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「民間に任せても万事うまくいくわけではない」を証明したイギリスの民営水道テムズ・ウォーター

橋本淳司水ジャーナリスト。アクアスフィア・水教育研究所代表
ロンドン市内の水汲みばで水道水をくむ人(筆者撮影)

多額の借金、下水垂れ流し、漏水、断水

 「サッチャリズム」のもとで1989年に誕生したイギリス最大手の水道会社テムズ・ウォーターが経営危機に陥っています。同社はロンドンとイングランド南東部で1500万人に上下水道サービスを提供していますが、自己資本の8割に昇る140億ポンドの負債を抱えています。

 さらに同社は、未処理状態の下水を複数回、河川に流出させたり、猛暑と渇水の22年の夏に長期間の断水を発生させるなど、水道の基本的な仕事ができなくなっています。

 民間の技術やノウハウを活用することで業務改善が進み、リスク管理が徹底されると期待された民営水道事業に何が起きているのでしょうか。

テムズ・ウォーターの誕生

 まず、テムズ・ウォーターの誕生にさかのぼってみましょう。

 イギリス経済は1960年代から長期停滞期に入り「英国病」と呼ばれました。一般的には、社会保障制度が充実し、基幹産業が国有化されたことで、社会負担が増え、国民の勤労意欲が下がり、既得権益が発生し、経済・社会的な問題を発生させたとされています。


 そうしたなか、マーガレット・サッチャーが登場します。1979年のイギリス総選挙において、サッチャーは経済復活と「小さな政府」の実現を公約して保守党を勝利に導き、首相に就任しました。新自由主義の立場から、市場原理と起業家精神を重視し、政府の経済的介入を抑制する政策をとり、公共事業であった電話、ガス、空港、航空会社などを次々に民営化していきます。

 1989年、ついに水道事業も民営化されます。水道事業は深刻な財政危機に見舞われており、老朽化した水道インフラを改善する資金が枯渇していました。

 まさに現在の日本の水道とよく似た状況だったのです。

 イギリス大蔵省はそれまでの累積赤字を理由に水道料金の値上げを決め、利用者の負担を増やし経営の健全化を図ろうとしましたが、サッチャーは「経営と資本調達の自由」という名目のもと、水道事業の民営化を国策として推進することを決め、イングランドとウェールズの10の水道公社の完全民営化に踏み切りました。

 この時、誕生した会社の1つがテムズ・ウォーターでした。

水道事業は改善されたか

 水道事業各社は次々に経営の合理化策を実施していきました。まず、24時間営業のコールセンターを開設し利便性を向上させました。次に地下に環状暗渠を新設し、自然の勾配を利用して給水・配水ができるようにしました。それまでの電動ポンプで水を送る方法から、自然流下にすることで、エネルギーコストが削減できました。

 民営化後10年の実績を見ると、技術面などの改善で上水道で18%、下水道で9%の経費が削減され、そのほかに人員削減などによって人件費が17%削減されました。

 2002年、テムズ・ウォーター社のピーター・スポイレット環境技術・環境品質マネージャー(当時)は新聞インタビュー(「京都新聞」2002年12月25日)に「われわれは民営化に成功した」と以下のように答えています。

(水道料金について)「公社時代から水料金は60%値上がりになったが、アップは抑える努力をしているし、施設への投資で水質は向上した。毎年、施設や家庭から200万サンプルの水を採取し、検査を実施している。それに、ヨーロッパ諸国の水道料金を比較して、ロンドンの水は安い」

(施設老朽化について)「漏水が悩みの種だ。パイプが老朽化しているのが大きな原因で、粘土質の柔らかい土質のところではパイプが折れやすい。工事が難しく、工事をすれば水道料金に跳ね返る。漏水率は30%前後で、改善していないのが現状だが、徐々に対策を打っている」

 「民営化に成功した」とはいうものの、実態はさまざまな合理化策が行われたものの、水道料金は上昇し、水質は低下し、漏水件数も減少することはありませんでした。その一方で、株主配当や役員報酬は多額な金額が支払われたことが指摘されています。

