三陸沖台風 多数の艦艇による台風観測で得た軍事機密「第四象限」
昭和6年の満州事変、7年の5.15事件、8年の国際連盟脱退と、暗い戦雲が覆い始めていた昭和10年は、大正11年に締結されたワシントン軍縮条約の期限が切れる年でもありました。
世界中が無制限軍備拡張時代に突入しようとしており、この年の夏から秋に行われた海軍大演習は特に力が入っていました。
昭和10年の海軍大演習
昭和10年の海軍大演習に参加する艦隊は、青軍(味方側で司令官は高橋三吉中将)と赤車(敵側で司令官は松下元中将)に分けられ、青軍には日本海軍を象徴した常備連合艦隊である第一艦隊と第二艦隊があたりました。この中には、「山城」や「榛名」といった大改装を終えたばかりの戦艦を含む主力艦のほとんどが入っていました。
これに対し、赤軍は、臨時編成の第四艦隊があたりました。旗艦は巡洋艦「足柄」で、「初雪」や「夕霧」など最新鋭の駆逐艦が入っていました。そして、9月下旬の三陸沖での青軍と赤軍の決戦をもって、この大演習は終了する予定でした。
このため、函館港に集結していた第四艦隊は、24日20時45分に補給部隊、翌25日6時00分には水雷部隊、16時00分には主力部隊と次々に出航し、図1のように隊列を組んで三陸沖に向かいました。
函館出港後の海上は、25日未明に四国に上陸し、日本海に抜けた台風の影響を受けて荒れてはいたものの、台風の北上につれしだいにおさまってきていたました。また、関東の南海上にある別の台風、後に三陸沖台風と呼ばれる台風は、やや発達傾向をみせているものの日本の南海上を北西に進む予報で、演習の行われる三陸沖には影響がなさそうでした。
このため、気象担当艦の巡洋艦「那智」をはじめ、全ての艦艇は安心をして、臨時放送予告のあった1時50分放送の26日00時の気象通報は聞かずに、6時の定時気象通報のある翌朝の8時まで眠りについています。
目前にかなり発達した台風
26日8時の気象通報を聞いた「那智」は大騒ぎとなっています。日本の南海上を北西に進んでいるはずの台風が目前にきており、しかも、かなり発達していたからです(図2)。
このままだと昼過ぎには艦隊が台風と遭遇してしまうため、艦隊司令部は、艦隊の安全を守るため西へ一時反転することを考え始めました。しかし、すでに海は再び荒れ始めており、視程も悪くなっていました。この状態で反転すれば、密集状態の艦艇同士の衝突の可能性があったこともありますが、艦隊司令部内には「日米決戦では台風に巻き込まれて戦うこともありうるので絶好の訓練になる」との意見もあり、反転は断念されました。
ここに、空前絶後といわれるほど多数の艦艇が、台風に向かって突き進むことになっています。そして各艦には常として、専門の気象観測員が乗り、自記気圧計や風向風速計等の測定器が設置されていますので、はからずも、多数の艦艇による台風の共同観測という、二度とできない貴重な観測が行われています。
そして、台風内の風や波の分布が初めてわかりました(図3)。
被害は水雷部隊に集中
第四艦隊の主力部隊は、14時30分頃、台風の中心を通過し、目の周囲では秒速40メートルという強い風を観測しています(目の内部では15メートル以下の風)。
これに対し、水雷部隊は、台風の中心に一番接近したのが、12時から13時で、中心から200キロメートルほどの距離でした。しかし、主力部隊より強い風や波を観測しています。
15時に駆逐艦「朝風」の艦橋を破壊した大波は、波高が15メートル以上もありました。また、破壊力が強い三角波(進行方向が異なる2つの波が衝突してできる波)ができていました。
このため、各艦で台風被害が相次いだのですが、駆逐艦「夕霧」の艦首切断や駆逐艦「初雪」の艦首切断など、第四艦隊の深刻な被害は、水雷部隊に集中しています。
軍事機密「第四象限」
三陸沖台風の風や波の観測資料は、すぐに整理されたのですが、全て軍事機密となり、公開されませんでした。
ようやく日の目をみたのは、昭和28年になって、海上保安庁から「航海参考資料 その2(台風編)」として、旧海軍の軍機書誌であった「台風に関する調査研究」を復刊してからです。
また、艦隊の被害は、演習中に「初雪」と「夕霧」が衝突したとされ、台風の直接の被害であることは国民に伏せられました。むしろ、これほど激しい演習をしていると美化されました。
大演習終了後、いろいろな角度から徹底的に検討が行われています。
査問委員会の席上、気象台の責任を追及する動きに対して、山本五十六主席委員は、責任を転嫁することはできないと述べています。そして、台風の予報がうまくいかなかった責任を責めるより、うまくいかなかった最大の原因である観側資料の不足を補うため、気象台の観測に加え、昭和11年から海軍水路部でも南洋の島々に観測網を作っています。
そして、三陸沖台風の教訓は、極力外部にもれることを防ぐ一方、これをもとに艦船の補強に生かされました。
また、台風の進行方向に対して右後方、つまり第四象限は、「三角波ができるので船舶にとって一番危険な海域である」ということも軍事機密になっています。
もし、日米戦わば、互いに台風に巻き込まれることもあるが、補強をしていないアメリカ艦隊が危険なことを知らずに第四象限に入れば、三陸沖台風の水雷部隊のように、大きなダメージを受けるはず。これこそ神風になると考えたからです。
実際に戦争に突入してみると、日本海軍は台風の被害を受けなかったのですが、アメリカ海軍の台風被害の情報も入ってきませんでした。
しかし、実際には、日本の予想通りにアメリカ軍は台風に苦しめられ、フィリピン・レイテ島戦の時には台風によって大きな被害をだし、沖縄戦の時も台風により大きな被害をだしていたのですが、アメリカはこのことを必死になって隠していました。そして国力の差で、台風被害をカバーしていました。
タイトル画像と図の出典:饒村曜(2002)、台風と闘った観測船、成山堂書店。