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【塀の中の摂食障害】刑罰か治療かの二項対立を越えて~塀の外での支援で新たな人生を歩み始める

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授
塀の外では、万引きの機会がたくさん。そんな中で、どう症状を克服していくか…(写真:アフロ)

 8月某日。東京地裁の法廷に、車いすの女性被告人がいた。見るからに異常なやせ方だ。黒のパンツスーツからのぞく足首は、明らかに私の手首より細い。頬は窪み、頬骨が突き出している。顔に生気がなく、唇にも色がない。口角は下がり、前屈みの姿勢もあいまって、30代初めという実年齢よりはるかに老けて見える。

東京地方裁判所
東京地方裁判所

 万引きで罪に問われるのは4度目だ。最初は書面による略式裁判で罰金刑。初めて正式裁判を受けた時は、懲役に執行猶予がついたが、次には実刑に。その一審判決を不服として控訴し、保釈で自由の身でいる間に、コンビニでおにぎりなど409円相当を万引きし、また捕まった。

 拘置所収監中にどんどんやせて、とうとう命に関わる状態に。救急車で病院に運ばれて、入院。刑務官に車いすを押されて裁判に出廷できる程度には回復したが、摂食障害の症状は依然として重い。

 後日、検察側は懲役1年を求刑した。しかし実刑となっても、彼女の状態では、普通の刑務所での服役は難しいだろう。医療刑務所での専門的な治療も、短い刑期の間に成果を上げるのは容易ではなさそう。かといって、本人が本気で治そうと思い、家族などの支えがない限り、民間の病院での治療はなおさら困難だ。

「どうするのが、彼女のためによいのか……。本当に悩ましい」――弁護人を務める林大悟は、そう溜息をつく。

 確かに、今の彼女には、刑罰と医療のどちらを選択しても、なかなか展望が見いだせそうもない。

 それでも、彼女のような重症者であっても、希望がまったくないわけではない。近年、刑務所の外でも、万引きを繰り返す摂食障害患者を支援する様々な取り組みが始まり、塀の外で新たな人生に向けて歩み出す者もいる。シリーズ最後の今回は、そんな例を紹介したい。(参考:シリーズ1回目の記事2回目の記事3回目の記事

「刑務所から出る時の支援が重要」

摂食障害の被告人の弁護経験豊富な林大悟弁護士
摂食障害の被告人の弁護経験豊富な林大悟弁護士

 弁護士の林は、これまで摂食障害に伴う万引き事件の弁護を数多く引き受けてきた。弁護人として少しでも刑を軽くするための主張はしつつも、本人の人生のためにはどうすべきかを、常に考え、悩み続けてきた。多くのケースでは、裁判の手続を行う間に、保釈中の被告人を医療につなげ、裁判所にも刑罰より治療を優先するよう訴える。

 最近は、審理の期間を十分とり、治療の効果を見たうえで判断をするなど、摂食障害が背景にある事件の特異性に理解を示す裁判官も少しずつ増えている、という。

「被告人は病識がない場合が多く、意思の力で何とかなると思っている。医療機関に入院して数ヶ月して、ようやく『それはできない』ということを認める。時間がかかるんです。本人だけでなく、家族を含めたサポートが必要

 そんな思いから、支援組織「アミティ」(一般社団法人)を立ち上げた。当事者の自助グループや家族会などの活動を展開し、法的支援と医療の連携を目指す。

 刑事訴追されると、それまで医療を拒否していた人も、刑務所に行きたくない一心で治療を受け入れる。しかし、こうした刑罰の威嚇効果は、いざ服役してしまうと薄らぎ、放置すれば治療への意欲がしぼんでしまう、という。

「服役前に、『仮釈放になったら必ず治療しようね』と約束しても、なかなか守らない。服役したことで、自分は責任をとった、という気になり、外に出れば解放感で気持ちがリセットされてしまう。だから、刑務所から出てくる時の出口支援が重要なんです」

 服役中も、手紙や面会を通して治療への意欲を継続させるよう働き掛け、出所後の支援にスムーズにつなげる。

万引き、そして「体を売る」日々

 そんな支援を受けて、新たな人生を歩み出した人もいる。

 その1人、上川奈菜(33)=仮名=は一昨年春、札幌刑務支所を出た。その後紆余曲折を経て、今は関西で暮らす。子リスのように愛らしい顔立ちと健康そうな肌、そして元気いっぱいの声。こうした外見からは痕跡を見てとることはできないが、実は摂食障害に苦しむ壮絶な日々を長く送ってきた。

