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「今は平和ですが、昔は自殺者が後を絶ちませんでした」の言葉。ハンセン病の隠された事実を後世に

水上賢治映画ライター
「凱歌」 坂口香津美監督 筆者撮影

 「ハンセン病」について、どれだけのことを私たちは知っているのだろうか? いや、どれだけ正確なことを知らされているのだろうか? はたして、ハンセン病患者のみなさんの言葉にきちんと耳を傾けてきたのだろうか?

 そんな思いにかられるドキュメンタリー映画「凱歌」の作品について迫る坂口香津美監督へのインタビューの第三回にして最終回。

 全生病院(国立療養所多磨全生園の前身)で暮らす元ハンセン病の元患者の人々の生の声を記録した本作についての坂口監督の話は尽きない。

川端康成とハンセン病で亡くなった作家、北条民雄の師弟関係

第一回に続く、前回は坂口監督がハンセン病の核心部分と考えた、「断種」について主に語ってもらったが、今回もまずはその話の続きから。

「川端康成が短編小説『寒風』でハンセン病で亡くなった作家、北条民雄について書いている。

 川端は北条の文才を見抜いて親身にアドバイスをしている。小説『いのちの初夜』で北条を世に出した人物で師弟関係にあった。

 それで、『寒空』に書かれているのだけれど、川端は北条が亡くなったときに初めて多磨全生園にいくんです。そこで、案内人から断種の話を聞く。でも、そのまま受け流して、なぜか断種については一切ふれない。僕は、そこで思うんです。『川端ぐらいの大作家が、断種について書けば、ものすごいものができたのではないか』。『断種を後世に伝えるものを書けたのではないか』と。

 ただ、川端はすごくて、たとえば北条民雄から原稿が送られてくるでしょう。そうすると、恐れずに読んでいく。北条が『この手紙は消毒されています』と伝えると、『わかってますから』と気にしない。感染を恐れないということはハンセン病を恐れないということ。全然恐れないで、北条と向き合う。これは当時としては、すごいことだなと僕は思います」

自治会の入所者のみなさんが命がけで編んだ1冊の本「倶会一処(くえいっしょ)」が指針に

 「凱歌」を作る上で、ひとつの指針となった本があったという。

「2009年、僕が全生園に行ったときに、入所者の医療、介護を国に求める交渉の先頭に立っていた、もうお亡くなりになられましたが、全国ハンセン病療養所入所者協議会の会長の神美知宏(こうみちひろ)さんから、1冊の本を渡されたんです。『これを読んでみてください』と。その本が『倶会一処(くえいっしょ)』というタイトルで、意味は、“あの世でみんなで会おう”という意味なんです。この言葉は中村賢一さんも好き。だから彼は全生園で死んで、納骨堂に入ると決めている。

 この本は、全生園の患者自治会が全生園の70周年を記念して、1979年に編纂した本なんです。この本がほんとうに濃密な内容で、前回触れたハンセン病で断種手術を受けた後に1週間だけ卵と牛乳を支給された、というこの本の中にしか書かれていない事実が濃密に書かれている。5名の入所者が編纂委員会のメンバーだが、その筆頭に光岡良二の名前がある。彼は北條民雄が信頼を寄せた病友で、北條の文学仲間であり、最後を看取った人物でもある。川端が北條亡き後、作家になることを勧めたが、断り、全生園で入所者とともに生きることを決断した人物。この本のなかで、僕が最も心ふるわせたのは、まえがきに記された次の一文です。

 『ながい隔離療養生活のなかで、患者を心から愛し、献身された、数多くの、心やさしく、気高く、けなげな職員やその他の働きびとたちを知っている。だが、それらの人びとのその献身の生涯を賛美し、聖化することにつなげて、国家が行って来た過酷な非人道的な行政(撲滅政策)そのものを肯定し、聖化しては絶対にならないと思う』

 らい予防法が廃止され、今では24時間多磨全生園の門は開放されているが、『ここで何が起こったのか』という歴史的事実を記録し、真実を見誤るな、という意味であると理解して、僕が映画を撮るにあたり、寄って立つべきスタンスとしました。この自治会の入所者のみなさんが命がけで編んだ本、この本を常に意識しながら、僕は『凱歌』を作り上げました」

「凱歌」より
「凱歌」より

宮崎駿監督とも親交があった佐川修さんについて。そして『もののけ姫』

 また、『倶会一処』の編纂委員会のメンバーで、本作にも登場する多磨全生園の元入所者自治会長の佐川修さんもすでにお亡くなりになったが、どんな印象をもっただろうか?

