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『鬼滅の刃』はなぜ現代人をここまで惹きつけるのか。「失っても戦う物語」のもつ圧倒的魅力

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

いまのジャンプでまず最初に読まれる『鬼滅の刃』の強さ

『鬼滅の刃』の人気がとどまるところを知らない。

テレビ番組でいろいろと特集され、街中で人が噂をしているのを耳にする。

日本中を席巻しているようなブームである。

人を喰らう鬼たちと、それと戦う若者たちのお話である。

私は何年か前から週刊少年ジャンプを毎号読んでいるので、『鬼滅の刃』は初期のころから読んでいる。とはいえ1話からではなく40話すぎくらいからだけど、熱心に読んでいる。途中から読み始めたから最初はただ話を追ってるだけだったが、汽車での戦い(無限列車)あたりからぐぐぐっとつかまれ、それ以来とても熱心にジャンプで連載を追っている。

その、少年ジャンプに連載されている本編が、いま、熱い。

大詰めの大きな戦いが続いている。毎週、目が離せない。

去年2019年の11月、土曜日に発売された最新刊ジャンプを持っていたとき、会った学生が「あ、新しいジャンプですか、鬼滅だけ読ませてくださいよ」とまだ私が読む前のジャンプを奪うようにして読み始めたことがあった。「内容を話したら許さんからな」との言葉も聞き流して、むさぼるように読んでいた。

2019年後半から、連載からも目が離せなくなっている。

いまも、ジャンプを買うと、何をおいてもまず『鬼滅の刃』から読む。

かつての『あしたのジョー』ブームに迫るその熱狂ぶり

1973年をおもいだす。

私が高校一年だったその春は、少年マガジンに連載されている『あしたのジョー』がまもなく連載終了しそうだということで、日本中の漫画ファンが浮き足立っていた。

高校から帰る京阪電車のなかで、私の持っている少年マガジンを見つけた知らない若いサラリーマンが「あ、マガジンやん、ジョーがどうなったか見せてくれへんか」と声をかけてきたので、しばし貸したことがあった。

ジョーと世界チャンピオンとの戦いはかなり長い間続いており、すでに矢吹丈がぼろぼろになっているので、この戦いの末にジョーは死んでしまうのではないか、という噂が流れていたのだ(SNSがなく携帯電話さえなくてもそういう噂はあっという間に漫画ファンのあいだを走っていくのである)。いったいどうなるのだ、とみんなやきもきして少年マガジンの発売を待っていた時代だった。

マガジンを貸してあげたお兄さんは、ジョーを読んだあとほかの漫画も読みつづけていたので、おれ次の五条駅で降りるから、と返してもらった。高校に入ってすぐの春である。

それをおもいだしてしまった。

1973年の『あしたのジョー』と2019年の『鬼滅の刃』をめぐる状況は、なんだか似ているのだ。

『鬼滅の刃』人気は、突然、巻き起こった。

わかりやすくアニメ放送から起こった。2019年4月からアニメが放送され、これで大人気になった。

アニメの力は強い。

われわれは、ひょっとしてアニメの力を借りないと漫画さえもきちんと読み込めなくなっているのかもしれない(違うとおもいたいが)。

アニメは、漫画家になりかわり、その作品の深い意図と意味を丁寧に説明する役を担ってくれている。アニメを見てから漫画を見直すと、いくつも読み落としていたことに気づかされる。アニメ・クリエイターの力はすごい。

アニメ化されるまでの『鬼滅の刃』人気は、まあ、ふつうだった。ふつうというのがどれぐらいかはむずかしいところだが、ふつうに人気がある、というレベルだった。

私が引き込まれて『鬼滅の刃』をジャンプ一番の楽しみにしたのは2017年の途中からである。

でも当時、漫画好きの若者に「鬼滅っていいよね」と言っても、反応はかなり中途半端だった。

漫画好きの連中とは具体的に大学の漫画研究会部員たちだが、たまたまそのなかに“鬼滅好き”がいれば話がころがるが、そうそういるわけではない、という状況だったのだ。漫画好きが集まっていても(漫画おたくの集会でも)『鬼滅の刃』の話はときにスルーされるレベルだった。

2017年当時、少年ジャンプ連載で話題になっていたのは、最初の脱出を成し遂げる前の『約束のネバーランド』と、まだまだ世界がどうなるのかわからない『Dr.STONE』だったとおもう。まだ『銀魂』も連載されていた。『鬼滅の刃』が人気トップとは言えない状況だった。

