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”ママさんラガー”が我慢してきたものとは。

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)
リオ五輪予選に臨むサクラセブンズ。前列左端が兼松。(撮影:松瀬学)

スポーツのトップ選手は何かしらを犠牲にして生きている。リオデジャネイロ五輪キップを懸けた大一番を迎える7人制ラグビー(セブンズ)の女子日本代表『サクラセブンズ』のメンバーもそうである。27日の記者会見。「これまで我慢してきたものとは?」と聞かれると、最年長の33歳、兼松由香(名古屋レディース)は「ひとつだけ我慢してきたものといえば」と言って、滋味あふれる声でこう続けた。

「涙です。たぶんサクラセブンズのみんなの前で、うれし涙も、悔し涙も一度も見せたことはありません。代わりに、ここにいないメンバーの悔し涙も、たくさんのメンバーのうれし涙も、いっぱい見てきました。それが、自分がまだ(グラウンドに)立っていられるエネルギーになっているなと思います。オリンピックを決めた後は、みんなの前で思い切ってうれし涙を流したいと思います」

5歳からラグビーをはじめた兼松は、すごい泣き虫だった。毎回、練習が終わると、からだ中が痛いのでワンワン泣いていた。母から「そんなに泣くなら、もうラグビーはやめなさい」と叱られた。それ以降、人前で泣くのは止めようと決心した。「泣く時は、ひとりでこっそり泣くようにしています」

兼松は苛烈なラグビー人生を歩んできた。160センチ、62キロ。小柄なからだを張るから、けがが絶えない。もう、からだはボロボロである。人気のちっともない時代から15人制代表、セブンズ代表として活躍し、ワールドカップ(W杯)セブンズ2009アジア地区予選では強豪カザフスタンを倒す原動力ともなった。だが、出場権を確保したW杯の1週間前の練習で、右ひざの前十字じん帯断裂の大けがを負ってしまった。

引退を考えながらも、2013年W杯セブンズを目指したが、再び右ひざの半月板を負傷した。昨年6月の日本代表候補の豪州遠征でも左ひざのじん帯を負傷し、プレーはできなかった。それでも、けがを治しては、兼松はシャニムニ走り続けた。

小学校2年生の愛娘ら家族と交わした「オリンピックにいくから」という約束があるからである。先の娘の学芸会だけは駆けつけたが、それ以外はチームと一緒なので離れ離れとなっている。娘も気丈なもので、兼松の前では滅多に泣くことはない。でも娘を預かっている祖母から、娘が泣いた話しを聞いた。

「(愛娘が)友達の家に遊びにいって、そこのおかあさんに優しくしてもらったそうなんです。急に私に会いたくなる気持ちが出て、家に帰ったら、おばあちゃんの前で泣きだして…。その時、(娘が)“かあちゃんが金メダルを獲るまで我慢する”と言ったそうで…。初めて聞きました。“我慢する”って」

8歳の娘が涙を我慢しているのだから、兼松だって泣くわけにはいかない。33歳は優しい母の顔になっている。

「ずっと、秩父宮で金メダルを獲るまでは会わないと約束しています。“秩父宮で金メダルをとったら一番に会いにいくから、金メダルを胸にかけにいくから”って。“待っていてよ”、と言っています」

それぞれが、いろんな思いを胸に臨む女子セブンズのリオ五輪アジア予選日本大会は28日、29日、東京・秩父宮ラグビー場で開かれる。先の同香港大会で優勝した日本が少しリードしているが、勝負の世界、どうなるかわからない。たった一枚の五輪キップは、香港大会、日本大会の総合成績でトップのチームが得ることになる。

気丈で献身的な兼松は言った。「ひとつ、ひとつ、一瞬一瞬のプレーに、今までのラグビー人生のすべてを込めたい。(五輪)金メダルが目標なんですけど、私がそこ(リオ)にいくというより、サクラセブンズがそこに行ってくれれば十分だと思っています。ここ(五輪予選)を突破することが自分の役目だと思っています」

優しい母は、グラウンドでは凄味のあるファイターに変わる。ひとつのタックル、ひとつのパス、ひとつのキックに魂を込める。愛娘や家族やいろんな人の思いも背負って。

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2020年東京大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。人物モノ、五輪モノを得意とする。酒と平和をこよなく愛する。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『荒ぶるタックルマンの青春ノート』(論創社)ほか、『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

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