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アニメ『葬送のフリーレン』が描く「永遠性と日常」という凄み 軽さによってあの国民的アニメに近づくのか

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:アフロ)

大きく期待される『葬送のフリーレン』

アニメ『葬送のフリーレン』の初回放送が2時間で始まった。

どうやら、かなり大きく期待のかかったアニメ作品のようだ。

少し前に、これ、話題になりそうですと若者に勧められて単行本の『葬送のフリーレン』を読んだ。

最初に3巻だけ買って読んだら、おもしろくて、止まらなくて、すぐに残りを買って最新の11巻まで読み終えた。

たしかにおもしろい。

冒険アクションではない

でも、少し予想と違っていた。

「初回が金曜ロードショーで放送され、そのまま11時枠での連続アニメが放送されて、大人たちがとても期待を抱いている作品」だと聞いていたので、勝手に正統的な冒険アクションを想像していたのだ。

ぜんぜん違う。

意外な視点から始まる軽い漫画

なんというか、いろいろと軽いのだ。

もともとギャグ漫画的発想というか、パロディ発想で始まったように見える。

「みなさんご存知のあのファンタジー世界」を前提に、でもそこから期待される物語をうまくすり抜けようとしている。

「あのファンタジー世界」というのは、J・R・R・トールキンの『ホビットの冒険』『指輪物語』を端緒とし、ドラゴンクエストシリーズで広く知られるようになったような「中世ヨーロッパのパラレルワールド」のような世界である。

魔法使いがいて、魔王がいて、竜が空を飛んでいて、勇者がいて、妖精がいる。そういう世界だ。

その世界存在を前提にしているが、ストレートな冒険物語にはなっていない。

つまり、大きな敵に向かって正面から戦いを挑まない。

少年ジャンプ漫画と少年サンデー漫画の違い

『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』『ワンピース』などとは違う。

少年ジャンプと少年サンデーの違いだといえるのかもしれない。(『葬送のフリーレン』は少年サンデーの連載)

物語は「魔王を打ち倒し、世界を平和にした勇者たち一行が王都に戻ってくるところ」から始まるのだ。

以下、内容を少しネタバレするが、内容というよりかは、ほぼ「初期設定の説明」でしかない。お話はここから始まっている。

旅の仲間との別れから始まる

無事に帰還した勇者一行四人は、この十年の冒険の旅は楽しかったとお互いをねぎらい、やがて解散する。

旅に行って、同行者と別れるときは、それが日帰りや一泊旅行であっても、何だか寂しいものである。

彼らは十年の命懸けの旅であった。でもあっさり解散する。

読んでいても何だかちょっぴり寂しい。

この話はその「何だか寂しい気分」から始まる。そこが珍しい。

喪失の物語である『葬送のフリーレン』

『葬送のフリーレン』の基本トーンにあるのは「喪失の感覚」だ。

あくまで基底でしかないが、喪失とその哀しみがおおもとにある。

でも物語はギャグの連続のように展開していく。この差異がなかなかいい。

勇者一行の「魔王を倒す旅」は、みなの「青春」の時間であった。

青春は一度きりで、彼らの人生のピークでもあった。

それが終わり、それぞれの居場所に帰り、そこで穏やかに生きて、老いていく。

それが人生である。

取りようによってはなかなかに深い設定である。

浅くとらえるのなら、ただ面白い。

人間とエルフの時間感覚の違い

一行四人のうち、二人が人間で、残りは違う。

一人は魔法使いのフリーレンで彼女はエルフ、もう一人は戦士アイゼンで彼はドワーフである。

エルフとドワーフって何だということは別にどうでもよくて(妖精みたいなもので、詳しく知りたくば『指輪物語』などを読まれるとよろしい)、大事なのはエルフもドワーフも人に比べて遥かに「長生き」だというところにある。

