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『虎に翼』は朝ドラを根底から覆すか 「すべての婚姻女性は無能力者」という恐ろしい時代を描く本当の意味

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:2019 TIFF/アフロ)

子供時代がなかった朝ドラ『虎と翼』

今期の朝ドラ『虎に翼』はヒロインの子役時代がなかった。

ひさびさである。

近年の朝ドラでは子供時代からを描くのが主流である。

ここのところで物語が幼少時代から始まらなかったのは『おかえりモネ』(6作前)、『まんぷく』(11作前)、『ひよっこ』(14作前)、『あまちゃん』(22作前)くらいである。

子供時代からの物語だと、ヒロインへおもいいれしやすい。

あんな小さい子だったのが、こんなに大きくなって、と親近感がわく。

『虎に翼』は子供時代はなく、高等女学校時代から始まり、冒頭はヒロインの「やる気のないお見合い」のシーンからだった。

たぶん、この朝ドラはいままでの作品とは、根本の心構えが違うようにおもう。

だから子供時代がなかったのではないか。

いま、そう感じている。

空回りしても自立しようとする女性の物語

朝ドラのヒロインは「自立しようとする女性」が多い。

必ずそうと決まってるわけではなく、巻き込まれ型受け身ヒロインの朝ドラにも秀作はあるのだが(たとえば『ひよっこ』)、でも主流はひとり頑張る女性である。

空回りしようと、そのまま突き進んで道を開いていく物語が定番である。

今回は違う。

それが如実にわかったのは「女は無能力者」という言葉が出たときである。

「女は無能力者」と言われたのは第2話

「女は無能力者」という強い言葉に出てきたのは始まってすぐ、第2話である。(つづく第3話でその言葉の意味が説明された)

ヒロインの寅子(ともこ/伊藤沙莉)が、大学の知り合いを訪れた夜学に通う下宿人にお弁当を届けようと教室に近づくと、法学の講義中だった。彼女はまだ女学生である。

そこでは講師の質問に、学生が答えているのが聞こえた。

「婚姻状態にある女性は、無能力者、だからであります」

それをたまたま耳にしたヒロイン寅子は「はあ?」と大きな声をあげてしまう。

講師に気づかれ、遅れて入ってきた法学部教授にも興味を抱かれ「言いたいことがあれば言いたまえ」と発言を許される。

「女性は無能ということでしょうか?」と素直に聞く。

「結婚した女性は、準禁治産者と同じように、責任能力が制限されるということだ」と若い講師に説明されても、ヒロインは納得しない。

当時の社会は女性を決定的に下に見ている

このシーンがこのドラマのキモとなった。

当時の社会は(おそらくその奥にある国家は)女性を決定的に下に見ている、という姿がわかりやすく示された。

わかりやすい、というところが大事なのだ。

いままでの朝ドラでも、そういう空気は、何度となく示されていた。

でも「空気」であった。

今回は「言葉」である。

ここが大きく違う。

空気は感じられなければ終わりだが、言葉は、意味がわかれば理解できる。

パワーワードとして突き刺さってくる。

たぶん『虎に翼』はかつてない朝ドラなのだ。

これまでの朝ドラ世界を根底から覆(くつがえ)す可能性を秘めている。

見ている者も現場に引き出される感覚

「婚姻状態にある女性は無能力者」というのは、一人前の人間として認めていない、ということだ。

あまりにも酷い。

いままで、『ブギウギ』でも『らんまん』でも『カムカムエヴリバディ』でも『おちょやん』でも『エール』でも、同じような時代は描かれ。女性は男性と違う扱いを受けるというのは繰り返し描写されている。

ヒロインたちはそれにも負けずに自分の道を進んでいく。

子供時代から見守っていた私たちは、彼女を応援する。

そういう型が守られていた。

でも今回は、「女性は無能力者」という言葉で表して、その厳しい現実を簡単に示すことができた。

見ている者も現場に引き出されたように感じられるとても強い言葉だ。

女性の生理に触れるわけ

女性の生理についても、日常のなかで繰り返し触れる。この時代、男性のいる前でそのことを話す女性はあまりいなかったとはおもうが(カフェー燈台のマスターは困っていた)、この際、そういう細かいことはどうでもいい。

