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追悼シェイン・マガウアン、誰からも愛されたアイリッシュ・パンクの「酔いどれ」聖人が天上の星に

18年1月、親友ジョニー・デップらとともに。60歳の誕生日に(本文参照)(写真:Splash/アフロ)

訃報に世界がどよめいた

日本時間の昨夜21時過ぎ、彼の訃報が世界を駆け巡った。ザ・ポーグスのフロントマンとして知られるシンガー・ソングライター、シェイン・マガウアンが死去した。自宅にて、家族に見守られながらの他界だった。現地時間、2023年11月30日午前3時。享年65。英ケント州にアイルランド系両親のもとに生まれた彼は、1982年に結成したザ・ポーグスが成功。アイルランド民謡とパンク・ロックをミックスした、いわゆる「アイリッシュ・パンク(ケルティック・パンク)」の先駆者として、音楽ファンはもちろん、社会的に広く認知され愛される、一種の文化的アイコンと呼ぶべき存在となっていた。ゆえに衝撃と巨大な喪失感が、世を襲った。

しかしシェインの熱心なファンにとっては、ショックではあったが、青天の霹靂ではなかった。近年の彼は体調を崩していることが多かったのだが、なかでも今年は、とくに悪かった。妻のヴィクトリア・メアリー・クラークが、SNSを通じて、入院中のシェインの画像を公開していて、ファンは逐次その状況を知ることができた。病衣を着て、ベッドの上で弱々しく微笑んでいるような姿だ。普通なら深刻なはずの絵面なのだが、しかしそんな画像を見るたびにファンは、「まだ大丈夫だ」と逆に心を落ち着かせていた。鼻にはチューブが付いているような状態だったのだが、彼のその「弱い微笑み」は、かなり以前からの「シェインらしい」表情でもあったからだ。

だから現地時間11月22日の退院の報には、ひとまず胸を撫で下ろした人も少なくなかった。SNSの画像では、シェインはひどく痩せてはいるものの、大きなボンボンが付いた黒いニットキャップをかぶって、やはり微笑んでいた。しかし「自宅に戻る」という彼の決断に、一抹の不安を抱いた人もいた。その予感は現実となった。

満身創痍の「聖人」こそがシェインだった

近年のシェインは、怪我や病魔との戦いが続いていた。2015年には転倒により骨盤を骨折、20年には膝を骨折して靭帯を断裂。そこからは車椅子生活となった。22年には脳炎で入院。そして今年、23年の6月からは感染症によってダブリンのセント・ヴィンセンツ・ユニヴァーシティ病院に入院、治療を続けていた。

彼の健康を損なっていた大きな原因と見なされていたのが、過度の飲酒癖だった。本人いわく「アイルランドにて、5歳のときから酒タバコ競馬に親しんでいた」そうなので、かなり年季の入った「酔っ払い」だったのだ。この悪癖ゆえ、彼は91年に一度ザ・ポーグスから解雇されている。しかし結局は、2001年に呼び戻されてバンドは再結成。14年の解散までフロントに立ち続けた。なぜ放逐されたのに「また呼ばれた」のかというと、彼こそが、シェインこそが「魂」だったからだ。ザ・ポーグスの、そして地球上すべての「アイルランド人のような」歌心に、詩情に強く打たれる人々にとっての——。

昨年の6月、僕はひとつの記事を書いた。『「生きててありがとう」稀代のパンク詩人の記録『シェイン』は、酔い醒めなしのロックンロールおとぎ話だ』と題したそれは、彼の人生を題材とした、愛情いっぱいのドキュメンタリー映画『シェイン 世界が愛する厄介者のうた(原題:Crock of Gold - A Few Rounds with Shane MacGowan)』の日本公開に合わせてのものだった。「生きててありがとう」と、本当にいつもいつも、ファンならば思うような人物こそが、彼だった。こちらの原稿も、ぜひご覧いただきたい。

