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ドラマ『天国と地獄〜サイコな2人〜』はなぜ「天国と地獄」なのか 「入れ替わり」を原点から探ってみる

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

『天国と地獄〜サイコな2人〜』は入れ替わりドラマである。

高橋一生が演じる「男の犯罪(容疑)者」と綾瀬はるかが演じる「女の刑事」が入れ替わる。

入れ替わった当人たちは(特に犯罪容疑者の身体になってしまった刑事は)もとに戻ろうとする。

でも、戻り方がわからない。

はたして二人はいつ、もとに戻れるのか。

そのことを常に念頭におきながら、でも「入れ替わったままのそれぞれの世界」が進展していく。

1982年の映画『転校生』のエンディング曲は「天国と地獄」

過去の有名な「入れ替わりの物語」は、どうやって入れ替わり、どうやって戻ったのか。

それを見てみよう。

(だから映画『転校生』(1982)、ドラマ『パパとムスメの7日間』(2007)、ドラマ『民王』(2015)はすべてネタバレしているので、気をつけて読んでください)。

当ドラマのスタッフも、おそらく過去の入れ替わり物語をきちんと研究して、それをもとにこのドラマを作っているとおもわれる。

「入れ替わりもの」としてもっとも有名なのが大林宣彦監督の1982年の映画『転校生』だろう。もはや「古典」と言っていい作品である。

40年ほど前の作品であるが、いまだに「入れ替わりもの」話ではこの作品へのオマージュを含んでいることが多い。

この1982年の映画『転校生』のエンディングの音楽が『天国と地獄』(作曲オッフェンバック)である。

さきほど見直して気づいた。

それが、今回のTBSドラマの、タイトルのもとになっているのではないだろうか。

おもったより『天国と地獄〜サイコな2人〜』は映画『転校生』へのオマージュが強いのかもしれない。

映画『転校生』の神社の石段での入れ替わり

1982年の『転校生』の入れ替わりは有名である。

映画を見た人はもちろん、見たことがない人も知っている入れ替わりだ。

尾道を舞台にした中学生の物語である。

入れ替わるのは、中学三年生の男女。

尾美としのりと小林聡美が演じた。

ともに1965年生まれ、撮影当時(1981年)は16歳である。

幼いころ尾道で暮らしていた女子(小林聡美)が中学三年になって、尾道の中学校に転校してきた。同じクラスにいた男子(尾美としのり)が幼稚園のころ仲が良かったのをおもいだし、覚えてないという彼を学校帰りに追っかけていく。神社に行ったときに、彼女は高い石段から落ちそうになり、それを助けようとした彼と一緒に抱き合うように落ちていく。