簡単に売買される水道事業

 新自由主義はサッチャー政権以来、労働党の一部にまで浸透していきました。ブレア政権は民間水道会社は平均12%の料金引き下げを命じました。この結果、各社の経営状況は悪化し、複数の水道事業会社が米仏独の企業に買収されました。

 テムズ・ウォーターも例外ではなく、2001年、ドイツ第2位の電力会社RWEに買収されました。その後「水は儲かる」とにらんだ新生テムズは、各国の水企業を次々に買収しました。最終的には46か国で70万人に上下水道サービスを供給し、短期間のうちに、ヴェオリア、スエズとともに三大水メジャーと呼ばれるようになったのです。

 ところが2006 年、英国での漏水対策の失敗に対する長年の批判を受けて、RWE は「集中と選択」を行います。収益の大きい電力・ガス事業に集中し、その反面、思うように利益の上がらなかった水道事業を切り離すことを決め、テムズをオーストラリアの投資銀行が所有するケンブルウォーターに売却しました。RWEはわずか4年で水ビジネスから撤退したことになります。

 以降テムズは海外から撤退し、イギリス国内で水道事業運営を行っていますが、現在の主な株主は、カナダ年金基金・オンタリオ州公務員年金基金」(株式保有率32%)、英国大学退職年金基金(同20%)、アブダビ政府系ファンドの子会社(株式保有率10%)、中国政府系ファンド(9%)などとなっています。

 高配当を求める投資家は、金のかかる水道インフラの改善には消極的になりがちです。

 事業が儲かると見れば彗星のごとく現れて資金を集め、M&Aを繰り返して巨大化し、儲からないと見るやさっさと競争の舞台から降りてしまう。事業は「安全な水を人々に届ける」、「生活排水を安全に処理して自然の川に戻す」など、肝心の公益性とは別の論理に支配されていました。

63%の英国民が「水道事業を国有化すべき」

 2023年9月26日、イギリス政府の「水業務管理局(オフワット)」は、水漏れや下水の未処理などを放置した7つの上下水道企業に対し、ユーザーに対する償還のために水道料金を引き下げるように1億1400万ポンドの命令を発表しました。

 オフワットは2022年度の業務評価で、17社中7社がサービスの基準を満たしていないと判断しました。

 とりわけテムズ・ウォーターは未処理の下水を河川に流出させており、約1億ポンドの支払いを命じられました。

 テムズ・ウォーターは違反の常連になっています。2017年には汚水排出で2030万ポンドの罰金、2018年には漏水対策が不十分だとして1億2000万ポンドを支払っています。

テムズ川(筆者撮影)
テムズ川(筆者撮影)

 こうして水道事業が公共の利益を十分に満たしていないとの認識が広がり、最近の調査では、回答者の63%が「水道事業を国有化すべき」と回答しています。

 市場に任せるとうまくいくと考えられていましたが、企業に委ねると近視眼的な利益追求に走りがちで、長期的な計画が難しくなります。短期の利益を追求しない企業であっても、資本主義の下では他社に買収される可能性があります。

 2024年はイギリス総選挙の年です。保守党、労働党のいずれが勝利しても、水道民営化は何らかの見直しがなされるでしょう。水のような社会的共通資本は公的に所有・管理されるべきだと、テムズ・ウォーターの35年の歴史が物語ることになるでしょう。

水ジャーナリスト。アクアスフィア・水教育研究所代表

水問題やその解決方法を調査し、情報発信を行う。また、学校、自治体、企業などと連携し、水をテーマにした探究的な学びを行う。社会課題の解決に貢献した書き手として「Yahoo!ニュース個人オーサーアワード2019」受賞。現在、武蔵野大学客員教授、東京財団政策研究所「未来の水ビジョン」プログラム研究主幹、NPO法人地域水道支援センター理事。著書に『水辺のワンダー〜世界を歩いて未来を考えた』(文研出版)、『水道民営化で水はどうなる』(岩波書店)、『67億人の水』(日本経済新聞出版社)、『日本の地下水が危ない』(幻冬舎新書)、『100年後の水を守る〜水ジャーナリストの20年』(文研出版)などがある。

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