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『鬼滅の刃』がいま読まれるもう一つの理由 「緊急事態」に人が鬼に堕ちる世界

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:アフロ)

大ヒット漫画『鬼滅の刃』を読み返していると、これは「鬼」を通して「人間のダークサイド」に迫った作品であることに気付かされる。

『鬼滅の刃』には「鬼」が登場する。

鬼は人を食らう。圧倒的な悪である。

基本は不老不死。首を切り落とされない限り身体が蘇生する。強い鬼だと首が落ちても死なない。恐ろしい敵である。出会ったら逃げるか、消滅させるしかない。

主人公・竈門炭治郎ら“鬼殺隊”は協力してその鬼を狩っていく。

鬼殺隊員が鬼と対峙したとき、鬼はときどきその心情を叫ぶことがある。

その言葉に鬼の本質が見えてくる。

たとえば125話(単行本15巻)で炭治郎たちと戦った「半天狗」という鬼。

これは「上弦の伍」(すべての鬼のなかで5番目に強い)という圧倒的強さを持つ鬼である。すでに何百年か生きながらえ、殺した人間の数は夥しい数になっている。

しかしその本体は、かなり小さい。

「野ネズミくらい」の大きさしかなかった。

鬼殺隊員に追い詰められたとき、半天狗は叫ぶ。

「お前はああ、儂(わし)があああ、可哀想だとは、思わんのかァァァァ、弱い者いじめをォ、するなああああ!!」

身体が小さいことを楯に、これまで何百人と人間を殺してきたにもかかわらず、自らを弱い者と叫ぶ。この言葉で怯んだら、おそらく、次の瞬間に殺される。

そういう存在である。

半天狗は、鬼殺隊員が何人も束になってかかっても倒しきれないような強敵である。その本体が「弱い者いじめをするな」と叫ぶ。その姿に衝撃を受けた。

鬼とはそういう存在なのだ。

人を食うことさえも善いことだと信じている「鬼」

11話(2巻)という早い時期に登場した「三体に分裂している鬼」は、若い娘ばかりを食らう鬼であった。次に食われようとした女性を竈門炭治郎が救い出したとき、鬼は苛(いら)つき、叫ぶ。

「邪魔をするなァァァ。女の鮮度が落ちるだろうがァ!! もう今その女は十六になっているんだよ。早く喰わないと刻一刻で味が落ちるんだ!!」

この鬼はただ「人間の味」についてしか話さない。

いったいどれだけ殺したのだと問い詰められても、「あれ以上生きているとまずくなるから 喰ってやっているんだ 感謝しろ」という。

自分を悪だとはおもっていない。

ただ自分の欲望が充足されないと苛立つ。そういう状況を起こした者を恨む。

彼らはそういう思考のもとに生きている。

同じようなことは159話(18巻)で「童磨」という鬼も言っている。

自分が食らった女たちは死んでないという。

「彼女は俺の中で永遠に生き続ける。俺が喰った人は皆そうだよ。救われている」

「もう苦しくない、つらくもない。俺の体の一部になって幸せだよ」

おそらく本当にそう信じているのだ。

人間の感情は勘案しない。ただひたすら、自分のことだけを語る。それが鬼である。

121話(14巻)で「玉壷」という鬼は鬼殺隊に追い詰められる。

滅ぼされそうになったとき「もったいない」と叫びだす。

「貴様ら百人の命よりも 私の方が価値がある。選ばれし!! 優れた生物!! なのだ」

鬼にはそういう意識があるようだ。

ときに「剣技のすごい鬼殺隊員」に対して「鬼になれ」と誘うことがある。

人間の命には限りがあるのがもったいない。鬼になって永遠にその命をつなげばよい、と誘う。もちろん不死にはなるが、人を殺し食らい続けなければいけない。「すばらしい剣技」を残すためには、それぐらいの犠牲はしかたない、ということだ。

