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トイレよりスマホが多い国には少女の夢をかなえるトイレが必要だ

橋本淳司水ジャーナリスト。アクアスフィア・水教育研究所代表
トイレができて学校にくる少女が増えた(WaterAid/ Ronny Sen)

高級トイレのあるマンション トイレのないスラム街

 インドの富裕層の間で、温水洗浄便座などが付いた高級トイレへの関心が高まっている。高層マンションが林立する首都デリー中心部にある住宅設備販売店には、日本製の温水洗浄便座も並んでいる。

 だが、デリーには温水洗浄便器を備えた高級マンションのある住宅地もあれば、トイレのないスラムもある。スラムの1つ、シャバドデイリー地区には木造の掘っ立て小屋がひしめいている。約2万人が暮らすが、ほとんどの家にトイレはない。

 インド全体では、国内2億4460万世帯のうち、戸別トイレ設備を有する世帯は46.9%(インド国勢調査/2011年)に止まる。

 もしもトイレがなかったら、どんなことが起きるだろうか。想像してほしい。日本で被災地を取材するたびに「いちばん困っているのはトイレが使えないこと」という声を何度も聞いた。日常無意識にトイレを使っているが、ひとたび使えなくなるとさまざまな不都合が発生する。

トイレがないことが社会に与えるインパクト(「水がなくなる日」橋本淳司著/産業編集センターより)
トイレがないことが社会に与えるインパクト(「水がなくなる日」橋本淳司著/産業編集センターより)

 そして、インドを取材して強く感じるのは、トイレがないことの影響を受けるのは子ども、女性、高齢者、障害者など、社会的に弱い立場の人だということだ。

トイレがないと背が低くなる

 インドでは子どもたちに深刻な健康被害がでている。亡くなる子どもがとても多い。5歳以下の子ども1600人が、毎日、下痢、コレラ、腸チフスなどで亡くなっている。国連は世界で2000人の子どもが毎日、同様の症状で亡くなると発表しているから、その8割がインドということになる。

 トイレのない家庭で、排泄のために外出した子供が連れ去られる事件も起きている。そのため親は用を足す子供に付き添うが、なかには夜中に子供が用足しに行きたくならないよう、食事の量を減らす親もいる。

 年齢のわりに身長が低い子供もいる。

 水・衛生専門の国際NGOウォーターエイドが2016年に発表した報告書によると、インドに住む5歳以下の子供の5人に2人(約4800万人)が発育不良に苦しんでいる。

 赤ちゃんが慢性的な下痢を起こすと、栄養を吸収する能力がうまく機能しなくなる。24カ月を過ぎると回復が難しくなり、低身長につながる。下痢性疾患は、人間の排泄物が飲料水や食品の汚染の原因となって起きるため、トイレが不足しているコミュニティに多い。

トイレがないことや下痢によって子どもの発育不全が起きる(「水がなくなる日」橋本淳司著/産業編集センターより)
トイレがないことや下痢によって子どもの発育不全が起きる(「水がなくなる日」橋本淳司著/産業編集センターより)

 世界保健機関(WHO)によると、下痢は世界で7番目に多い死因で、2012年には150万人の命を奪った。

女性の尊厳が守られていない

 トイレがないために女性の尊厳が守られないこともある。都市の中心から少し離れたところ、農村部などでは男性は「その辺」で用を足す。道端で立ち小便をしたり、ちょっとした物陰で尻を出している光景を見かける。だが、女性はプライバシーを保つ場所がないと用を足すことができない。

 デリーのスラム、サフェーダバスティの共用トイレは、夜10時から朝6時まで施錠される。この地区は本来居住禁止だが、実際には多くの人が住み、600世帯以上がこの共用トイレを日常的に利用している。住民は夜10時から朝6時まで野外で用を足すしかない。

 しかし、女性は我慢し、朝6時前になるとトイレ前に長蛇の列ができている。

 ウッタル・プラデシュ州の農村バハドゥールガルには500メートル以上離れた林まで用足しに行く人たちがいる。2012年には用足しにいった女性が毒ヘビに足をかまれて亡くなったこともあった。

 出かけた女性のあとを男性がついていくこともあり、女性は恥ずかしさと同時に恐怖や怒りを感じている。現地NGOの調査によると、デリーのスラムに住む少女の7割が、野外排泄中に男からひわいな言葉、あざけりの言葉を掛けられ、そのうち半分がもっと深刻な性的ハラスメント被害にあっている。

 前出のデリーのスラム、シャバドデイリーでのこと。2016年1月の早朝、まだ薄暗い空き地の草陰で用を足していた女性に男が襲いかかった。悲鳴に気付いた人が駆けつけると男は逃げ去ったが、それ以降、この女性は必ず近所の友人と用足しに出掛けている。

 2014年5月、ウッタル・プラデシュ州では、トイレのない家に住む10代の少女2人が、夜中に排せつのため外出した際、集団レイプされ、2人の遺体は木につるされた状態で見つかった(殺害か自殺かは不明)。

 このように女性が野外排せつ時に乱暴される事件は各地で起きている。女性の弱みにつけこむ卑劣で愚劣な行為に怒りを覚える。

トイレ普及の前にそびえる「習慣」という大きな壁

 ナレンドラ・モディ首相は2014年に就任すると、8月の独立記念日の演説で「我々は母や姉妹の尊厳を守るために、トイレを整備することもできないのか」と述べ、トイレ普及キャンペーン「クリーン・インディア・ミッション」をスタートさせた。「2019年までに全世帯にトイレを普及させる」ことが目標だったが、達成は難しい。まず設置そのものが遅れているし、作っても、維持管理不足など使えなくなるケースもある。

