第7回津波防災の日のイベント」が開催され、会場で集めた募金とイベント収入等は東日本大震災の被災者に日本赤十字社を通じて寄付されました。

 小さな試みですが、継続することを最優先に、日程や内容を考えているイベントです。

 継続することで、少しでも教訓の風化を遅らせることができるのではないかと考えているからです。

写真1の出典:新潟地方気象台(昭和56年(1981年))、創立百年誌、新潟地方気象台。

写真2の出典:津波防災の日イベント事務局(ウェザーマップ)。

図の出典:饒村曜(平成24年(2012年))、東日本大震災・日本を襲う地震と津波の真相、近代消防社。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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