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ラグビー人生にカンパイー大野均&林敏之、ザ・ロック対談

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)
大野均さん(右)と林敏之さんの夢対談(ユーチューブから=筆者撮影)

 ロックの強さは人間力。大概、チームで一番頼りがいのある選手が務める。まさにチームを固めるロック(錠)である。ラグビー日本代表のロックで活躍した林敏之さんと大野均さんの『ザ・ロック対談』が実現した。

 日曜日、パソコン上のユーチューブチャンネルを通し、ふたりのほのぼのトークがつづいた。とてもハートフル。かつて強烈なタックルや突進から「壊し屋」と異名をとった往年の日本代表の名ロック、60歳の林さんが「キンちゃん(大野さん)はハードワーカーだったよね。ほんとタフだし、激しいプレーだった」と評して、「ロックってどういうポジションですか」と聞いた。

 大野さんがまっすぐ答える。

 「ロックはたぶん、究極の我慢強い人間だと思います。たとえ痛い思いをしても、周りに悟られないようにしないといけない存在なのかなって。一番からだの大きい人間がすぐに痛がっていたら、チームの士気にかかわるでしょう。どんな痛いプレーをしても、何事もなかったように次のプレーに向かっていくようなイメージです」

 なるほど、大野さんは、いつもからだを張り、黙々とプレーしてきた。ラグビー日本代表最多の98キャップ(代表戦出場数)。「灰になっても、まだ燃える」を信条とする42歳はこのほど、現役引退を表明した。全身を貫く活力。義理と人情、浪花節。その人柄もあって、多くのファンに愛された。

 林さんから「現役を離れる時の思いは?」と聞かれると、大野さんが打ち明ける。この1年ほど両ひざの痛みに悩まされてきた。

 「やっぱり、現役をやれるところまでやりたいなという思いでずっとやってきたんです。今でも続けたかったという思いもありますが、からだがもう、ムリだと言っていたんです。だから、このあたりが潮時だろうって」

 5月18日に引退を発表。直後のエピソードを付け加えた。前日本代表ヘッドコーチのエディー・ジョーンズ氏(現イングランドHC)から国際電話をもらった。

 「(引退発表が)マスコミに流れて1時間後ぐらいに着信があって。留守電を聞いたら、イギリスにいるエディーさんからで、“ほんとうにお疲れ様”と日本語でメッセージを残してくれていたんです。心配りがしっかりしていて、うれしかったですね」

 ジョーンズ氏は練習では厳しかったけれど、大野さんが年長選手と言うことで、私生活ではやさしく接してくれたそうだ。「キンちゃんはお酒を飲んでも大丈夫」と言われていた。

 「ただ、“飲んでもいいけれど、ひとりで飲みにいけ”と言われていました。他の選手を巻き込むと、チームにお酒を飲んでもいいという雰囲気が蔓延するから、ひとりでいってくれと言われました」

 大野さんは日大工学部に進み、ラグビーと出会った。林さんから「どうしてラグビーを?」と聞かれると、大野さんは大学入学の際、「野球部に入りたかったんですけど、見ず知らずの先輩に両脇を抱えられてひきずられるようにしてラグビー部の部室に連れていかれて」と苦笑しながら説明した。部員数はわずか17人だったそうだ。

 「しぶしぶ、いやいや、グラウンドに向かったら、そこには、この人たちの仲間に入りたいと思わせる“熱”がすごくあったんです。最初はラグビーをやりたいというよりも、ラグビー部の仲間に入りたいという思いで始めたのです。僕は、その人たちにラグビーのタフさだったり、責任感だったりを教えてもらいました」

 林さんがつぶやく。「その人たちの情熱が素晴らしかったんですね」と。

 縁である。運である。日大工学部4年の時、ひょんなことから国体の福島県選抜に選ばれ、その時、東芝のコーチだった薫田真広さんに紹介された。2001年、東芝入社。大野さんは正直だ。「最初は不安しかなかった」と振り返る。

 「でも、まあ、不安を払拭させるために、人よりたくさん練習したのを覚えています。当時、日本代表に選ばれている先輩たちがチーム練習が休みの日にもグラウンドに出てトレーニングしていて、シロウト同然の自分を誘ってくれたのです。すごくうれしくて、必死にくらいついていったのを覚えています」

 実は林さんが初めて東芝のグラウンドを訪れたのは、日本高校代表の遠征前の練習の時だった。もう40年以上も前のことだ。「その時、袋舘さんがグラウンドにいてね」と懐かしそうに漏らした。

 袋舘さんとはかつて、日本代表の名ロックで鳴らした袋舘龍太郎氏のことである。大野さんが反応する。「僕は最初、袋舘さんがいた職場に配属されたんです」と言った。

 「1年目、ラグビー部の先輩が、どこの馬の骨かわからない自分に、“おまえは袋舘さんのようなプレーをするな”と言われたのを覚えています。“おまえ、頑張れば、ジャパンになれるかもしれないな”って」

 何気ない一言が「頑張るモチベーション」に火をつけることがある。林さんも高校日本代表の豪州遠征の最終日、監督の山口良治さんからもらった言葉を思い出した。

 「“こっち(豪州)で外国人選手に通用していたのはオマエだけだぞ。10年後、20年後、おれのあとを継いでくれよ”って。それが、すごくうれしくてね。ラグビーをずっとやっていこう、ジャパンになろうと強く思ったのはその時だった」

 大野さんは2004年、日本代表入りした。ラグビーワールドカップ(W杯)は3度、出場した。W杯デビュー戦が、2007年W杯フランス大会のフィジー戦(●31-35)だった。暑いトゥールーズ。戦前の下馬評を覆す日本代表の健闘にスタンドでは「ジャポン・コール」が沸き上がった。大野さんは奮闘し、体重が試合で6キロも減った。