今の奈菜は、こういうシンプルな出で立ちが一番楽だという
今の奈菜は、こういうシンプルな出で立ちが一番楽だという

 仲が悪かった両親は離婚し、兄と共に母親の元で育った。発症したのは高校生だった17歳の時。おしゃれが大好きな女の子だったが、自分の容姿にコンプレックスを抱いていた。他人と比べ、自分の短所ばかりが気になって仕方がない。自分のすべてに自信がなかった。クラスの女子が作っているグループにも入れない。そうすると、昼食は1人で食べなければならない。それが恥ずかしくて、トイレの個室の中でこっそり食べた。

 悶々とする気持ちを、食べ物で紛らわせた。でも、太りたくない。大量に食べてはすぐに水を大量に飲んで吐くようになった。いつしか、頭は食べ物のことでいっぱいに。家の冷蔵庫にある食べ物は食べ尽くし、アルバイトのお金は、すべてコンビニでの買い物につぎ込んだ。それでも足りなくて、万引きが始まった。

 いくら食べても吐くので太らない。むしろやせていった。周りから「やせの大食い」と言われると、うれしかった。

「当時は、好きなものを好きなだけ食べながら楽にやせられる能力を手に入れた、ぐらいの気持ちだった」

 近くのスーパーでお総菜を万引きして、捕まった。迎えに来てくれた兄は、「親に迷惑をかけるな」とだけ言った。

 この時点で、なぜそんな行為に走るのかを気に掛ける者がいたら、その後の展開は違っていたかもしれない。しかし、奈菜の周りにそういう大人はいなかった。

「万引きさえしなければいいんでしょ?」――開き直った奈菜は、お金を稼ぐことにした。当時、出会い系サイトが流行し始めていた。

「1日何人もハシゴして、日に3~4万円稼いだけど、それがブランド品じゃなく、全部食べ物に消えていく。体を売ってる罪悪感もあって、『私は何をやってるんだろう』と思った。『お金がもったいない』という気持ちにもなって、すごくお金に執着するようになったの」

 そのうち、「パパさん(愛人)」ができ、高級マンションの一室をあてがわれ、月々の手当を渡されるようになった。

「本当は体を売りたくなんかない。『そういう嫌なことをやってるんだから、これくらいいいや』と食べては吐く自分を正当化してた」

 常に、食べることしか頭になかった。朝起きて、まず考えるのは「今日は何を食べよう」ということ。たまに友だちと遊園地に行っても、頭の中は「早くご飯食べたい」しかない。昼食後は「早くトイレに行って吐かなきゃ」となって、遊ぶどころではなかった。ボーイフレンドができてデートをしても、内心「早く家に帰って食べたいのに、なんでちんたらデートしてなくちゃいけないんだろ」と思っていた。

 今の奈菜は、当時の自分を客観的に語ることができる。

食べることに支配されていた。どんどん性格も悪くなり、友だちができない。だから閉じこもる。ますます食べることしか考えない。この悪循環を断ち切ろうと外に出ると、万引きに走る。食べ物だけじゃなく、化粧品とか、様々なモノを盗っていました。体を売るという嫌なことをしてるのに、お金がすべて食べ物に消えてしまうのを、モノを盗ることでチャラにしようと、やはり自分の中で正当化してました」

SNS上で満たされた生活をしていると見栄を張る

 Facebookを始めた。ネット上だけでも、いい格好がしたかった。ブランド物の靴や花を飾った室内の写真を撮ってはアップした。

「そうすると、ますます物欲が上がって、『あれも欲しい、これも欲しい』という状態になった。商品だけでなく、デパートのディスプレイなども盗って、部屋に飾り、『こんな満たされた生活をしています』みたいに装っていた。実際には食べ吐きを続けるひどい毎日。本当に、自分をコントロールできない状態でした」

 朝になると空の大きなトートバッグを持って出掛け、都内のデパートやスーパーを周って、バッグがパンパンになるまで万引きする。ブランド品や化粧品などのほか、鍋やフライパンまで盗った。夜になって店が閉まるのが悲しくて仕方がなく、泣いたこともある。