階段を落ちたら、二人は入れ替わっていた。

「神社の長い石段を二人抱き合うように落ちると、人格が入れ替わる」。

これが多くの日本人が共有する「入れ替わりの基本パターン」となった。

入れ替わりを受け入れる映画『転校生』の深い味わい

この映画が多くの日本人の心に残ったのは、中学三年生という微妙な年ごろの男女の心情が見事に描かれていたからだろう。

「男の子の身体に入ったままの女子」は嘆き悲しむ。しかも「男の子の父」の転勤が決まったので、入れ替わったまま遠くに引っ越さなければいけなくなった。

二人は家出する。でも、このまま入れ替わったまま暮らすしかないとも考え始める。

中学生だからか、理不尽な世界であろうとそこで何とか生きていこうと決意する。

この、入れ替わり受け入れ、この姿のまま一生過ごす中学生の決意が、見ている者に響いてくるのだ。

ここが、映画『転校生』の「芯」にあるとおもう。

家に戻ろうとした二人は、何となくまた神社に戻ってくる。

石段の上で女子が(身体は男子)また落ちかけて、それを助けようと「女子身体の男子」がとびついて、再び抱き合って石段を落ちていく。

起き上がったら、元に戻っていた。

どうすれば戻るか、ということを二人はためしていなかった。あきらめて受け入れていた二人はそういう努力はしない。

「戻ろうという努力をしない」ところが「入れ替わりもの」としての『転校生』の特徴である。

入れ替わった異常をそのまま受け入れ、そのまま生活して、たまたま、もとに戻ることができた。

これが『転校生』が見せた「入れ替わりもの」の原型である。

新垣結衣『パパとムスメの7日間』では「転校生」を真似て失敗する

さて、次に見る入れ替わり物語は2007年7月のドラマ『パパとムスメの7日間』。

これは父・舘ひろしと、高校生の娘・新垣結衣が入れ替わる話である。

『天国と地獄〜サイコな2人』と同じTBS日曜9時「日曜劇場」で放送されたドラマであった。殺人事件も警察も出てこない。ふつうのホームコメディである。

ドラマの最初のほうで舘ひろしの一家は、千葉の田舎のおばあちゃんの家(妻の母の家)へ行く。

帰りは父と娘二人で、ローカル線に乗って東京へ戻る。

祖母が土産に持たしてくれた「十年に一度しかならない伝説の桃」を車内で二人で食べたあと、大きな地震が起こり、停電して急停車する。そのとき父は娘をかばい、目が覚めると病院のベッドの中で父と娘が入れ替わっていた。

そういうドラマである。

入れ替わりに気づいたすぐあと、父娘は病院を抜け出し、おそらく近くにある神社なのだろう、その石段の上で父(である新垣結衣)が娘(舘ひろし)に言う。

「転校生っていう映画があってな、神社の石段から転げ落ちて、幼なじみの男女が入れ替わってしまうという名作なんだがな」

「だからなに」

「それを参考にここから転げ落ちてみようとおもう」

娘は一瞬ひるむが、戻れるのならと、一緒に転げ落ちる。

次のシーンでは、包帯の数が増えて二人、病院で注意されている。

入れ替わりは起きずに、ただ怪我が増えただけだった。失敗である。

『転校生』を真似て階段を落ちても元には戻れないと、このドラマでは示されている。

『パパとムスメの7日間』の秘密は「伝説の桃」

入れ替わりの秘密は祖母が知っていた。

「十年に一度しかならない伝説の桃」を食べるのがきっかけなのだ。

それを知った父娘は、伝説の桃が残っていないかを探しにいき、見つけるがそれを持ったまま父(新垣結衣)が道を踏みはずしてしまい、娘(舘ひろし)が助けようと飛びつき、二人で急斜面を転がり落ちる。

目が覚めると、二人はもとに戻っていた。

おばあちゃんの説明によると。伝説の桃を食べるだけではなく、そのうえ「命を懸けて相手を守りたい」とおもったときに入れ替わりが起こるということだ。

そして守られた人間が逆に相手を守りたいとおもうと元に戻る、というものであった。

父と娘はもとに戻り、以前より深く相手を理解した生活が始まる。

いいドラマだとおもう。何といっても新垣結衣が魅力的である。

ドラマ『民王』では脳波の操作で父子が入れ替わる

さてもうひとつ。

2015年7月のドラマ『民王(たみおう)』もまた親子の入れ替わりドラマだった。

こっちは父と息子の入れ替わりである。

遠藤憲一演じる父は内閣総理大臣、その息子は菅田将暉が演じ、やさしい性格だけど勉強ができない(漢字がからっきし読めない)大学生である。

二人が入れ替わる。

しかも、テレビ中継されている国会で、父が総理大臣として答弁している最中に、息子と入れ替わってしまった。息子はカレー店でのバイト中だった。

このドラマの入れ替えは、人為的な陰謀であった。

総理をバカ息子と入れ替え、その権威を失墜させようという政治的陰謀である。

やがて、野党第一党の党首(草刈正雄)も、大学生の娘(知英)と入れ替えられてしまう。

どちらも「CIAの最先端技術である“脳波を操作する最新機器”」によって操られたものだった。事前に歯医者に行ったときに、それぞれが知らずにチップを埋め込まれていて、それによって脳波をいじられていたのである。

それらしい説明が加わっているが、加わったところでどこまでもありえない設定であり、その部分はずっとコミカルに描かれている。

やがてその脳波を操作している悪のアジトが突き止められ、無事、父と子はもとへ戻る。

そのあと、入れ替わったように見せかけて政敵を油断させるという「もとに戻ってからの話」も展開する。

ちなみにこのドラマには総理秘書として、とても大事な役どころに高橋一生が登場している。

「階段を落ちて入れ替わる」のは1982年『転校生』だけ

以上が、そこそこ人気のあった「入れ替わりもの」の展開である。

『パパとムスメの7日間』も『民王』もドラマとしてそこそこ高い評価を得ている。

入れ替わりものは、だいたい役者の演技が高く評価される。入れ替わった相手に見える演技に感心することが多いからだ。

またばかばかしい設定ながら、どうなるのだろうという展開から目が離せず、コメディタッチのドラマとして優れたものになっていた。

入れ替わりと、それをもとに戻す方法は、それぞれ違っている。

『転校生』は、神社の石段を抱き合うように転げ落ちると入れ替わり、同じことをして元に戻る。理由もシステムも何の説明もない。ただの自然現象として扱われる。

『パパとムスメの七日間』は、伝説の桃を食べて命懸けで相手を守ろうとすると、入れ替わる。入れ替わった者が助けてくれた人を守ろうとすると元に戻る。これはそういう昔の伝説がもとになっていると、おばあちゃんが教えてくれる。

