45年前にTwitterがあったら議論あり?「優勝に王手」という表現が使われ始めて受け入れられるまで
王手は古い言葉
将棋で一番大事な駒は王将(玉将)です。
略すると、王(おう)、あるいは玉(ぎょく)。本稿では以下、一般的な玉で統一します。
攻める側が、次に相手の玉を取れる位置に自分の駒を置く(指す)ことを「王手」(おうて)と言います。
図の先手の桂打ちが王手です。
後手は玉を取られては負けですので、どこかに逃げる必要があります。
王手は古くからある言葉です。江戸時代の昔には、川柳や俳句にも詠まれました。それはもちろん、将棋用語としてそのまま使われることもありました。一方で、多くの人に広くなじみのある一般的な言葉として、何かのたとえとして使われることもありました。
1891年(明治24年)に刊行された、日本で初めての近代的な国語辞典『言海』には、「王手」は次のように説明されています。
「襲いかかる」という表現には、かなりの迫力が感じられます。なんだか駒音も高く聞こえてきそうです。
「王手」という言葉が一般的に使われる際にも、人を厳しく、激しく責め立てるようなニュアンスがあったようです。
みんな大好き王手飛車
将棋で最も人気の高い駒は、縦横自由にどこまでも進める飛車(ひしゃ)です。
では、次に玉を取る手が「王手」なら、次に飛車を取る手は「飛車手」でしょうか。
今は言いませんが、実は昔はそうでした。
そして「王手」と「飛車手」を同時に実現する夢のような(やられる側としては悪夢のような)手が「王手飛車手」、または「飛車手王手」です。
図では先手の桂馬の利きに玉と飛車がいます。
玉を取られては負けなので、後手は玉をどこかに逃がすしかありませんが、先手は飛車を取ることができます。
「王手飛車手」は、現代では「王手飛車」(おうてびしゃ)、あるいは「王手飛車取り」と言うのが一般的です。この王手飛車という言葉も、一般社会でよく使われてきました。
現代の代表的な辞書である『広辞苑』の古い版には、以下のように記されています。
「王手」の「攻め立てる」という表現は、『言海』以来のイメージかもしれません。
(2)の「相手の死命を制するような手段」という意味は、なるほど、過去の文献を見る限りでは、そうした使われ方をすることが多いように感じられます。
1947年の第1回国会以降の議事録を検索すると、「王手」は66件ヒットします。そのうち41件が「王手飛車」です。
政治家の発言だけあって、なかなか意味が取りづらいものもありますが、国会という場所だけに、わりとシリアスな比喩で使われることが多いようです。
一方を否定すれば他方を認めざるをえず、いずれにしても責任を免れない。重要な案件が複数あって、一方を重視すれば、他方はうまくいかなくなる矛盾の関係にある。だいたいは、そんなニュアンスです。
愛棋家でも知られる田中角栄元首相(1918-1993)は「王手飛車」という言葉を6度の場面で使っています。
「あなたの言うとおり、これは全く王手飛車の議論になると思うのですが」
首相在任時(1972-74)にはそうした言い回しもしています。
「優勝に王手!」という表現はいつから使われ始めたか
ところで現代では「王手」という言葉は、スポーツなどの分野において、あともう一歩、あともう一勝で大きな目標を達成するという意味でも使われています。
では野球の記事などで「優勝に王手」というたぐいの表現が使われ始めたのは、いつぐらいからでしょうか。
筆者が新聞のデータベースで検索した限りでは、1970年代前半のようです。
以上は、王手がこうした意味で使われ始めた最初期の段階の記事です。当初は括弧(かっこ)やクォーテーションマークつきでしたが、一般化するにつれ、それらもなくなっていきます。
『広辞苑』の最新版を見てみましょう。
「攻め立てる」は「攻める」という、わりとフラットな表現に変わっています。
そして(2)の意味は、かつての「相手の死命を制するような手段」というものから、最新版では大きく書き換えられました。こちらの方が、現在の主たる用法に即したものといえるでしょう。
将棋界への逆輸入
Twitter上では、将棋に関連する言葉の用法をただす方たちがいます。そうした方たちは「将棋警察」とも呼ばれます。誰かに命じられたわけではなく、自主的にそうした指摘をおこなっているわけですから、「将棋自警団」と呼ぶのが適当かもしれません。
将棋自警団の最重要パトロール案件は「将棋を打つ」でしょう。著名人がその表現をした場合には、いっせいに「将棋は指す!」という指摘の声が上がります。
他には「逆王手」。野球の日本シリーズ(七番勝負、4勝先取で優勝)などで2勝3敗の側が第6戦で勝ち、3勝3敗と追いついた時に使われる表現です。これに異議を唱える人は多く見かけます。この件に関しては、改めてまとめたいと思います。
では先に3勝した側を「優勝に王手」と表現するのはどうでしょうか?
現代では、将棋関係者も含めてその表現に違和感を覚える人は、ほとんどいないと思われます。
ところがかつての将棋関係者は、「王手」の定義を厳密に考えたためか、違和感があったようです。もしも45年前にTwitterがあったら、あるいは議論を呼んでいたかもしれません。
将棋の対局で最初に「王手」をしたぐらいでは、まだ勝利間近の段階とも言い切れません。
また将棋の最終的な目的は、玉を「取る」のではなく「詰ませる」ことにあります。となれば、「詰み」の一歩手前の段階は「詰めろ」が正しく、もし何か代案を出すとしたら、それが適切なのかもしれません。しかし「詰み」はともかく、「詰めろ」はかなり専門的な将棋用語です。「詰めろ」が一般的に使われることは難しいでしょう。
というわけで「優勝に王手」という表現が普及したのは、わりと自然な流れかもしれません。
観戦記者の大御所である東公平さん(現在86歳)は以下のように記しています。
世間で「優勝に王手」式の表現が一般化してから、1980年代の将棋界でも「逆輸入」の形で、そうした表現が見られるようになりました。
「中原、三年ぶりの奪回へ王手」
(『将棋世界』1982年4月、王将戦記事)
「加藤十段、名人位に王手!」
(『将棋世界』1982年8月、名人戦記事)
こんな感じです。
「中原十段がうれしい王手」
(『将棋世界』1971年1月)というグラビア記事があり、これが初出?かと一瞬思ったのですが、よく見たらそれは、勝負に関する話ではなくて、婚約発表のことでした。
【関連記事】
将棋の対局では「王手」と言わなくてもいい、というかむしろ言わない方がいい
https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotohirofumi/20190808-00137575/