 何度も店員や警備員に見つかったが、最初は謝ればその場で解放された。その次は交番に連れていかれ、さらには警察署での取り調べも受けた。しまいにとうとう、逮捕された。

「これは病気」と聞いて

 判決は、懲役1年6月執行猶予3年。しかし、症状は収まらない。ある時、知人と静岡・御殿場のアウトレットに出かけた。この時は万引きはしないよう、用心して小さなバッグにした。そこで8万円のコートを買った。店は、大きな袋に商品を入れてくれた。その大きな袋を手にしたとたん、心の中でスイッチが入ってしまった。

「8万円もお金を使ってしまった。取り返さなきゃ」――そんな気持ちに駆り立てられて、帽子とバッグを万引きした。

御殿場のアウトレット
御殿場のアウトレット

 店の人が追いかけてきて、荷物を改められ、警察に突き出された。留置場の中で、謝罪文を書いた。だが、その時の本当の気持ちを、奈菜はこう語る。

「頭では悪いことと分かっていても、本当にごめんさいという気持ちになれない。『人を刺したわけでもないし』とか思っていて、自分が加害者であるという気持ちになれなかった」

 この時、面会に来てくれた弁護士が、奈菜の状況を聞いて「これは病気だよ」と言った。その言葉を聞いて、「パーッと日が差してくるような気分だった」。

「病気だから許されるんじゃないかというずるい気持ちもないわけじゃなかったけど、それ以上に、病気なら治療すれば治るだろうし、自分の苦しさを話してもいいんだ、と希望が湧いた」

 保釈後、クレプトマニア(窃盗症)の治療で有名な病院に入院した。そこには、同じような症状の人がたくさんいた。自分だけじゃないと思うとうれしかった。

 しかし、症状は好転しなかった。しかも、裁判が終わると病院との関係は切れた。判決は、懲役1年2月の実刑。控訴して争ったが、結論は変わらなかった。判決は確定。裁判中は保釈されていたが、検察庁から呼び出しがあった時点で、収監されることになる。

収監を待つ間に……

 呼び出しは、今日か、明日か……。月曜日になると、「今週こそ収監されるのでは」との恐怖にかられ、金曜日の夜になると、「土日の呼び出しはないだろう」とホッとする。そんな状態が、半年も続いた。女子刑務所が過剰収容状態だったこともあり、収監に時間がかかったのかもしれないが、服役が始まらないことには、その終わりも見えない。何の見通しも知らされないまま、宙ぶらりんの状態が続くのは苦しかった。

 仕事もできず、有り金は減っていく。不安が膨らみ、ストレスはたまる。それから逃れようと、飲めない酒を飲み、またもや万引きをやって捕まった。

 拘置所に移されると、すでに確定していた懲役1年2か月の刑の執行が始まった。新たな事件の裁判を待つ被告人の立場でありながら、受刑者でもあった。未決の被告人は、拘置所の売店でお菓子や雑誌などを買うこともできるが、奈菜の場合は既決囚の扱いで、食事は決められた3食のみ。

 もっと食べたいのに食べられない。それに耐えられず、出された食事を平らげた後、すぐにそれをお椀にはき出し、飲み干した。ティッシュペーパーまで食べた。

諦めたくない、という気持ちが芽生える

 精神状態が不安定になり、パジャマのズボンを使って首つり自殺を図った。意識を失ったが、発見が早く助かった。意識を取り戻した時、最初に聞こえたのは「死なせるか、コラァ!」と怒鳴る刑務官の声だった。自殺まで図ったのだから、少しは同情してもらえて待遇がよくなると思いきや、逆に懲罰が科されてシュンとなった。

 だが、このどん底体験は、一つの転機にもなった。

 居室内での刑務作業が課されていたとはいえ、拘置所内ではたっぷり時間があった。

「ヒマだったから四六時中考えてました。自分はどうしたいんだろうって。この時は、『治る』ってどういうことか分からなかったけど、諦めたくない、という気持ちがだんだん芽生えてきた。病気を治さないと、万引きもやめることができないということが分かってきたので」

 裁判は、一審が懲役2年2月。弁護人となった林が、すぐに収監せずに新たな犯行を招いた当局にも責任の一端はあると主張してくれて、控訴審で懲役の期間が1年6月に短縮された。すでに決まっている刑と合わせれば2年8月になるが、服役のゴールが決まったことに、奈菜は少しホッとした。