ドワーフは数百年の寿命がある。

エルフは、もっともっと長く、千年を越えて生きるらしい。

主人公のフリーレンはエルフだからすでに千年を越えて生きており、でも見た目はずっと変わっていない。

「老いぼれてる…」「言い方、ひどくない?」

エルフは、人間と時間感覚がまったく違う。

フリーレンは魔王を倒したあと、仲間と別れ、自分の感覚で時間を過ごし、「あ、そうだ、あれ、あいつに預けたままだったな」と預け物を返してもらうためにかつての勇者のもとを訪れると、すでに五十年経っているから、かつての勇者はもはや老人となっている。

驚いたフリーレンは「老いぼれてる…」と言い放つ。

勇者は「言い方、ひどくない?」とかつての仲間らしく返してくる。

他者の事情をまじめに想像せずに自分の軸だけで行動していると、ときにとりかえしのつかないことが起こる。自分の感覚で生きていると、ときに仲間を失う。

それを軽い笑いのなかで見せてくれる。そういう喪失の物語でもある。

振り返りの物語でもある『葬送のフリーレン』

かつての冒険の仲間たちを失うと、エルフでも喪失感があるようで、フリーレンはおりにふれて彼らをおもいだす。

『葬送のフリーレン』は振り返りの物語でもある。

新たな旅を始めながらも、かつてのことを何度も何度も振り返っている。

振り返るが、でも、いまを生きている。

『サザエさん』を見ているのと変わらない

『葬送のフリーレン』では冒険者たちの日常がていねいに描かれている。

戦いのシーンもあるのだが、でも主たる部分は日常シーンだと私はおもっている。

読んでいて何が楽しいかといえば、仲間の会話である。

いまのところ主人公のフリーレンと、その女弟子のフェルン、勇者ぽいところのある若者のシュタルクの三人での旅が基本にある。

この三人のやりとりが、常に楽しい。

軽口をたたきながら、言葉を必死で裏読みしたり、すねたり、甘えたり、そういうやりとりが楽しいのである。

軽い永遠性を帯びているエルフと、人間が一緒に過ごす日常を描いて、そこが楽しいのがすごい。

それは『ちびまる子ちゃん』や『サザエさん』を見ているのと変わらない。

魔法使いも日常生活を続けるばかり

フリーレン、フェルン、シュタルクの戦闘能力は高いのだが、キャラはかなり穏やかである。孤高の戦士感があまりない。

そのあたり、『葬送のフリーレン』は『鬼滅の刃』ではなく、『サザエさん』『ちびまる子ちゃん』的な世界に近いようにおもう。

勇者や魔法使いと言えども、日常生活を積み重ねていくしかなく、一緒にいる仲間にいろいろと気を使いながら毎日を過ごしている。

食事一つでも、フェルンが何を食べたがっているのか、勇者シュタルクはいつも悩みに悩んで選んでいる。

そういうところがたまらなく楽しい。

お楽しみに近いような旅を続けている

フリーレンとフェルンとシュタルクの北への旅は、もちろん何となくの目的はあるが、使命を帯びて命懸けで向かっているわけではない。

どっちかってえと、温泉ついでに恐山の霊場へ行って先祖の声を聞いてみるかねえみたいな感じで、いわば、お楽しみ旅に近い。目的が軽い。

そこがいい。

だから彼女たちの旅は別だん終わらなくてもいいのである。

仲間たちの旅がずっと続いて欲しいとおもわせる。

彼らの日常の継続を望んでしまう。

永遠性と日常を描いて、そこが楽しいのだ。

そこが『葬送のフリーレン』のおもしろさの芯にある。

終わりなき日常を楽しく生きる

フリーレンにとって、二度目の仲間との旅である。

喪失の感覚が基底にあり、だから振り返りの物語であり、でも、主人公たちはまじめに日常を生きている。

それは『サザエさん』が50年を超えて国民的なアニメとして「終わりなき日常」を描き続けているのと何となく通じてる感じがするのだ。

「何でもない日常を、がんばって、まじめに、でもふざけたりしながら生きる」という姿を見ていると、なんか、とても心動かされる。

期待しているアニメ作品である。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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