音楽に込めた「他者への無限の愛」

シェインの歌は、アイルランド民謡に根ざしている部分が大きい。そこが人々の心をとらえた。村祭りの酔っ払い大騒ぎを描写どころか体現するかのような爆裂チューンもあれば、ペーソスに彩られたバラッドもあった。前者の代表作が、ポーグスの「堕ちた天使(If I Shold Fall from Grace with God)」、後者が同「ニューヨークの夢(Fairytale of New York)」だった。とくに後者、日本人にとっては、まるで演歌みたいに思える「男女の掛け合い」すらあった。まるでヒロシ&キーボーの「3年目の浮気」みたいな。村祭りに演歌だから、日本人にも受けないわけがない。いや「世界中のありとあらゆる」文化圏にあるはずの、同種の感興へと直結できる稀有なる才能がシェインにはあった。「ニューヨークの夢」でシェインの相手方を務めたのはカースティ・マッコールだった。一足先に、彼女は2000年に事故により他界していた。

シェインという人物の最大特徴を、僕は「他者への無限大の愛」だととらえている。いつもいつも、どんなときでも彼は、愛の人だった。愛があふれ、ただそれだけのことでみんな「のほほん」としていられるような桃源郷をいつも夢見ているような人ではなかったか。そんな彼の心根を、音楽が解き放っていった。だから彼の歌に触れた人は、ほぼ例外なく、癒された。慰められた。まるで聖人の手に触れたときのように。しかし彼は、なんともやるせないことに、「自分にだけは」優しくなかったのかもしれない。いやあるいは、とくにアイルランド人の上に降りかかり続けた、凄惨なる運命の歴史を、我々凡人よりも幾万倍も敏感に「感知し続けていた」からこそ、それら苦難すべてを引き受けるかのようにして、いつもいつも「必要以上に」痛飲していた、のかもしれない。彼について僕は、いつもそんなことを考えていた。

シェイン・マガウアンの死去に際して、アイルランドのマイケル・D・ヒギンズ大統領が長文の追悼声明を発表している。2018年1月、60歳の誕生日を迎えたシェインに生涯厚労賞を授与したのも彼だった。ヒギンズ大統領は追悼文のなかで、シェインに賞を贈ったことを「光栄なことだった」と振り返っている。

僕らにとっても、それは同様だ。シェインの存在を知り、彼が地上に居続けたあいだ、ともに時間のなかを旅してきた記憶を、これ以上ないほど、光栄なことだとして胸に留めていたい。「人気の高いミュージシャン」を超えて、シェインはいわゆる「民衆の英雄(Folk Hero)」の地位にまで昇り詰めていたのだから。酒ばっかり飲んでいたパンク野郎が、真実一路、「魂が命ずるままの」歌をうたい続けていたお陰で、そんな場所にまで。

そして彼はちょっと早めに空へと上ってしまったのだが、すぐにまた還ってくることを、僕らはよく知っている。今年もまた、シェインの誕生日でもあるクリスマスには、世界中で「クリスマスの夢」が聴かれることだろう。そして「なにかあると」いつでも彼の、無二の愛らしいダミ声を、人々は飽きずに再生し続けるはずだ。人のなかに宿り得る「聖なる愛を」欲する人ならば、地球上の誰であろうとも。

シェイン・マガウアン、本当にありがとうございました。いまからはもう、なにも気にせずに、心いっぱい「うまい酒」を飲んで、我々の到着をお待ちください。安らかに……。

作家。小説執筆および米英のポップ/ロック音楽に連動する文化やライフスタイルを研究。近著に長篇小説『素浪人刑事 東京のふたつの城』、音楽書『教養としてのパンク・ロック』など。88年、ロック雑誌〈ロッキング・オン〉にてデビュー。93年、インディー・マガジン〈米国音楽〉を創刊。レコード・プロデュース作品も多数。2010年より、ビームスが発行する文芸誌〈インザシティ〉に参加。そのほかの著書に長篇小説『東京フールズゴールド』、『僕と魚のブルーズ 評伝フィッシュマンズ』、教養シリーズ『ロック名盤ベスト100』『名曲ベスト100』、『日本のロック名盤ベスト100』など。

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