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自転車の長塚引退「完全にやり切った」

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)

本音か、強がりか。28日の引退会見で、五輪自転車メダリストで競輪のトップスターの長塚智広=茨城=はこう、言った。「悲しんで辞めるとか、現役を続けたいという気持ちはもう、正直、ありません。完全にやり切ったという気持ちです。ほんとうに楽しみと前向きな気持ちでいっぱいです」と。

36歳。少々の波風を恐れず、己の信じる人生を歩む。五輪には3度出場し、2004年アテネ五輪のチームスプリントで銀メダルを獲得した。本業の競輪でも2011年12月のG1・小倉競輪祭で優勝するなど華々しい戦績を残した。才能も知性も、ある。

「引退理由ですけど、36歳となって、自転車競技者として、体力的にはこれ以上、上を目指せない、オリンピックでもメダルをとることができない、と考えて、第一線から引く決断をしました」

コトバは清々しくも、表情はどこか切ない。日本競輪選手会からの脱会騒動で昨年5月から1年間の出場自粛勧告処分中の引退である。運、あるいは人に恵まれなかったのだろう。騒動の責任を1人で背負うかのような形をとり、しずかに競輪界から身を引いた。

競輪ファンは、もう一度、長塚がバンクを駆ける姿を見たかったに違いない。

「いろいろなお声をいただく中で、もう一度、走ってほしい、ラストランをみたいとも言われましたけど…。そうするためには、競輪界の中で、とくに選手会において、(内部規則を)クリアしないといけません。お寺(修善寺の日本競輪学校)で訓練するというのもありますので。それは競技力の面からも適切ではないという判断をいたしました」

スポーツのチカラを実感した、と長塚は強調した。アテネ五輪で銀メダルをとった時、ファンから1通の手紙をもらった。「自分があきらめていた夢をもう一回、目指そうと思います。長塚さんたちの走りを見て決めました」と書かれていたそうだ。勇気を与えたのである。その後、「あきらめていた夢をかなえることができました」との手紙も届いた。

「私が25か、26の時です。スポーツのチカラが人の心に対して感動を与えるということを、プレーヤーとして初めて感じた瞬間でした」

さらに2011年の東日本大震災の際、被災地を何度か訪れ、スポーツのチカラに触れることになった。

「被災地では、仲間のメダリストたちが、継続的に子どもたちと接することにより、スポーツを通して、子どもたちがメンタルを回復し、困難にも前向きに挑戦しようとする気持ちにできることがわかりました。スポーツのチカラが子どもたちのためになる、将来の日本のためになると。これは、スポーツのチカラが確信に変わった瞬間でした」

早稲田大学大学院にも通い、研さんを積んだ。論文のテーマが『トップアスリートによる被災地における継続的スポーツ教室の効果』だったという。

向上心の塊なのだろう。最近の不遇な処分期間も「心配していただく声はありましたけど、自分としては今後のことを勉強する、プラスの時間として、1年間をとらえていました」とポジティブにとらえた。

「今後は、2020年東京オリンピック・パラリンピックに向け、オリンピックメダリストとして、日本の社会に今まで以上に、ご恩と経験を還元できるよう活動していきたい。トップアスリートの分野でおこなわれている治療技術、スポーツ医療、それからトレーニング技術などを日本の一般のみさまに広めていきたい。それと、自転車界のさらなる普及、発展につながるようなことをしていきたいと思っております」

世間の風は優しくも、厳しくもある。引退も、熟考しての決断だったのだろう。努力と勇気。会見が終わると、長塚は自然な口調でこう漏らした。

「こんなに(記者に)きていただけるとは思いませんでした。ありがたく思っております。辞めがいがあるっていうものです」

つよいオトコだ。数十人の記者から、笑いと拍手が沸き起こった。

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2020年東京大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。人物モノ、五輪モノを得意とする。酒と平和をこよなく愛する。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『荒ぶるタックルマンの青春ノート』(論創社)ほか、『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

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