刑務所で「私もやればできる」体験

札幌刑務所・同刑務支所の入り口*
札幌刑務所・同刑務支所の入り口*

 札幌刑務支所での服役が決まった。そこには、自分と同じような窃盗犯ばかりでなく、覚せい剤や殺人など、様々な罪名の受刑者がいた。

「ああいう所に行くと、誰も私のことを『かわいそう』なんて思ってくれない。みじめだし、ご飯も好きに食べられない。でも、だからこそ腹をくくることができた」

 雑居房では、他の受刑者の目もある。泣きながら吐きたいのをこらえた。

 刑務官から「被害者のことを考えなさい」と言われても、最初はピンとこなかった。実感はなくても、とにかく「私は加害者なんだ」と自分に言い聞かせた。そういう性格の素直さが、奈菜の受刑生活を前向きなものにしたのかもしれない。

 がんばっていれば、刑務官は努力を認めてくれた。そのうち、刑務作業の班長を任され、その証の腕章を腕に巻くことが認められた。

「うれしかった。私でもやればできるじゃない、って」

札幌刑務支所では成績がよく能力のある受刑者が刑務作業の班長と認められ各係の腕章を巻く**
札幌刑務支所では成績がよく能力のある受刑者が刑務作業の班長と認められ各係の腕章を巻く**

諦めずに支え続ける人がいて

 そんな奈菜をずっと支えていたのが、アミティ関西支部代表で社会福祉士の中村雅美だった。中村は、裁判の段階から、奈菜をサポートしていた。自殺未遂を図った時は、兵庫県に住む中村が、車を飛ばして埼玉県内の拘置所までかけつけた。刑務所に行く前には面会して「待ってるから」と励ました。服役中には、頻繁に手紙を書き、面会にも行った。わざわざ札幌まで来てくれたことに、奈菜は飛び上がるほどうれしかった、という。

最大の理解者「マサさん」こと中村雅美と話す奈菜(右)
最大の理解者「マサさん」こと中村雅美と話す奈菜(右)

 奈菜は服役態度が評価され、刑期を9か月残して仮釈放となった。外に出て、まずはお寿司とアイスクリームをほおばり、胸がいっぱいになった。しかし、その後も波乱は続く。

 その一因は、母との葛藤である。幼い頃から、母には「あんたは(別れた)父親に似ている」と疎まれることが多かった。それでも奈菜は母親が大好きで、なんとか気に入られようと、顔色をうかがいながら子ども時代を過ごした。

 体を売っていることは、秘密にしていた。だが、最初の裁判に母親が弁護側証人として出廷した際、裁判官が「親は知らなかったのか」と問いただしたために、分かってしまった。叱られる、と思ったのに、母親はただ「やるならバレないようにやりなさい」と言うだけだった。奈菜がレイプ被害に遭った時にも、母は相手側からいくら賠償金を引き出すかだけに関心があるように思えた。問題が起きるたびに、奈菜は母との間に深い溝を感じ、苦しんだ。

 その母との同居が、仮釈放の条件だった。奈菜は、母と顔をつきあわせての生活に耐えられず、家を飛び出した。母は保護観察所に通報。このままでは、仮釈放が取り消されてしまう。中村が救いの手をさしのべ、奈菜を関西の精神科に入院させた。院長は、薬物などの依存症の治療実績が豊富で、その治療法を応用して摂食障害治療にも取り組んでいる病院だった。

 入院期間中も、中村は奈菜の相談相手になり続けた。中村と話をする中で、奈菜は気持ちを整理し、自分の摂食障害の背景には、母との葛藤があり、その関係を整理することが必要だと知った。

 1年2か月の入院を経て退院。1人暮らしを始めたが、2か月もしないうちに、安定剤を大目に飲んで朦朧とし、その状態でホームセンター行って、調理器具などを万引きする事件を起こす。中村は、一瞬裏切られた気持ちになったが、それでも警察に飛んで行き、必死で事情を説明した。再入院する条件で放免してもらうことができ、その後3か月の入院生活を送った。

「奈菜は、一人でいると弱さが出てしまう」と中村。

回復は薄紙をはいでいくように

彼にもらったエンゲージリングを、うれしそうに見せてくれた
彼にもらったエンゲージリングを、うれしそうに見せてくれた

 そんな奈菜に、恋人ができた。同じ病院で、薬物中毒を治療していた若者だった。中村は、最初は心配したが、退院後に仕事を得て、ひたむきに生きる彼の姿を見て、「彼なら大丈夫」と信頼した。