それが鬼の理屈である。

鬼は、ただ自分のことだけを考えている。自分のことしか考えられない。

鬼の理屈は「自分勝手な人間の理屈」と同じである

145話(17巻)で「獪岳」という鬼は、かつての知り合いだった鬼殺隊員(吾妻善逸)に「もう善悪の区別もつかなくなったか」と言われ、こう答える。

「善悪の区別はついてるぜ。俺を正しく評価し認める者は“善”!! 低く評価し認めない者が“悪”だ!!」。

茶化して言ってるのではなく、おそらく本心からそう言ってるのである。自分の存在が主であり、まわりの存在は従属したものでしかない。そういう世界観で貫かれている。

鬼の論理は同じである。

すべての中心に自分がいる。自分が生き続けることとその嗜好が、世界のすべてに優先される。

人の命だろうが何だろうが、自分の欲望の充足のためには踏みつけにしていい。

そういう理屈である。

そして、お気づきであろうが、これは「鬼」という生き物だけの特殊な理屈ではない。

人間の社会でも、こういうことを口にする人をときどき見かける。

心に闇を抱えている者、ないしは闇(ダークサイド)にとらわれてしまった瞬間の人間は、こういう言葉を口にしてしまう。

他人に向かって暴力的で、支配的な人間は、自分はほんとうは弱いとどこかで感じている。そういう人は、他人の痛みを想像せずに、ひたすら暴力的に振る舞ってしまう。

また、自分は不当に評価されている、被害者である、と強く考え、被害者であるから何をやってもいい、と飛躍することがある。

『鬼滅の刃』の突出した人気は「鬼」の造形にある

人は、自分のことだけを考え、人を傷つけても顧みないとき、「鬼」となってしまう。

「鬼」は人の心の闇の部分が生んだものである。

ふだんはふつうの人であっても、ある瞬間、何かに取り憑かれてとんでもない言葉を投げかけ、攻撃的な態度を取る人もいる。

それも「鬼」である。

鬼は「人の心にあるダークサイド」が強くなることで出現してしまう。誰の心にも「鬼」の部分が潜んでいる。

『鬼滅の刃』は鬼殺隊の竈門炭治郎の物語であるとともに、その妹の「鬼である禰豆子(ねずこ)」の物語でもある。

禰豆子は鬼に襲われ、その血を浴び、鬼と化してしまった。

ただ驚くべき自制力によって人を襲うことはなく、人を食らうこともない。

身体は鬼であっても(禰豆子は手足を切り落とされても、素早く再生できる)、強く人を信じれば、心は「鬼」にならない。

そういうこともまた可能ではないか、ということを作品は問いかけている。

おそらく似たような物語構造が多いなか、『鬼滅の刃』が突出して受けたのは、この「鬼」という存在の造形の見事さによるところが大きいだろう。

「鬼」へと化した哀しい記憶が描かれる

「鬼」になったものたちは、もともと人間である。

禰豆子のような巻き込まれ事故のようなケースもあるが、大半は、生前から人を妬み、嫉み、恨んでいる者たちである。

その弱い部分を鬼につけこまれ、鬼にされてしまう。

ときに自ら望んで鬼になっている。

鬼になれば、自分勝手、わがままに生きていい。

もはや人にあらず、人の道には背くが、自分の欲望は充足できる。ただ、目先の欲にだけ、生きていればいい。

鬼はそういう生活を送っている。

鬼殺隊に首を切られ、消え去る直前に、ときに「人だったころの記憶」をおもいだす鬼もいる。鬼にならざるをえなかった悲哀な人生がおもいかえされる。

「父と母がただ恋しかった鬼・累(るい)」

「妹・堕姫を守ろうとした兄鬼の妓夫太郎(ぎゆうたろう)」

「愛する人を殺した隣人に復讐した鬼・猗窩座(あかざ)」

「天才である弟に嫉妬していた剣士の鬼・黒死牟(こくしぼう)」

彼らが首を切られ、消滅する直前に、鬼になった哀しい理由をおもいだしている。

ただ、彼らは許されるわけではない。鬼になった理由が認められるわけでもない。

ただ、その人生の哀しい瞬間が描かれているだけだ。

透徹した視点で淡々と語られている。

だからよけいに哀しみに浸される。

この表現がまた秀逸である。

あんな「悪」だった鬼の前世を知り、ただ心揺さぶられ、涙するしかない。

心優しい主人公・炭治郎も手を合わせるだけである。

人は緊急事態に「鬼」になりやすい

「鬼」へと堕ちるのは、だいたい予想もしてなかった危難に襲われたときである。

人は「緊急事態」に「鬼」になりやすい。

自分が考えていることがすべてで、人の心を推し量らなければ、「緊急事態」をきっかけに人はすぐに「鬼」と化してしまうのだ。

「自分は緊急事態なのだ、切羽つまっているのだ、おれを何とかしろ」と叫ぶのは「鬼の論理」でしかない。そういう心の闇を持ち続けていると、知らず「鬼」へと化してしまう。

『鬼滅の刃』からはそういう哀しい警告も読み取れる。

緊急事態であろうと、人は、人であるかぎり、人がましい行動を取らないといけないのだ。

心して生きていくしかない。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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