 「試合のあと、すぐにホテルに戻って点滴をしたのを覚えています。ワールドカップという舞台がそこまで自分の力を引き出してくれたのかなって」

 大野さんは試合翌日、トゥールーズの街を数人で観光した。

 「トロリーバスに乗ったら、降りる時、“おまえらジャポンはいい試合をしたからお金はいらない”と言われました。パブでは、地元の人から、ガンガンおごってもらって。ラグビーが根付いている国にジャパンが認めてもらえたのだなと実感できて、すごくうれしかったですね」

 そのW杯の最終戦はカナダに最後、劇的な同点トライ(ゴール)で引き分けた。4年後の2011年W杯ニュージーランド大会の日本代表の最終戦では、今度はカナダに同点に追いつかれて引き分けた。大野さんの述懐。

 「すごく悔しくて。同じ結果なのに、こんなに感情が違うんだなって実感したのを覚えています」

 話題が2015年のW杯イングランド大会に移る。2012年、そのスタートとなる日本代表の合宿初日のことだった。ジョーンズHCがメディアに囲まれたとき、「キンちゃんは2015年、日本代表ではプレーをしていないでしょう」というコメントを口にした。大野さんが思い出す。

 「その時、4年後の37歳でワールドカップに立っているイメージは明確にできていなかったので納得したのは覚えていますけど、でもね、いつか(日本代表から)外されるのだったら、代表でいる一日一日を大事にしようという気持ちで合宿に臨むようにしたのを覚えています」

 2015年W杯イングランド大会の日本代表もいいチームだった。林さんは試合後のロッカールームのあと片付けなど、礼節や規律がしっかりしていたと印象を口にした。いいチームだったよね、と。なぜ。

 大野さんは、チームのビジョンを持ち出した。「エディージャパン発足の時、廣瀬俊朗キャプテンが最初のミーティングで言ったんです。“僕ら、子どもたちが憧れる存在になろう”って。“それを目標に今から始めよう”って。そのためには、グラウンドの振る舞いもそうだし、勝たないといけない、ハードワークするしかない。そういう覚悟を持ってスタートし、4年間、継続したんだと思います」

 世界一の猛練習が実り、2015年W杯イングランド大会の初戦(ブライトン)で、日本代表は優勝候補の南アフリカを破る大番狂わせを演じた。大野さんはロックとして獅子奮迅の働きをした。林さんから「チームが強くなった原因は何だと思う?」と聞かれた。

 「一番は、2019年に日本でワールドカップが開催されると決まっていたことでしょう。周りからは否定的な意見が多くて、それをひっくり返すのは、日本代表の成績だと思っていたんです。もうパフォーマンスしかないって。当時の日本代表全員がそう思っていました。そういった危機感ですね」

 ご承知のとおり、昨年の2019年W杯日本大会で日本代表は大健闘し、大会は大いに盛り上がった。対談はもう、1時間が過ぎた。林さんが「キンちゃんにとって、ラグビーの素晴らしさとは?」と聞いた。

 「自分は大学からラグビーを始めたんですけど、パスもキックも下手くそだったけど、自分の得意な何かしらをチームに貢献できるのがラグビーの素晴らしさだと思います。ラグビー特有の文化もあります。試合中、からだを、ばちばちと、ぶつけ合った両チームがノーサイドになれば、すぐに打ち解けるのです。いいですよね」

 ラグビーのダイバーシティ(多様性)、グローバリズムも魅力だ。

 「去年のワールドカップでも、日本代表には何人もの外国出身選手が入っていましたけど、試合前、一緒に君が代を歌って、サクラのジャージのプライドのためにからだを張るんです。自分もそんなラグビー文化がすごくいいなと思って、この年まで走り続けることができたのかなと思います」

 大野さんはラグビー文化を尊ぶ。NPO法人ヒーローズ会長の林さんの声掛けで、小学生によるミニラグビーの全国大会『ヒーローズカップ全国大会』にも何度か、ゲストとして参加したことがある。

 大野さんは「ラグビーの原点というか、ラグビーの素晴らしさを感じさせてくれる大会ですね」と言った。小学生ラガーの純粋さに感動し、大会後の打ち上げでは林さんらスタッフと一緒になって涙を流したこともある。「つい、もらい泣きしました」と照れる。

 ステキな思い出ですね、と林さん。こう、言葉を足した。

 「ラグビーのお陰で、まだまだ青春だもんね、気持ちは。子どもたちとは一緒に涙を流させてもらえるしさ、ワールドカップは感動したし…。感動できるのがいいよね。ワクワク、ドキドキって」

 これからの夢は? 今後は? と聞かれると、大野さんはこう、応えた。

 「引退を発表した直後から、エディーさんを始め、多くの方から、ねぎらいの言葉をもらいました。改めて、多くの方々に応援してもらって、背中を押してもらってラグビーをここまでやってこられたんだなという感謝の気持ちでいっぱいです。これからは、ラグビーに恩返しがしたい。貢献していきたい。実家が農家なので、米作りにも興味がありますし、お酒が好きなので(酒造りも)。いろんなことに挑戦したい」

 ふたりの人柄があふれる対談が終わる。大野さんの柔和な笑顔、林さんのおおきな手が画面に映る。

 「キンちゃん、ありがとうございました。一緒にお酒を飲めるのを楽しみにしています」

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2020年東京大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。人物モノ、五輪モノを得意とする。酒と平和をこよなく愛する。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『荒ぶるタックルマンの青春ノート』(論創社)ほか、『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

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