 彼の実家を訪ねた時、奈菜は笑顔で迎えられた。彼の両親は「こんないい子が嫁に来てくれるなんて」と喜んでくれた。

 奈菜は彼が暮らす団地の一室に移り住み、一緒に生活を始めた。今月になって、入籍。今のところ、万引きの衝動は収まっている。

「いつからピタっとなくなった、というわけではなく、いつの間にか盗りたい衝動が薄らいでいった。まだ、(心の底には)あるのかもしれないけれど、今は私の中で、優先順位がずっと下になっている。朝起きて、掃除や洗濯をして、ご飯を作って、彼と一緒に食べて……そんなたわいもないことが、すごく大事で、忙しいから

 床はフローリングのマンションで、モノに囲まれていた、かつての生活とは比べものにならない、質素な生活。果たして自分がそれに適合できるか、奈菜も最初は心配だった。けれど、畳敷きの団地生活にもまもなく慣れた。

前は、着飾ったり高級品に囲まれていないと不安だったけど、今は着飾らなくてもいいし、それが楽なの。今は、なんであんなに背伸びしていいかっこしてたんだろう、と思う。ただ、今でも自分が『治った』とは思っていない。(いい状態が)継続しているだけ

 ごくたまに、食べ過ぎて吐いてしまうことはある。でも、それが続くことはなく、いちいち気に病まないようにしている。

摂食障害学会副理事長の鈴木眞理医師
摂食障害学会副理事長の鈴木眞理医師

 摂食障害の治療の経験豊富な医師の鈴木眞理(政策研究大学院大学教授)も、「たまに、そういうことがあっても気にすることはありませんよ」と言う。

「何度も二日酔いで苦しい思いをしたのに、また飲み過ぎてしまったりするおじさんもいるじゃないですか。何も完璧を期さなくても大丈夫」

緩慢な自殺と社会への抵抗としての摂食障害

 その鈴木が担当している患者の中にも、やはり万引きで逮捕され、その後社会復帰の道を歩み始めている女性がいる。

 山下百合(32)=仮名=。ダイエットに夢中になっていた高校時代に、「足が細くなったね」と言われ、「もっと細くなりたい」と思ったのが、発症のきっかけ。一日何度も体重計に乗り、家で夕飯を食べない口実を作るために、夜にアルバイトをした。無理な食事制限から、そのうち過食嘔吐に転じた。食べ物のことばかり考え、大学は栄養学科に進んだ。栄養学を学びつつ、自身はパンやお菓子を炭酸水と共に大量摂取しては、はき出す毎日。体はどんどんやせた。やせすぎの体型が嫌われ、就職活動は全滅した。

 もう何もかもがイヤで、死にたかった。自殺する度胸はなかったが、やせが高じてそのまま息絶えられればよい、と思っていた。百合にとって過食嘔吐は、緩やかに死に至る手法であり、自分を排除する社会への抵抗でもあったようだ。

 万引きが始まったのは、高校2年の時。何度か捕まったが、親を呼び出され、それで終わった。まさか、万引きで警察に逮捕されるとは考えてもみなかった。

 しかし、回を重ねるうちに、警察署での取り調べを受けるようになり、3回目には逮捕されて留置場に入れられた。出された食事を食べず、夜中に低血糖で倒れて、救急車で病院に運ばれた。医師が、「この体で勾留は無理」と言ったので、釈放された。その後、両親が鈴木が勤務する病院に無理やり百合を連れてきた。体重はわずか23キロだった。

「眞理先生」と呼ぶ鈴木に近況を報告する百合
「眞理先生」と呼ぶ鈴木に近況を報告する百合

 緊張している百合に、鈴木は穏やかに語りかけた。

「食べるのが怖いんでしょう?怖かったら言ってね」

 それまでは、「なぜ食べないんだ」「食べなきゃダメじゃないか」と難詰されることが多かった百合は、鈴木のやさしい言葉に少し安心した。

「まずは、体重を28キロにしましょうよ」

 百合も、「それくらいならいいか」と妥協し、1か月半ほど入院。毎日決まった時間に、決まったカロリーの食事が出る入院生活は、気持ちが楽だったと百合は言う。しかし退院後、やはり万引きで2回捕まった。昨年7月には30万円の罰金刑を受けた。

普通の生活がすごく大切に

 ただ、この後百合には変化があった。まだまだやせているとはいえ、体重が30キロ台半ばまで回復し、老人ホームで栄養士として仕事に就けたのだ。今はまだアルバイトだが、契約社員への道も開けてきた。

