Yahoo!ニュース

さよなら国立 スタジアムは追憶なり

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)

スタジアムは追憶である。東京都新宿区の国立競技場が56年の歴史に幕を閉じ、7月から解体工事に入る。百人には百通りの記憶がある。感激があり、感傷もあろう。

「一番の思い出は早明戦の観客の圧倒感です」と、日本ラグビー協会競技運営部副部長の太田治さんは漏らす。22日の「5・25SAYONARA国立」の記者会見。明大ラグビー部OBの元日本代表プロップは感慨深そうに続けた。

「大学1年の時は下働きで、メンバーの雑務を担当しました。その時、下からスタンドを見上げると、6万強の満員の観客が、何と言いますか、圧倒感というんですか…。ああ、早くここでプレーしたいナ、と思ったのを覚えています」

太田さんは明大3年の1985(昭和60)年、早明戦に出場し、初めて国立競技場でプレーした。

「歓声がぼんと沸き上がり、スタンド全体が揺れるんです。あれはもう、心が震えるというか、ますます気合いが入ったものです。選手間の声は聞こえない。レフリーにせかされても、円陣をつくって、確認していました」

早大OBの筆者が体験した早明戦は、大学3年時の1981(昭和56)年と4年時の82(同57)年のそれだった。当時は徹夜組のファンも大勢おり、2試合とも観客は6万5千人を超えた。たしかに満員スタンドの圧倒感は迫力があった。まるで大歓声が雪崩の如く、青い空から押し寄せてきた。

その思い出の国立競技場の最後の公式戦が25日のラグビーアジア五カ国対抗の日本×香港である。日本は勝てば、8大会連続のW杯出場が決まる。幾つもの「さよならイベント」もある。太田さんは「満員の観客の中でW杯出場を決めてほしい。ファンの方々としっかり記憶を胸に刻んで、2019年を迎えたいと思います」と言う。新国立競技場では、19年W杯日本大会、20年東京五輪パラリンピックが開かれることになる。

22日はスタジアムツアーにも参加した。見どころ満載である。競技場の正面には、『健康美』『青年の像』の2つのブロンズ像が置かれている。上部には、御影石に刻まれた『1964年東京オリンピックの優勝者銘盤』がある。五輪憲章の「五輪の優勝者の銘盤をメインスタジアムの中に常設すること」との定めに則って造られたもので、重量挙げの「MIYAKE・Y 三宅義信 JAPAN 日本」、「東洋の魔女」と称された女子バレーボールの「JAPAN 日本 KASAI・M 河西昌枝」の文字も刻まれていた。

この優勝者銘盤は目下、解体を前に保存して、別の場所に移設する見通しである。20年東京五輪パラリンピックの際には、新国立競技場の銘盤に新しい金メダリストの名前が彫り込まれることになる。

フィールドを見守るようにロイヤルボックスの両側に飾られているのは、相撲の元祖といわれる「野見宿禰(のみのすくね)」と、ギリシャ神話の「勝利の女神」。バックスタンドの最上段には、円錐を逆さにした格好の聖火台が置かれている。

競技場外の千駄ヶ谷門の方にいけば、『出陣学徒の碑』がある。1943(昭和18)年の勅令により、約10万人の学徒も戦場に赴くことになり、この年の10月21日、国立競技場の前身の元・明治神宮外苑競技場において、「出陣学徒壮行会」が挙行された。

この碑は、出陣50周年を記念して1993(平成5)年に建てられたものだ。そばには2本の桜、「同期の桜」「八重桜」が植えられている。スタジアムツアーの最中、雨が降ってきた。高齢の男性がひとり、傘もささず、この「出陣学徒の碑」の前で目を閉じて、ずっとたたずんでいた。

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2020年東京大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。人物モノ、五輪モノを得意とする。酒と平和をこよなく愛する。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『荒ぶるタックルマンの青春ノート』(論創社)ほか、『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

松瀬学の最近の記事