「リアルに女性の立場を考える」という姿勢からの自然な描写なのだ。

「女性は無能力者」というワードは、これまでの見知っている世界を簡単に反転させ、世界が違って見えてくる強さがある。

ドラマを見ていて、とんでもなく下に見られている女性の感覚が想像しやすくなってくる。そこから、いろんな共感をしやすくなっていく。

「女だてら」英雄物語が主流だった朝ドラ

これまでも、朝ドラは、男社会に飛び込んで、苦難の多いなかを突き進む主人公を描いてきた。

「女だてらに」と形容される仕事につくのが朝ドラヒロインの定番であった。

女だてらに飛行士をめざす『雲のじゅうたん』、女だてらで新聞の記者を務める『はね駒』、女だてらに京都の祇園祭復活に動いた『都の風』と、古くから挙げていったらキリがない。

その後も棋士、大工、宇宙飛行士、落語家、実業家、興行主、陶芸家などなど、もともと男だけだった世界に女性がひとり飛び込んでいく物語が数多くあった。

ヒロイン一人の「英雄的な行動」によって道が開けていくさまを描いている。

もちろん英雄物語は人の心を動かす。英雄物語は、やはり子供時代から描かれると共感を呼ぶ。

世の中のシステムそのものを意識することが狙い

でも今回は、それではない。

英雄気分を持っていない。

根本から違う。

このドラマの目的は、たぶん「世の中のシステム」そのものを意識することにあるのではないか。

システムを変える、ではない。

システムの根幹を「見る」「意識する」こと、である。

そこにとても大きな意味がある。

きちんと見ないと、変えることもできない。

ここでのシステムとは、この社会における男と女の扱いの決定的な差異である。

性差によって上下をつけた理由

もちろん、いま寅子たちが立ち向かっているのは明治時代に制定された「古い民法」である。

戦争に負けて、それは改定された。

でも国家によって「女は無能力者」だと規定されていた時代はあった。

果たしてその根幹は本当に変わっているのか、という強い疑問を抱かざるをえない。

国を挙げて、性によって人間を二分し、優劣をつけて扱うということを近代国家となってからずっとやっていたわけである。

簡単に変わるものではない。

たしかにそうしないと国家が持たないという強迫観念を抱いていたというのはわからないでもないが、やはり冷静に考えると、とんでもない話である。

(男子はすべて戦争になれば戦うというところと密接につながっているのはわかるが、それは基本的にはナポレオンにつながるきわめて19世紀的なシステムでしかない)

「女は無能力者」が現在に伝えるもの

いま2020年代になって、いろんなシステムが少しずつ動きそうになっているときだから、そこでやっと「女は無能力者」というパワーワードが届いたのではないだろうか。

ドラマでは、そもそもの社会の前提が違っていないか、ということが示されている。

それも人が生きて行く前提である。

その間違いはいまもどこかで続いていないか。

そう想像させられる朝ドラである。

いままでの朝ドラのシステムとまったく違う展開を見せている。

ヒロインの「はて?」の持つ大きな力

でも勇壮な物語ではない。

社会システムに立ち向かう戦士の話ではない。

ヒロインの力の源は、どんな場合でも「はて?」と疑問を発するところにある。

「はて?」によって突き進んでいく。

「はて?」は誰でも持っている。

むずかしい話ではない。

もし、むずかしいことを言われても、わからないときは「はて?」と立ち止まればいい、ということでもある。

無能力者からの逸脱と逃走と闘争

主人公は「大学の女子部」に進み、仲間もできている。

「女は無能力者」の規定から、どうやれば、抜け出せるのか、必死に考えている。

この問いは、昭和10年だけの問いではない。昭和99年にも有効な問いでもある。

「無能力者」からの逸脱のためにヒロインたちは走り出す。

始まったばかりの物語だ。

見届けなければいけないとおもっている。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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