「佐川さんは、多磨全生園の近くに住む宮崎駿監督とも親交があった人で、宮崎監督は佐川さんと会うなかで『もののけ姫』で『タタラ場』で働くハンセン病らしき人々を登場させている。親友の死を悼み、ハンセン病資料館で講演をし、涙ながらに佐川さんのことを語っている動画(※宮崎駿さん語るもののけ姫とハンセン病)がYouTubeにアップされているので、知っている方もいらっしゃると思います

 佐川さんはほんとうに物静かな人で、国や政府に対して怒りや憤りがあったと思いますが、あまり激しく感情を露わにすることはなかったように思います。そういう場面に遭遇しなかっただけかもしれませんが。いつも何かを深く考えている人という印象でした。

 ある雪の朝、園内にある住まいに招かれて撮影をしたことがありました。起きがけに奥さんとふたりでお茶を飲んでいるところを撮影しました。何らかの夫婦の会話を期待しながらカメラを回しますが、夫婦とともに黙り込んでしまいました。『何か話してみて下さい』、テレビの収録ではよくやる声がけを、この夫婦には僕は最後までできませんでした。住まいの外で待っていると、自転車を納屋から持ち出してきて、雪の道を歩きながら僕に話してくれました。『今は平和ですが、昔は自殺者が後を絶ちませんでしたよ』などと。ああ、カメラを回しておけば良かったと後悔しましたが、そういう僕のうすっぺらさを含めて自然と受け入れる包容力を感じましたね」

 今回の撮影を終えて、こんなことを感じたという。

「映画で出演者が語られている言葉は、ここだけのその人の偽りのない言葉です。どういうことかと言うと、同じ療養所で、ともに生きてきた全生園の仲間がいる前で、交わされる言葉には嘘偽りや虚飾はない。真実の言葉しか出てこないと思うんです。一緒に命がけで苦楽をともにしてきた人たちだから、少しでも虚飾が紛れ込んでいたら、『それは違うだろ』と指摘される、ならば覚悟を決めて本心で語るしかない。そういう自身の思いをある意味、僕に託してくださった全生園のみなさんには感謝の言葉しかありません」

 また、ひとりのドキュメンタリー作家としてはこんな思いを抱いたという。

「ドキュメンタリーというと、偉人の功績を振り返るような作品もありますが、僕は、功成り名を遂げたというような、そういう人の生き方や人生には興味がないし、触手がわかないんですよね。今回、登場する人たちは、中村賢一さんにしても、山内きみ江さん夫妻にしても、無名というか市井の人で。でも、彼らの人間性に触れたとき、ほんとうにいろいろなことに気づかせてくれる。大切なことを教えてくれる。そういう人に惹かれ、ある種のシンパシーを感じて、映像で記録を残したいんですね、きっと僕は」

 先日迎えた4月1日で「らい予防法」「優生保護法」の2法律の廃止から25年を数えた。その上で最後にこうメッセージを寄せる。

「らい予防法は、ハンセン病患者を隔離することを前提とした法律。また、優生保護法は、病気や障害をもつ子どもが生まれてこないようにする、その目的のために、不妊手術と人工妊娠中絶を行う法律でした。これら2法律のために、どれだけ多くの人々が多大なる身体的・精神的苦痛を受けたことか、それを思うと暗澹たる気持ちになります