人も鬼も隔てなく描かれる『鬼滅の刃』の深い世界

2019年4月からのアニメ放送で、世界は一変した。

多くの人がこの作品の持つ底力と圧倒的な魅力に気がついたのだ。

『鬼滅の刃』は、なぜそこまで現代人を惹きつけるのだろうか。

私が惹かれた理由は、わりと簡単である。

せつないからだ。

人の生死と運命を正面から描き、生きることのせつなさを訴えてくる。

そこに、はまった。

この優れた漫画の特徴は、すべての登場人物を丁寧に描いているところにある。すべてに作者の感情が通っている。

それは一回きりしか登場しない者や鬼たちでも同じである。

すべてのものは、それぞれのバックボーンを持って、生き、死んでいる。

それを描いている。

言ってしまえばキャラクターの設定が細かいということだが、それは作者の創作愛が全存在に注がれている、ことでもある。この作品はそうである。

生きとし生けるものに敬意を抱き、慈しみを持つ。

それは、主人公竈門炭治郎を通して、われわれに送られている作者の強いメッセージでもある。

悪であろうと、醜かろうと、みんな必死で生きている。死ぬとしても、滅ぼされるとしても、それまでは必死で生きている。

その姿をみよ。死にゆく者たちであってもその姿を直視せよ。

そういうメッセージを感じる。

強く、冷徹でありながら、愛に満ちている。

それが読む者に伝わってくる。

それを「せつなさ」ととらえるのは、これは個人の感覚だ。

人によっては「強さ」だというだろうし「愛」という人もいるだろう。「あらゆるものに対する優しさ」でもあるし「滅ぶものを見つめる冷徹さ」でもある。「強い哀しみに耐えること」だととらえることもできる。

いろんなものが混じり、それが混然となって読む者を圧倒的に包み込んでくる。

痺れるようにただ読み続けるしかない。

「生きることと死ぬこと」の覚悟を描く凄み

「生きることと死ぬこと」を正面から描いた作品でもある。

鬼がおり、人を襲って喰らう世界が描かれている。それを防ごうと主人公たちは戦いつづける。

誰もがいつ死ぬかもしれない世界だ。その空気が描かれている。

そしてわれわれの生きてる世界は、ひょっとしたらこの鬼滅の世界と同じではないのか、とふっと考えさせられる。われわれの世界だって、ただ鬼がいないだけで、誰もがいつ死んでもおかしくない。

生きとし生けるものをいつくしむように描いているのは、それらはいつ失われてもおかしくない、とおもっているからだろう。

そういう覚悟がある。

主人公にあって、作者にある。

読者も腹をくくらないといけない。

そこに惹かれていく。

人間の敵である鬼の、その最後の瞬間の感情がたびたび描かれている。

「身勝手で自分のことだけを考えている鬼たち」でさえ、その存在が消えゆくときには、いろんな感情を抱いている。そういうシーンがたびたび現れる。

おれは死ぬのか、と滅する直前の鬼が気づく。

このまま人を喰らいつづけてノウノウと生き続けるつもりだった鬼が、突然、とてつもなく強い剣士によって命を絶たれ、そんなことは予想もしてなかった、と驚いている。その鬼の感情に胸が揺さぶられるのである。

退治されて当然とおもって見ていた「悪」が、かつては弱い人間だったこと、彼にも彼なりの感情があったこと、それらが最後の最後で描かれ、その意外なおもいの強さに心打たれる。不思議な感情を手渡されてしまう。

そこがこの漫画の凄いところである。

死んで当然の「悪い鬼」が死ぬときでさえ、何かしら感情を揺さぶられるのだ。

ましてや人が死ぬときとなると。

せつない。

鬼を退治する剣士たちは、刀と自分の技術だけで戦っている。ほかに武器がない(毒を得意とする専門部隊がいるくらい)。

刀以外は、何も持ってない。

ほぼ生身で、鬼と戦う。

正々堂々としている。

そして正々堂々はやはり脆(もろ)い。

そこがこの漫画のもうひとつの魅力である。

逃げも隠れもしないが、鬼の前では圧倒的に強いわけではない。いつもぎりぎりだ。力をあわせ、力のかぎりを尽くし、ぎりぎりに戦う。

勝つこともあれば、敗れることもある。

正々堂々としている。

人として、こう生きなければ、とおもわされる姿である。

『鬼滅の刃』で戦う人たちは、堂々として正しい。

正しくて、せつない。

そしてさほどに強いわけではない。

そういう物語である。

「失ったものは取り戻せない」覚悟を決めて戦う物語の魅力

透徹した視点からいえば、滅びの物語でもある。

主人公やその仲間たちは、常に戦っている。戦っているが、勝ったところで得るものはない。勝つと、これから起こる被害を防げる、というにすぎない。

負けると失う。そして、しばしば負ける。

仲間を失うし、身体の一部を失うこともあれば、戦闘能力を失ったりもする。そのとき守れなかった人間をすべて失ってしまう。

ときには勝つが、勝って現状維持である。何とか滅びを救おうとするだけの物語だ。

負けると失う。つねに失っていく物語だ。

正しく、哀しく、せつない。

物語冒頭第一話で、主人公の炭治郎はいきなり家族を失う。

失ったものは取り戻せない。

失ったものを戻す物語ではない。

亡くなった母や弟妹は、もう取り戻すことはない。それでも戦う。

鬼になって生き残った妹・禰豆子(ねづこ)を人間に戻す、というのは、いわば物語を前に進ませる些細な設定でしかない。

失ったものは戻せない、

勝ったところで現状維持にしかならない。世界は祝福してくれない。

それでもきみは戦うのか、と問いづつける物語である。

戦うしかない。

小さく呟くだけで、心震えてしまう。

そう決意する人を見守っていると心熱くなる。

読んで、明るく元気になる物語ではない。

でも読んで「しっかり生きよう」と決意させてくれる物語だ。

2020年に大流行した『鬼滅の刃』は喪失の物語であった、ということは記憶しておいたほうがいい。

私たちはいま「失っても戦う話」に心を熱くしているのだ。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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