静岡でお茶栽培が盛んになったのはなぜか

 全国のお茶の生産量の約4割を占める静岡県。栽培面積・生産量共に全国第1位。県内には、富士山麓、安倍川、天竜川、大井川流域など、お茶の栽培に適し、自然環境を活かした銘産地が並ぶ。

 リニア中央新幹線のトンネル工事によって水不足が起きるのではないかと懸念されているのが大井川流域だ。静岡県の人口の6分の1に当たる62万人が大井川流域に住み、その人たちの水道用水は大井川の水だ。工業用水、農業用水(灌漑される農地面積は水田と茶園を主体に1万2000ヘクタール)も大井川の恩恵に預かっている。下流の扇状地では地下水利用も盛んで、約430の事業所が約1000本の井戸を設置している。

 お茶の栽培には、年間平均気温が15度程度で、冬場の最低気温がマイナス5度程度に収まる気候がよいとされている。また、降雨量は年間1500ミリ以上で3月から10月までの成育期間には1000ミリ以上を必要とする。

 静岡県にはこの条件に合う、温暖多雨な土地が非常に多い。

 なかでも県中央に広がる牧之原台地の生産量は静岡全体の4割ほど。島田市、牧之原市、菊川市にまたがる標高200メートルの台地に総面積五〇〇〇ヘクタールの茶園が広がり、新茶の季節になると辺りは萌黄色に染まる。

 静岡のお茶は、鎌倉時代に静岡出身の禅僧、聖一国師が宋から持ち帰った茶の実を足久保(現在の静岡県葵区)にまいたことからはじまったとされる。駿府城の徳川家康に御用茶として納められるなど、江戸時代から銘茶として知られていたが、牧之原台地でのお茶生産の歴史は古くない。

 牧之原台地は、もともと砂礫に覆われた未開の荒れ地で、水の確保が難しく、地元の農民からも見放された場所で、延々と広葉樹林の森が続いていたと想像される。

 江戸から明治に移り、世の中は大きく変化した。明治維新により最後の将軍、徳川慶喜は静岡に移り住んだ。多くの家臣が彼に従ったが、領地は大幅に縮小され、彼らの生活を支えることができなかった。明治2年、この地に旧幕臣二百数十人が入植した。困窮の果て「座して無為の日々を送るより大地と格闘しよう」を合言葉に刀を鍬に持ち替えた。家臣たちは新しい産業を育成し、自立する必要があった。

 開国により海外貿易が始まり、お茶は生糸に次いで第2位の輸出品だった。明治後期には全国の生産量の6割が静岡で生産され、その8割が米国向けだった。米国で当時「ティー」といえば緑茶を指し、砂糖とミルクを入れて飲んだ。ちなみに唱歌『茶摘み』の舞台は静岡だとされている。「「摘めよ、摘め、摘め、摘まねばならぬ。摘まにゃ、日本の茶にならぬ」。わざわざ「日本の」と断るのは輸出品だからという推論である。

大井川に橋がかかり失職

 さて、牧之原台地の開拓の中心となったのは旧旗本の中條金之助景昭である。彼は江戸末期、旗本を中心とした新徴組を率い、混乱する江戸市中の警備に当たっていた。心形刀流の剣客だったとも伝えられている。明治維新後は徳川慶喜に従い静岡に入り、勝海舟の勧めもあり、士族を率い、牧之原の開拓にあたった。その後、開拓団は拡張する。明治3年には彰義隊の残党約80人、さらに4年には川越人足も開拓に加わった。

 ここで「大井川と橋」について振り返る必要がある。現在、東海道新幹線に乗れば、数十秒で大井川を渡ってしまうが、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と馬子唄に歌われた時代があった。大井川は東海道の旅の最難所である。

 なぜなら大井川には橋がなかった。

 渡るには肩車、女性の場合には背負い、あるいは輦台、駕籠乗せ輦台、馬渡しなど、様々な方法があったが、いずれにしても川越人足に頼まなければならない。特に参勤交代のときなどは何十人、何百人を超える人足が、人や荷物を運んだ。大名は駕籠ごと輦台に載せられ八人掛りであった、しかも前後左右には大名の乗る輦台が流されぬように守るための水を堰く人夫も入っていた。川越人足たちが川の中で足並みをそろえながら、一歩一歩と声をあげながら進んだのである。

 大井川に橋が掛からなかった理由は、江戸初期とそれ以降では異なる。幕藩体制が未確立なうちは、仮想敵対勢力からの防衛のために架橋しなかったとされる。その後は、架橋が計画されたこともあったが、当時の土木技術では困難であった。さらに橋がない前提でビジネスがうまれた。前述した川越人足のほか、両岸にあった島田宿、金谷宿の旅籠屋などが大いに栄えると、それらのために架橋されないこともあった。

 しかし、時代は変わる。慶応3(1878)年3月、幕府討伐のために京都を出発した西郷隆盛率いる「官軍」が大井川まで到着すると、見守る川越人足を尻目に瞬く間に木橋を架けた。明治時代になり大井川に渡船許可が降り、高瀬船による回漕業もはじまると川越人足や旅籠屋は大打撃を受けた。800人の川越人足は職を失い、静岡藩は彼らを救うために牧之原台地での茶畑の開墾に従事させた。

 現在、現地で茶農家を営む男性に話を聞くと、「大井川流域で生活する人にとって、リニアの問題は死活問題なのですが、知事の高圧的な物言いが災いし、県外の方からすると、単にわがままを言っているようにしか聞こえないのが残念です」と語る。

 大井川流域は水が豊富というわけではない。大井川は深刻な渇水が頻繁に生じる河川であり、26年間で22回の節水対策が必要だった。直近でも2018年12月27日から2019年5月22日まで節水対策を実施している。

 「『静岡県がごねている』と言われますけど、私はもっとJR東海にきちんと説明してほしい」と言う。

お茶の生産と地下水の汚染

 お茶の生産には水が必要だが、お茶の生産の肥料が多すぎると反対に、その土地の地下水を汚染してしまう場合がある。緑茶輸出額は近年、世界的な健康志向の高まりなどを背景に右肩上がりで推移し、15年に100億円を突破。17、18年は2年連続で過去最高額を更新していた。

 かつては肥料をやればやるほど、お茶にうまみが出ると信じられてきた。1883年前には窒素分にして現在の倍の肥料が使われ、硝酸性窒素濃度の上昇を招いた。

 かつて牧之原台地を植物学者と歩いた時、「牧之原のお茶に花が咲かないのは、肥料を豊富に与えているからだ。花は、植物の生殖に必要なものなので、子孫を残さなければならない、という危機感がないと花は咲かないのだ」という話をしてくれた。飢餓状態にあるほうが、きれいな花が咲くというのも皮肉なものである。

 その後、施肥量の改善が図られるなど生産方法が変わったが、地下水が改善されるには時間がかかる。大量の肥料が土壌に浸透し、地下の帯水層にたどりつき、帯水層を流れ、井戸に到達するまでには時間がかかる。

 リニアのトンネル工事の水への影響もすぐに起きるとは限らない。

 環境を考えるとき、現代人のものさしは短すぎる。