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ヤマハ矢富の大泣きのワケ

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)

ラグビーのヤマハ発動機がとうとう日本一に輝いた。真っ青な冬空の下、水色の大漁旗が舞う。歓喜に沸くヤマハフィフティーンにあって、SHの矢富勇毅は周りをはばからず、泣きじゃくっていた。まぶしい光景だった。

試合後の通路。「なぜ、あんなに泣いたのですか?」とストレートに問えば、30歳の不屈のオトコは「わかんないですね。自分でも、“オレだけむちゃ泣いているやん”って思っていました」と照れた。正直だ。

「いろんなことがぶわっときたっすね。ほんまに、いままでの苦労とか。けがとかたくさんしてきたので…。(社のチーム強化が)縮小された時も苦しかったです。それで涙がでたのかな。報われたのというか、僕たちが選んだ道が間違いじゃなかったと思うと、もう…。(涙が)止まらなくなりました」

本社の業績不振によるチーム強化の縮小、トップリーグ降格の危機に瀕したのは、2010年度だった。大量の選手がチームを離れた。矢富もまた、悩みに悩んだ。でも、他チームからの誘いを断り、ヤマハに残ることを決断した。

「そんな中、一緒に残った仲間もいたけど、現役を続けない人もいました。その時に辞めながらも、今でも試合前に(激励の)メールをくれたりする人もいるんです」

2011年度、かつて早大時代に監督をしていた清宮克幸監督が就任し、チームは上昇気流に乗った。でも、矢富は悪夢に襲われる。その年、右ひざの前十字じん帯を断裂した。壮絶なリハビリの末、復帰したものの、12年、今度は左足の前十字じんたいを断裂してしまった。

「けがをした時も泣きました。また試合という舞台に立てるかどうか不安なときもあったんです」

選手生命の危機にさらされたが、それでもラグビーをあきらめなかった。「不撓(ふとう)不屈」の精神で、再び、グラウンドに戻ってきた。今季は乗っていた。シーズンの頭からずっとリザーブで準備をし、いつも9番の先発でプレーすることをイメージして、80分間プレーするためのトレーニング、コンディショニングをやってきた。シーズン途中から、先発出場となった。

終盤にきての、身体能力を生かした機動力はけがによるブランクを少しも感じさせないものだった。この日の決勝戦も、俊敏な動きとパスさばきで相手をかき回した。ロングゲインでチームの窮地を救った。動きに「ラグビーができる幸福感」を感じさせる。

チームの強みを問えば、負けん気の固まりはこう、言った。

「たくさんあると思いますけど、ひとつはハードワークですかね。朝6時から2時間ほど、毎日練習しても、だれも文句を言わない。早いやつは朝5時40分からやるんです。最初は顔面蒼白になるくらい、しんどくて。ウエイトも足りないと思ったら、一生懸命にやって。レスリング練習もやって。だから、フィジカルで負けなかったんです」

ヤマハスタイルとは?

「セットプレー、そこしかないですね。ボールを大きく展開するとかありますけど、ヤマハはまず、そこにかけています。勝っても、セットで負けていたら勝ちじゃない」

秋のワールドカップ(W杯)の日本代表候補にも選ばれている。ヤマハに入社した2007年、日本代表としてW杯フランス大会にも出場した。再びW杯へ。

「(日本選手権で)優勝したスクラムハーフだと証明するためにも、しっかりジャパンのメンバーに残りたい。(ジャパンで)成長できるようにがんばりたい」

もう涙は乾いた。次なるステージへ、不屈の矢富が疾走する。

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2020年東京大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。人物モノ、五輪モノを得意とする。酒と平和をこよなく愛する。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『荒ぶるタックルマンの青春ノート』(論創社)ほか、『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

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