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「門は解放されている。でも、檻の中は続いている」。元ハンセン病患者の生の声を届ける「凱歌」

水上賢治映画ライター
「凱歌」 坂口香津美監督 筆者撮影

 「ハンセン病」について、どれだけのことを私たちは知っているのだろうか?いや、どれだけ正確なことを知らされているのだろうか?

 とりわけ、ハンセン病によって国の政策によって終身隔離され、断種まで余儀なくされた元患者の人々の心の底からの声にはほとんど触れたことがないのではないだろうか?

 これまで200本以上のTVドキュメンタリーを制作しながら、社会に根差した劇映画も発表している坂口香津美監督の新作ドキュメンタリー映画「凱歌」は、国立療養所多磨全生園(前国立ライ療養所多磨全生園)で暮らす元ハンセン病患者の人々の生の声を記録した1作。きれいごとで片付けられない彼らの国や社会への本音が収められている

 昨年11月から東京での公開を経て、今月から全国各地での上映がスタートする中、本作を9年という歳月をかけて完成させた坂口香津美監督のインタビューを3回に分けてお届けする。

国立療養所多磨全生園との偶然出合い

 はじめに本作のはじまりは、まったく別のところからはじまったとのこと。坂口監督はこう明かす。

「1988年のことになるんですけど、あるテレビのドキュメンタリー番組で、山村留学する少年を取材することになりました。その際、東村山市の彼の自宅を訪れてふと、家の窓の外に目をやると、東京とは思えないずいぶんと深い緑の生い茂った森が広がっていました。

 気になって少年のご両親に聞いてみたら、『ここは元ハンセン病の施設だった多磨全生園があるんですよ』と。よく聞くと、少年のご両親は施設のスタッフをされていました。

聞いた瞬間は、お恥ずかしい話ですが、ハンセン病について正確な知識はほぼゼロで。今となっては無知で反省するばかりなのですが、『怖い』と思ってしまったんですね。感染症の病気といったイメージから、僕が臆病な性格もあって。

 おそらく、そのときの僕のなんともいえない様子を察知してか、お父さんが『(全生園)は作家の北条民雄も、ここに若くして入って24歳で亡くなられたんですよ』と教えてくれたんです。

 僕は北条民雄のことも知らなかったんですけど、気になって帰りに本屋に寄って、『定本北条民雄全集』を購入しました。ただ、買ったんですけど、その少年を取材する企画がすぐに本格始動したりして、その本を長らく開くことはありませんでした」

 実際に、その本を開いたのは、それから10年が経った2008年のことだった。

「当時の僕の状況をお話すると、妹が病気で亡くなり、長女を喪ったショックから母親が精神安定剤を手放せない状況になっていました。母は取り乱すともう手がつけられないといいますか。

 今振り返ると、僕自身が母のことをよく理解しようともせず、どこか拒絶して、手のつけられない母の混乱から無意識のうちに逃れようとしていたのだと思います。当時としては、強い母親でしたから、『悲しみを乗り越えて、昔のような母ちゃんに戻ってくれよ』といった心境で。とにかく何もできずにただただうろたえて、おろおろとしていました。

 でも、どうにかしないといけないので、両親の『近くにいてほしい』という希望もあって、僕は東京の住まいを引き払い、両親の暮らす埼玉のURの団地の別棟に転居しました。

 その引っ越しの際、荷をほどいて整理していたとき、『定本北条民雄全集』がなぜか目に入ってきました。『いのちの初夜』『吹雪の産声』など、全生園を舞台にした彼の小説を読み進めると、隔離され差別を受け追い詰められていくハンセン病の患者さんの姿が、精神的な混乱で苦しみのたうち回る老いた母の姿に、どこか重なりました

 それから母を少しでもよい状態にしたくて、東京、埼玉と方々の大小の精神科のある病院やクリニックに母を連れて足を運んだんですけど、その待ち時間や移動時間に僕の傍らには常に北条の小説がありました。

 そうこうしている中で、自ら入所者となった北條民雄のハンセン病の隔離施設での日々を描いた小説や随筆に背中を押されるように、多摩全生園の扉をノックしてみようという気持ちに心が動いていきました」

隔離された経験を持つ元患者さんに、自分のような普通に生きてきた人間が受け入れられるのか、不安があった

 こうして多磨全生園に通い始めることになるが、実際に撮影をはじめるまでにはしばらく時間がかかった。

「カメラを回しはじめるまでには、かなり葛藤があって時間がかかりました。

 というのも、僕はこれまでTVドキュメンタリーに関しては200本以上作ってきましたけど、ドキュメンタリー映画も含め、取材対象者は自分から探していくんですね。

 もちろんその過程で偶然向こうから現れてくれる人もいるのですが、基本は僕自身が探さなくてはならない。

 ただ、全生園の場合は探すことを僕は一切しなかったんです。探さなかったといよりかは探すことができなかったのが正確なところ。施設を訪れたのはいいんですけど、入った瞬間に僕の手には負えないと感じたんです。