『民王』は、チップを埋め込まれて脳波を操作されると入れ替わる。その操作をしている悪いやつを捕まえて、やめさせれば、元に戻る。科学を装った荒唐無稽な説明である。

2007年リメイク版『転校生 さよならあなた』

「入れ替わりの物語」では、入れ替わるきっかけ、戻るきっかけが、それぞれ工夫されている。そこにはオリジナルがある。

ところがいまのドラマ『天国と地獄〜サイコな2人〜』の入れ替わりには工夫がない。

1982年『転校生』と同じ、一緒に階段を落ちて入れ替わっている。

原初の形を踏襲しているのだ。

あきらかにこれは一つのメッセージだろう。

ちなみに大林宣彦には自分で『転校生』をリメイクし、2007年に『転校生 さよならあなた』という映画を作っている。

舞台は長野市で、入れ替わりは「二人で同時に水に落ちる」というちょっと違うパターンになっていた。(戻るのも同じことを繰り返す)。

リメイクしたときには大林監督本人も「階段を一緒に落ちる」を使っていないのだ。

(リメイク作は後半の展開がかなり変えられており、かなり印象の違う作品になっている。申し訳ないのだが、いまの時点では1982年版だけ見ればそれで充分ではないか、とおもってしまう)

なぜ『天国と地獄〜サイコな2人〜』は『転校生』と同じ入れ替わりなのか

ドラマ『天国と地獄〜サイコな二人〜』ではわざわざ、ベタな『転校生』と同じ入れ替わりを見せた。

また、タイトルには、映画のエンディング曲の「天国と地獄」が使われている。

何かしら示唆的である。

ドラマ『天国と地獄〜サイコな2人〜』ではまだオッフェンバックの「天国と地獄」は流れておらず、だいたいベートヴェンの「運命」が流れている。

軽快な音楽「天国と地獄」に似合う展開を見せていないからだろう。

となると、もしオッフェンバックの「天国と地獄」が流れるとしたら、最終話ではないだろうか。「数字に拘ったシリアルキラーの出現」という不気味な展開を見せているこのドラマは、最後の最後、まったく違う地平に出ていくのかもしれない。

「階段をもつれあって入れ替わった刑事と容疑者の二人」は、映画『転校生』世界に倣うのなら、再び「何の意図もなく同じ階段を落ちる」と元に戻れるはずである。

ただ、ドラマ内で繰り返し示唆されているのは「月の伝説」である。

奄美の伝説と「月」が、入れ替わりと大きく関係しているようでもある。

その力に気がついて、元に戻れるのか。まだそれはわからない。

現在6話終了時点では、すべての素材が明らかになっていない。

ただ「入れ替わり」を「階段落ち」というベタな展開で見せたのは、映画「転校生」の要素をほかにも取り入れている、という意味にとれる。

それは「入れ替わったまま生きる決意」なのか、「意識しない繰り返しが元に戻るキモ」なのか、そのあたりはまだわからない。でももう一度なにか、強いつながりを見せるのではないか、と勝手ながら想像している。

『天国と地獄〜サイコな2人〜』の魅力は明るさにある

このドラマは「何人もの人が死ぬ」というかなりシリアスな物語展開を見せているのに、演出のトーンと、ときどき見せられるいくつかの寓意的なシーンから「軽く明るい物語」に感じられることがある。

この明るさが、このドラマがいま受けている大きな要因だとおもわれる。

「二転三転して、最後は軽快にオッフェンバックの「天国と地獄」が流れて、笑える結末になる」というのがいま期待される『天国と地獄〜サイコな2人〜』の展開である。

そのためには最後には「大どんでん返し」が待ち受けているのかもしれない。

とにかく明るいドラマとして突っ走ってくれるのが期待される。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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