 1907年(明治40年)、『ライ予防ニ関スル法律』が公布され、ハンセン病患者の隔離政策が始まった。8年後の1915年から、全生病院で男性患者に対する断種手術(優生手術)が開始されたが、患者を隔離し断種することにより、患者とその子孫の撲滅を図るのが目的だった。戦後、ハンセン病はプロミンなどの特効薬が普及し、治癒する病気になったにもかかわらず、日本国憲法下でもハンセン病患者への迫害と人権侵害は止むことなく続き、ついに1948年に公布された優生保護法により、断種・堕胎手術は合法化された。

 では、戦前・戦後を通した国家犯罪といえる隔離政策や断種手術の推進者はというと、その責任を裁かれることなく、無らい県運動やらい予防法制定の中心人物とされた人物に至っては文化勲章まで授与されている。すでに鬼籍に入っているとはいえ、無数のハンセン病の患者の血が流されてきたのに。この事実を知るにつけ、ハンセン病患者でない僕でも血が煮えたぎる思いがある。

 2020年12月、渋谷のシアター・イメージフォーラムで、『凱歌』を観たという方からメールが届きました。<『凱歌』はとても美しい映画でした。昔観た、同じハンセン病を扱った『小島の春』という映画を思い出しました。あの映画も、とても美しい映画でした>とある。気になり、ネットで『小島の春』を検索すると、1940年の公開で、第17回キネマ旬報ベストワン映画とある。

 その夜、僕はYoutubeで、この88分のモノクロ映画を見ました。ふるえが止まらず、途中で何度か中断しなくてはならなかった。ふるえが止まらなかったのは、この映画の持つ恐ろしさに気づいたから。『凱歌』を撮影していなければ、僕はこの恐ろしさに気づかなかったでしょう。

 映画は、一隻の舟から白衣の女医が島に降り立つ場面から始まる。数日後、女医は島で見つけたひとりのハンセン病患者を伴い、療養所をめざして舟で島を離れる、という物語。この劇映画の何が恐ろしいのか。

 映画は、『療養所にいくと病気が治る。そこでは何不自由なく暮らせる』と女医に語らせ、療養所がまるでハンセン病の患者にとって『天国』あるかのような印象を抱かせる。

 その主張は、映画の全編をつらぬく。ハンセン病を罹患した父親のこれから生きる場所は、女医が示す療養所以外どこにもなく、小島の片隅で畑を耕しながら終生、家族とともにひっそり暮らしたい、と父親が願ったとしても、ハンセン病患者にはそれが許されないことは明白だ。

 1930年代から1960年代にかけて、全国のすべてのらい病患者を療養所に隔離・強制収容させるという『無らい県運動』が実施された。時期的にみて、『小島の春』はその運動に少なくない加担を、貢献をしたことが推察される。

 ここに、映画というメディアが構造的に孕(はら)む危(あや)うさがある。

 『小島の春』の公開から17年後の1957年、『凱歌』の主人公の22歳の山内きみ江さんはハンセン病を発症し、全生病院(現国立療養所多磨全生園)に入所する。ジョン・レノンが自由の象徴、ビートルズの前身、『クオリーメン』を結成した年です。

 山内きみ江さんは、女医とともに療養所に向かう舟に乗り込む『小島の春』の男性患者のように、愛する家族と永訣し、終生、療養所で暮らすことを決意する。

 『小島の春』のラストシーン。家族のために、地域のために、女医とともに島を離れるハンセン病の父親を乗せた小舟。その後を追い、見えなくなるまで手をふる少年。この映画のような残酷な家族との永訣が長い間、全国で行われていたのです。

  ハンセン病の患者が連れて行かれた療養所が、『小島の春』の主人公の女医がとうとうと語る『天国』のような場所では決してなく、ハンセン病患者を撲滅するための強制収容所であったことを、80年後の今、僕たちは入所者の実体験から発せられた証言によって露見させたのが、『凱歌』ということになるのだと思います」

「凱歌」より
「凱歌」より

「凱歌」

シネ・ヌーヴォ(大阪)にて4/23(金)まで公開中

刈谷日劇(愛知県刈谷市)※愛知県アンコール公開

4/15(木)まで公開

詳しくは、公式サイトにて

筆者撮影をのぞいて写真はすべて(C)株式会社スーパーサウルス

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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