 残された資料や文書から、ハンセン病の療養所の状況を知識として得ることはできる。でも、書面で書かれた文字から浮かび上がることと、現場で体感で自分が感じる現実はまったく違う。また、これまでのハンセン病の長い歴史があるわけですけど、その歴史が終わっているわけではない。実際には元患者さんがおられて、いまも全生園で過ごされている方が100名以上いらっしゃる。患者さんたちの日々という現実は現在も続いているわけです。

 こうしたハンセン病のこれまでの歴史と、現在とこれからの現実、資料や本などに収められてきたハンセン病の過去の記録と、今も生きている人々の証言をつなぎあわせなければいけない。過去と現代、資料や文書が伝える現実といま自分自身が感じるリアルな現実、この間にあるへだたりをきちんと埋めなければならない。

 そのつながりや溝を埋めてくれるのは、やはり当事者の元ハンセン病患者さん以外には考えられない。ただ、当時、僕は先ほど触れた通り、母のことに相当なエネルギーを奪われていたので、その人探しにまで労力を注ぐ気力も体力もなかった。

 ドキュメンタリーの取材対象者を一から探すというのは大変で。まずみなさんそうだと思いますけど、知らない人に声かけられて『取材させてください』といっても怪しまれるのが関の山で、誰もついていきませんよね。ですから、まずは自分という人間をわかっていただかなければならない。わかっていただいて信頼関係ができたところでようやく成立するのが通常なんです。自分のことを理解してもらうことは難しい。納得してもらうためにはそうとう神経をすり減らす。だから、人を探すのは当時の自分には厳しいと思ったんです。

 あと、半世紀以上もの間、隔離された経験を持つ元患者さんに、自分のような曲がりなりにも普通に生きてきた人間が受け入れられるのか、不安があったのも確かです。

 それで、手抜きと怒られても仕方ないんですけど、多摩全生園の入所者自治書記室を通じて、『僕の映画に出演してみたいと思う人いませんか?』と、募集というわけではないですけど、お願いしてみたんです。

 自治会のほうに主旨を書いたペーパーをもっていって、取材に応えてくれる人がいないかと、お願いしてみました。

 自治会の方はちょっと戸惑っていたんですけど、最終的には『じゃあみなさんに声をかけてみましょう』といってくださった。

 だから、取材対象者を探すことについては、完全に人任せ。ほめられたものじゃないんですけど(苦笑)、当時の僕としてはそれが精一杯だった。

 ただ、それでも取材を考えたということは、たぶん太刀打ちできない、無理と感じながらも、ハンセン病について自分の中に素通りはできない、撮影したい気持ちがあったんだと思います」

 そうした複雑な心境にいる中に連絡が入ったという。

「どのぐらいたったかわからないんですけど、僕がもう無理だと諦めかけて、忘れかけたころに電話が入ったんですよ。『取材に応じてくれる人がいますよ』と。

 びっくりしました。期待しつつも、ぶしつけなお願いですから、いなくても仕方がないと思っていましたから。

 ただ、これまでの経験上、自ら取材を望むタイプの人には、自分の主張のみを押し付けてくる方が少なくない傾向がある。そうなることは避けたい。

 ですから、ちょっと慎重になりながら、お会いしにいったんです。

 そこに現れたのが、映画にも登場している中村賢一さんで。中村さんは、『とにかく僕を撮りなさい』と。その瞬間、『危惧していたことが…』と思ったんですけど(苦笑)。もう気づいたときには遅くて、すでに中村さんのペースにはまっていた(笑)。それで気づけば撮影に入っていた。

「凱歌」より 左が中村賢一さん
「凱歌」より 左が中村賢一さん

 おそらく、あの時、僕は、ただものではない、抜き差しならない、中村さんの眼差しの強さに心が奪われて、ひとりのドキュメンタリー作家として『撮りたい』気持ちになっていたと思います。

 ここがまさに『凱歌』の出発点。ここからスタートしました」

国のハンセン病に対する政策は確かに非人道的で、その事実は消しようがない。ただ、この事実はあくまで作品の入り口に過ぎないのではないか

 そこから中村さんに導かれての取材が始まったという。それは映画の前半をみるとよくわかる。ただ、ここからもそうすんなりと事は進まなかった。

「はじめは、中村さんの動きの後を追うように、出会った人を撮る。そういう日々が続きました。

 ただ、途中で疑問がわいたというか。

 中村さんには確固たる国や社会に対する考えや信念がある。自分たちが受けてきた差別の苦しみや悲しみを映画を通して、伝えてほしい。その主張を伝えずには『死ぬに死ねない』という心情も理解できる