 「習慣」という大きな壁もそびえ立つ。ユニセフの調査によると、インドでは全人口の半分近くにあたる5億2300万人が野外で用を足す(2015年)。トイレが使えない人が野外排泄するのは仕方のないことだが、家庭や公共施設のトイレが利用できる場合でも、野外排泄する人たちがいる。

 インド北部5州(ビハール、ハリヤナ、マドヤ・プラデシュ、ラジャスタン、ウッタル・プラデシュ)で野外排泄について調査が行なわれた(ニューデリーの経済研究機関RICE/2011年)。調査対象となった3235世帯のうち、トイレのある世帯は43%。このうち「外で用を足すのを好む」と答えた人が1人以上いた世帯の割合は40%を超えた。その理由をたずねると、約75%が「快適」「便利」と答えた。なかには「野外排泄のほうが健康によい」という答えもあった。

 男女の考え方の違いもトイレ普及の妨げになっている。不便さや危険を日常的に感じている女性は家庭内のトイレを望む。

 しかし、男性に話を聞くと「屋外で事足りているのにわざわざトイレに金をかけるのは無駄だ」という人が多い。都市部のスラムでは、トイレがない家にも衛星テレビや携帯電話やスマホはある。

 前述したとおり、トイレ設備を有する世帯は46.9%なので約1億1471万台。

 インドのスマホ出荷量(2018年)は約1億4520万台というから、トイレよりスマホが多い国といえるだろう。

 ある男性は「日々の楽しみのためにテレビは欠かせない。外で用を済ませばタダだ」と言う。

 そしてトイレを設置する意思決定をするのは男性だ。資金や政治力によって状況の改善を図れる立場にいる人のほとんどが男性だ。だからトイレがなかなか増えていかない。

 2016年、国際NGOウォーターエイド・インドのプログラム&ポリシーディレクターであるアビナシュ氏が来日した。アビナシュさんは、「トイレを作るだけでは不十分。作られた後にすべての人がこれを使用するように教育していくことが重要」「予算の使い道を設備だけでなく、トイレの重要性や衛生に関する教育に向けるべき」と強調した。

 トイレを設置する予算として300億ドル(約3兆2400億円)以上が計上されているが、「情報、教育、コミュニケーション」に回されるのは予算全体の8%にとどまっている。アビナシュさんたちの働きかけにより、インド政府も少しずつ動き始めた。デリーの街中には「トイレ使用の習慣こそ真の発展」と子供が笑顔で語りかける看板が並んでいる。

トイレができて人生が変わった少女

 トイレ使用の大切さを集会で訴える学校もある。2015年に男女別のトイレを新設した北部ノイダの公立中学では、授業前の集会で教師が毎朝、感染症防止などのためにトイレ使用や手洗い励行などを説く。

 ウッタル・プラデシュ州にあるマホーバー県に住むサクシちゃんという少女の話。

 サクシちゃんは、家族や友達の暮らしを変えたいという強い目標と決意を持って、「クリーン・インディア・ミッション」を自分の手で実現しようとしている。サクシちゃんは、勉強は好きだが、学校へ行くのは好きではなかった。なぜなら、学校には男女合わせて341人の生徒がいるにもかかわらず、トイレが1つしかないから。トイレ前にはいつも行列ができ、トイレを待つことで授業を受けられないこともあった。

 しかし、ウォーターエイドとH&M財団の支援により、サクシちゃんの学校に、清潔な給水設備と男女別のトイレが建設された。

 サクシちゃんは熱心な友だちと一緒に、「水・衛生隊」というクラブを立ち上げ、石けんを使った手洗いなど、適切な衛生習慣を校内に広める活動を始めた。

 サクシちゃんは、学校にトイレができたことで衛生改善に対するやる気を持つようになり、家の外で用を足さなくて済むように家にもトイレを作ってくれるよう、父親に頼んだが「難しい」という反応だった。

 そこで彼女はトイレ建設費用を集める別の方法を考えた。

 それは自分のお小遣いを貯めてトイレをつくること。彼女の熱意は周囲の大人たちを動かし、数か月後、トイレが完成した。今では、友達もトイレを作るためのポケットマネー貯金を始めた。こうした動きは少しずつ広がっている。

 この地域では、ジェンダーの格差が存在し、女性たちの識字率はけっして高くない。それにもかかわらず、少女たちの活動が、学校や地域にも変化をもたらしコミュニティを変えている。「水・衛生隊」がコミュニティで衛生習慣とトイレについて話しはじめてから、コミュニティの環境は改善されている。

 サクシちゃんの夢は医師になって人々の健康を守ること。

「しっかり勉強すれば、きっと医者になれると思います。お母さんは、女の子が男の子より劣っていないということを証明するべきだと言います」

 トイレにはさまざまな機能がある。衛生と健康を保つ、プライバシーを守る、尊厳を守る、安全を守る。そしてサクシちゃんの話から、少女の夢をかなえる力ももっていると気付いた。

水ジャーナリスト。アクアスフィア・水教育研究所代表

水問題やその解決方法を調査し、情報発信を行う。また、学校、自治体、企業などと連携し、水をテーマにした探究的な学びを行う。社会課題の解決に貢献した書き手として「Yahoo!ニュース個人オーサーアワード2019」受賞。現在、武蔵野大学客員教授、東京財団政策研究所「未来の水ビジョン」プログラム研究主幹、NPO法人地域水道支援センター理事。著書に『水辺のワンダー〜世界を歩いて未来を考えた』(文研出版)、『水道民営化で水はどうなる』(岩波書店)、『67億人の水』(日本経済新聞出版社)、『日本の地下水が危ない』(幻冬舎新書)、『100年後の水を守る〜水ジャーナリストの20年』(文研出版)などがある。

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