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「タバコ依存」とノーベル経済学賞

石田雅彦科学ジャーナリスト、編集者
ノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラー(写真:ロイター/アフロ)

 今年のノーベル経済学賞は、リチャード・セイラー(Richard H. Thaler)に決まった。またも米国シカゴ大学か、という感じもするが、セイラーはいわゆるシカゴ学派の研究者ではない。受賞理由は行動経済学の分野に「非合理的経済人格」とでも言うべき概念を入れ込んだ業績などによるものだ。

 経済学という社会科学を成立させるためには、長く現実世界にはない「仮定」を設定しなければならなかった。例えば、株式や資産運用などを含む経済情報は非対称的であってはならず、情報は誰にも公平平等に扱われるとか、消費行動などは将来の利益などを合理的に考えながら行われる、といった仮定を前提にしてきた。

行動経済学と合理的経済人間

 行動経済学の分野でも、1992年にノーベル経済学賞を受賞した同じシカゴ大学のゲーリー・ベッカー(Gary S. Becker)のように、犯罪にせよ浮気にせよ自殺にせよ、利益と損益を合理的に考えた結果、人間はそうした行動を取る、という学説(※1)が以前は主流だった。ちなみに、ベッカーは浮気の研究をしていたとき、自身の妻が自殺し、そこから自殺の研究を始めた、と言われている(※2)。

 ベッカーは、喫煙などの嗜癖行動(中毒症状)を経済学的に理論づけた(Rational Addiction、合理的嗜癖理論)が、例えば喫煙であればタバコを吸う際の満足感などの利益と健康への害など将来的な不利益をすべて合理的に考えた上で喫煙行動をする、と唱えた。しかし、この理論はやがて批判にさらされることになる。

 これらの批判は、タバコを吸う人は健康への不利益を少なく見積もっているのではないかとか、タバコを吸う人の全ての健康に害があるわけではないから自分だけは大丈夫だと楽観視しているのではないか、というものだ。また、目先の利益のほうを将来の不利益よりも高く見積もる「時間選好率(Rate of Time Preference)」などの考え方からの批判もある。ベッカーらの合理的嗜癖理論に対し、こうした一方の考え方を限定合理的な嗜癖理論(Bounded rational addiction)という(※3)。

 例えば、不動産取引をみても業者間と一般の買い手との間にある商品情報は非対称的なものだし、消費行動や投資、景気の動向をみても人間はしばしば非合理的な行動を取る。必ずしも情報は対称性を持たず、人間は合理的な行動を取らない。また、認知科学や心理学と経済学を統合した理論で2002年のノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman)に「ヒューリスティック(Heuristic)」という概念があるが、我々は個人的な経験則に認知や思考が引っ張られてしまいがちになる、と言う(※4)。

タバコ依存とリバタリアン・パターナリズム

 ただ、タバコ依存という嗜癖行動について言えば、ニコチン中毒のために喫煙を止めたくても止められない喫煙者も多く、全ての喫煙者が望んで喫煙行動をしているわけではない。また、喫煙行動に対して何も規制しなければ、明らかに非喫煙者の健康に害を及ぼす「受動喫煙」という負の側面もある。

 喫煙は政府も認めた合法的な行動だが、ニコチン中毒により禁煙したくてもできない患者や受動喫煙の防止のために、政治や行政が一定の介入をすべきだろう。政策的福祉的なパターナリズム(Paternalism、家父長的温情主義)が、喫煙行動に介入できるかどうかについては議論が分かれる。だが、税収という公益性と医療費などのコスト(約2兆円強vs約3兆円〜4兆円程度か)からも、かなり強い正当性があるはずだ。

 個人の選択の自由に干渉するパターナリズムについて、今年のノーベル経済学賞受賞者であるリチャード・セイラーは「リバタリアン・パターナリズム(あるいは柔らかなパターナリズム)」という概念から、公共の福祉のためには恣意的ではない論理的な施策を秩序立てて適切に行使すべき、と述べている(※5)。タバコ依存の場合、タバコ価格の値上げやtaspoのようにタバコ入手に障害を設ける、また禁煙外来、クィットライン(禁煙電話相談)などが、セイラーによるリバタリアン・パターナリズムからのアプローチになるだろう。

 フリードマンの弟子ベッカーのものとは違う、非合理的な行動を取る人間の行動経済学や「柔らかなパターナリズム」を提唱したセイラーだが、シカゴ大学でフリードマンらに「楯突く」経済学者は陰湿なイジメにあった、という話もある。

 どこに「合理的経済人間」などいるものか。血の通った生身の人間とその集団こそが経済を動かしている。ニコチン中毒という「病気」は別として、タバコ問題も強権的な規制ではなく、セイラーの「ナッジ(Nudge、選択の余地を残したさりげない誘導)」でいけば案外うまくいくのではないだろうか。

※1:Gary S. Becker; Kevin M. Murphy, "A Theory of Rational Addiction." The Journal of Political Economy, Vol.96, No.4, 675-700, 1988

※2:宇沢弘文による。宇沢は「B教授」として名指しはしなかったが、当時の人間関係や研究テーマなどから、このB教授がベッカーというのはほぼ間違いない。妻の自殺から自殺の合理的行動の研究をする、というフリードマン学派界隈の特徴がよくわかる逸話だ。

※3:J. Gruber, B. Koszegi, "Is Addiction Rational: Theory and Evidence." Quarterly Journal of Economics, Vol.116, 1261-1303, 2001

※4:Kahneman, D., Slovic, P., Tversky, A., "Judgment Under Uncertainty: Heuristics and Biases." Cambridge University Press, New York. 1982

※5:Richard H. Thaler, Cass R. Suntein, "Livertarian Paternalism." The American Economic Review, Vol.93, No.2, 2003

科学ジャーナリスト、編集者

いしだまさひこ:北海道出身。法政大学経済学部卒業、横浜市立大学大学院医学研究科修士課程修了、医科学修士。近代映画社から独立後、醍醐味エンタープライズ(出版企画制作)設立。紙媒体の商業誌編集長などを経験。日本医学ジャーナリスト協会会員。水中遺物探索学会主宰。サイエンス系の単著に『恐竜大接近』(監修:小畠郁生)『遺伝子・ゲノム最前線』(監修:和田昭允)『ロボット・テクノロジーよ、日本を救え』など、人文系単著に『季節の実用語』『沈船「お宝」伝説』『おんな城主 井伊直虎』など、出版プロデュースに『料理の鉄人』『お化け屋敷で科学する!』『新型タバコの本当のリスク』(著者:田淵貴大)などがある。

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