 ただ、僕は取材を進めていくうちに、ハンセン病の元患者の方々が長い間、様々な仕打ちを受けたり、侮蔑的な差別を受けたりと、言い知れない艱苦(かんく)を積み上げてきたこと、また、隔離施設で受けた凄絶な体験を告発するなど、このまま進んでいくと、そのような作品の方向性でまとまってしまうのではないか、と内心危惧する声が生まれてきたのです。そして、僕が撮るべきテーマはこれとは違うものなのではないか、という考えが色濃くなっていきました。

 国のハンセン病に対する政策は確かに非人道的で、患者のみなさんは社会からいわれなき差別をうけてきた。その事実は消しようがない。ただ、この事実はあくまで作品の入り口に過ぎないのではないかと僕は思ったんです。

 そのうち、中村賢一さんに導かれて撮影を続けるやり方に対して、僕の中で疑問が生まれ、しんどいものになってきたのです。

 そんな折、中村さんに激怒される事態を起こしてしまいました。それは作品のメインの出演者である山内きみ江さんの夫、定さんがお亡くなりになった時のことです。中村さんはすぐに僕に連絡をして来て、『坂口さん、定さんの葬儀の模様を撮影をして下さい。撮影の許可はぼくの方で取るから』と強く言われたのです。

 でも、そのときの僕は、定さんが亡くなったと聞いても、なぜか身体が動かず、撮り気になれないのです。

坂口監督(左)と山内定さん(中央)ときみ江さん(右)
坂口監督(左)と山内定さん(中央)ときみ江さん(右)

 『行きません』と伝えると、中村さんは激怒して『なんでこないんだ!』と。最も親しい僚友の死を、ぼくのカメラで撮影して欲しいと、中村さんは心から願っていました。そのお気持ちが痛いほど伝わるだけに、撮影をしないことに罪深ささえ感じましたが、僕の決意は揺るがず、断腸の思いで、お断りしました。

 僕が撮影に行かなかっだ理由は、定さんはその頃、病気が厳しい状態で、いつ亡くなってもおかしくない状態であり、最後の場面を万感の思いを込めて撮影しており、その先の映像を撮る必要を感じなかったというのが、その理由です。

 葬儀を撮りにいかない理由を、僕は、中村賢一さんには伝えませんでしたし、今も伝えていません。拒否したら、おそらく中村さんは僕と関係を絶つに違いない。そうなることがわかっているにも関わらず、どうしても撮影に向かうことができませんでした」

分かったつもりでいる人々に一撃を与えるドキュメンタリーになったと思う

 その時点で、一度撮影はストップ。その後、試行錯誤を経て、独自の手法を見出すことになる。

「この作品は一部のシーンを除いて、多摩全生園の中だけで撮影しました。つまり、カメラはこの檻(「倶会一処(くえいっしよ)」(患者が綴る全生園の70年/1979年発行/多磨全生園患者自治会編)より)の中から一歩も外に出ていません。意識して、カメラを外に出しませんでした。

 つまり、この映画は『檻のなか』だけで撮られた映画なのです。それはハンセン病に罹患し、この強制施設で半世紀以上、隔離された生活を送って来た、その基盤を外したくなかったからです。彼らを苦しめた、らい予防法が廃止されて今年の4月1日で25年になりますが、多摩全生園の門は解放され、門衛もいない、24時間出入り自由です。

 しかし、長年この檻の中で生活を余儀なくされた人々の大半は、このかつての檻のなかでいまも生活をしています。カメラは檻の外は一切、映していませんが、その分、檻のなかで何が行われてきたか、暗黒の核心部に光を当てているという自負はあります。出演者の掲げる執念の灯火によってですが。

 この映画は、ナレーションは一切なく、最小限のテロップが案内役を果たしているだけ。過去の歴史の説明など情報も一切、与えられない。その分、観客は、スクリーンを見ながら自分で思索することを求められる。それは不安だが、新鮮な体験になると思っています。

 僕は長年テレビのドキュメンタリーを主戦場にしてきたディレクター。テレビというメディアの宿命として、あらゆる人にわかってもらわないといけないというのがある。そこで、雨のように情報を与え、説明をし尽くすところがある。視聴者も情報を過剰なほどに与えられ、受け身であることに慣らされてしまい、分かったつもりになる。ハンセン病もしかり。『凱歌』は、そんな分かったつもりでいる人々に一撃を与えるドキュメンタリーになっていると思う。もちらん、一撃を与えるのは、監督ではなく、出演者のハンセン病の元患者たちの生き方と言葉です

(※第2回に続く)

「凱歌」より
「凱歌」より

「凱歌」

京都シネマにて2月11日(木)まで公開

名古屋シネマテークにて、2月13日(金)~19日(土) 12:15から上映

大阪シネ・ヌーヴォ3月27日(土)~公開

アップリンク吉祥寺(東京)にて4月2日(金)~4月8日(木)公開

筆者撮影をのぞいて写真はすべて(C)株式会社スーパーサウルス

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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