「同級生は次々に就職や結婚していく中、自分だけが取り残されていると思って、自分を取り残していく社会が嫌いだった。だから、社会のルールを守れと言われても、内心『だから何?』という気持ちだった。

 でも、仕事が決まって、職場のみんなも優しくしてくれると、『私って、結構ついてる』と思えてきた。今の仕事をやめたくない。自分の居場所がなくなるのは困る、という思いが出て来た。普通に生活できていることが、すごく大切に思えるんです」

 過食嘔吐は完全には治まってはいないが、表情は豊かで、万引きの衝動が起きないよう、1人でお店には入らないように気をつけている。

治療か刑罰かの二項対立でなく

 奈菜も百合も、一直線に快方に向かうのではなく、何度も失敗しながら、支援者や医師、周囲の人たちとの関係を築きつつ、社会の中での生活の足場を作ろうとしている。

 摂食障害に起因する万引き犯の処遇に関しては、しばしば「治療か刑罰か」という二項対立で語られがちだが、2人の話を聞くと、必ずしもそれは的を射てないように思う。

 奈菜は、刑務所での生活について、こう語る。

「私には、あの環境が必要だった。入った時は惨めな気持ちになったけど、あそこにいたからこそ分かったこともあった」

 百合は、服役体験はないが、罰金刑という刑罰を受けたことが、とてもショックだった。入国の審査が厳しいアメリカなどには、旅行にも行けないのではないか、と思った。その衝撃が、本気で自分を変えることを考える転機にもなったようだ。

 ただ、刑務所での体験や刑罰だけで、摂食障害やそれに起因する万引きを解決することはできない。たとえば奈菜の場合、中村や医療関係者、病院で知り合った同じ摂食障害の仲間、そして配偶者となった男性やその家族……いろんな人との関係の中で、彼女は少しずつそれまでとは別の道へと歩み出した。当時は治療効果が見られなかった病院も、厳しい刑務所での体験も含めて、すべてが彼女の肥やしになったのではないか。

 また、家族の協力は大切だが、当人を支えるのは、家族とは限らない。奈菜の場合は、失敗しても諦めずに忍耐強く伴走してくれる中村の存在が大きかった。

生き方は変えられる

 「自分のことをこんな風に人に話せる日が来るとは思わなかった」という奈菜。ここまでの道のりを振り返ってこう語る。

「性格は変わらないけど、生き方はいくらでも変えられる。だけど、それは1人じゃ無理だし、考えられるようになるには時間がかかる。前は自分のことがイヤで、顔も大嫌いだったけど、心が豊かになると、私のことを『かわいい』って言ってくれる人もいるのね。みんな、(過食嘔吐やそれに伴う万引きを)やめられないんじゃなくて、やめ方を知らないんじゃないかな

 「やめ方」に一定のマニュアルがあるわけではない。おそらくは百人百様だが、様々な人との関わりの中でしか見つからないだろう。様々な出会いや関わりの中で、「普通の生活」が愛おしく思え、社会の中で過ごす幸せを感じた時に、初めてその形がはっきりと見えてくるのではないか。

 ただ、この問題については、一部の人たちが善意で奮闘しているだけで、救われている人も限られている。

 課題は少なくない。第一に、社会の側に、この問題に取り組む医療者が増えて欲しい。それに、刑務所と社会の医療は、もう少し連携できないものだろうか。たとえば受刑者に対して、外部の専門医がじっくり治療に当ったり、あるいは出所後も信頼関係を築いた医療刑務所の医師やスタッフに相談できることができれば、もっと多くの人が救われるのではないか。

 刑務所を出た後の支援も、もう少し考えたい。出所前から社会に復帰するまでの中間的な施設があり、様々なサポートを受けながら自分自身のことをゆっくり考える機会があったらどうだろう。そうした支援は、摂食障害を患う本人や家族のためだけでなく、万引き被害に悩む商店のためにもなり、万引き事案を処理する捜査や司法など、様々な社会的資源の節約にもつながる。そのための公的支援があってもいい。

 まずは現場の状況を踏まえ、医療、福祉、捜査、司法、矯正に携わる人たちが横断的に連携し、何をどうするべきかをしっかり検討してもらいたい。

(敬称略)

写真*  殿村誠士 

写真** 清作左

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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