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日本最速体験、 映画『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』の「とてつもなさ」とは?

11月8日、TOHOシネマズ日比谷、日本初上映の終了直後のスクリーンを筆者が撮影

マルコヴィッチならぬ、ボウイの「穴」

とてつもない、映画体験だった。『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』は、並のドキュメンタリー映画ではない。狙いに狙った、一大スペクタクル巨編となっているのだ。たったひとりの「音楽アーティスト」のキャリアを追ったものであるにもかかわらず——。

本作を観ているあいだじゅう、僕の頭の片隅に去来していたのは、スパイク・ジョーンズ監督の『マルコヴィッチの穴』(99年)だった。アカデミー賞候補にもなった、あの怪作コメディだ。とあるビルの、変な「穴」に入っていくと、怪優ジョン・マルコヴィッチの「頭のなか」に15分間だけ入ってしまえる――という同作のストーリーを、僕は反芻していた。あの映画同様に、ああ俺はいま「ボウイの穴」のなかにいる、彼の「頭のなか」にあった大きな大きな「小宇宙」を漂っているのだぁぁぁ……などと。もっとも自分の脳の大部分では、つねに映像と音の洪水にただただ圧倒されていて、そして生物的にはおもに、落涙していたのだが。とにかく、泣けた。

すでにかなり多くの「ドキュメンタリー」映像作品が存在するデヴィッド・ボウイにして、本作は初の「遺族公認」となる一作だ。生前のボウイが溜め込んでいた、映像や写真、音声、ペインティング、メモなどの500万件におよぶアーカイヴへのアクセスを許可されたブレット・モーゲン監督が「渾身の」と言っていい力技でこね上げた。彼は脚本執筆時に心臓が停止して、文字通り3分間死んだのちに蘇生したのだという。まさに「生命を賭して」挑んだ作品だったのかもしれない。その甲斐あって、今年9月に公開された「日本以外」の世界各国では、大絶賛と言っていい熱い評価に迎えられている。

しかしここ日本では「公開は来年3月」とアナウンスされたため、同国内のボウイ・ファンが多く怨嗟の声を上げた。「同時公開しないの?!」と。なぜならば、すでにネットで公開されていたティーザー予告編やトレーラー本編が「あまりにも素晴らしかった」からだ。ひとことで言って「ケレン」にまみれていた。つまりボウイ本人がいたく傾倒し研究もしていたという、日本の歌舞伎由来のケレンが、彼のステージ・パフォーマンスにはいつも横溢していたのだが、まるでその呼気を吸い込んで、いまの世に解き放ったかのような!――そんな内容が期待できるものだったからだ。こちらが、それらの映像だ。

圧倒的な映像と「ロックンロール大芝居」を体験

と、そんな本作を、僕は幸運にも、一般公開に先んじて観ることができた。ふたつの映画祭にて、それぞれ一度ずつ上映されたのだが、その機会をとらえ、チケットをネットで予約購入して、鑑賞したのだ。まずひとつめは、皆既月食の真っ最中の11月8日夕刻より、TOHOシネマズ日比谷、IMAXレーザー上映のスクリーン4にて。これは「IMAX映画祭 in 日比谷」の一部としての上映だった。もうひとつは、11月10日午後9時前、レイトショウの時刻より、渋谷のシネクイントにて。こちらは「PARCO音楽映画祭」の上映作品としてのもの。このふたつを、僕は観た。両上映ともにほぼ満席だったのだが、どちらも映画祭の開催が決まったずっとあとになって「追加上映」としてアナウンスされたものであり、告知期間も短かった。だから本作を観るべきボウイ・ファンのあまねく全員が、この先行上映情報に接したわけではなかったと思われる。ゆえに来春の一般公開よりはかなり早いものの、一足先に観た者の立場から、同作の見どころなどをここにご紹介しておきたい。

まず端的に言えるのは「ボウイ・ファンなら、これを観なければならない」ということ。また、まったく逆に「ボウイの音楽や人となりに、まったく知識のない人」にも、意外と向いているかもしれない。人生における「ボウイ体験」の、最初の入り口を本作としても、いいかもしれない。あるいは、こうも言える。「これを観て、なにも感じなかった」人は、ボウイどころか、ロックを一生必要としない人なのかも――と。そこまで言い切ってもいいと思えるほどの「踏み込んだ」映画が本作なのだ。正真正銘、ロックに、ボウイの音楽に「やられてしまった」人が作った、「やられてしまった」人向けの作品だということだ。

監督自ら、ボウイ楽曲をリミックス/エディットしまくり!

監督のブレット・モーゲンは、ユニークなドキュメンタリー映画作品で知られる人物だ。ニルヴァーナのフロントマン、カート・コベインに材をとった『モンタージュ・オブ・ヘック』(15年)が音楽ファンには知られているが、伝説的な映画プロデューサー(『ゴッドファーザー』など)のロバート・エヴァンスを描いた『くたばれ! ハリウッド』(02年)の共同監督などでも有名だ。同作はカンヌ映画祭特別出品作だったのだが、なんと今回の『ムーンエイジ・デイドリーム』も、カンヌにて世界プレミア上映された。こうした点からも、本作が「一般的な音楽ドキュメンタリー映画」の範疇を超えていることが見てとれる。

そんな本作は、モーゲン監督が製作と脚本、編集をつとめている。さらに言えば「楽曲のリミックスやマッシュアップ」も彼が担当している。ボウイ名作の数々を手がけた音楽プロデューサーであるトニー・ヴィスコンティの手を借りつつ。これはどういうことなのか?——というと、ファンならよく知るあの曲やこの曲が「本作のために」新たにミックスされているわけだ。監督自らが、サントラの楽曲をリミックスしているのだ! 一曲のなかでのトラックの抜き差しだけではない。今日的に言うと「マッシュアップ」、むかしふうに言うと「メガミックス」的に、あの曲とこの曲を「混ぜて」いるパターンもある。たとえばボウイの生涯最大のヒット・アルバムである『レッツ・ダンス』(83年)のオープニング・ナンバーだった「モダン・ラヴ」を、映画監督がこんなふうに「変える」なんて、いったい誰が想像したことか。だから僕は最初にYouTubeでこのクリップを観て・聴いたとき、あまりの「かっこよさ」にぶっ飛んだ! 

いやはやどこの世界に「ドキュメンタリー映画のために」対象アーティストの楽曲を次から次に「大胆に」俺流リミックスしてしまう監督がいるのか? しかしこれが、もちろん「狙いあってのこと」だという仕掛けが、映画のなかで明らかとなる。たとえばリミックス版「モダン・ラヴ」のように、楽器や歌がばっさり切り落とされているところには、フッテージ内の自然音が入ったり、あるいは「ボウイの語り」が乗っかったりする作りとなっている――のだが、この「語り」がクセモノなのだ。いやまったく、本当によく「ボウイが語っている」。冒頭から、その最後の最後まで! つまりここがひとつ、本作がマルコヴィッチならぬ「ボウイの穴」だと僕が思うゆえんでもある。

あのボウイが「ここまで語った」モノローグ

ボウイが一種の「記録魔」というか「アーカイヴ魔」、あるいは「物持ちがよすぎる人」であることは、彼自身の企画による回顧展『DAVID BOWIE is』(13年より世界各地を巡回。日本では17年初頭より4月まで開催)にて、すでに明らかとなっていた。各時代の衣装や楽器、メモや写真そのほか「これでもか」と並べられたモノの数々に、多くのファンはこのように嘆息したはずだ。「これはまるで『いないのはボウイ本人ばかりなり』という展覧会じゃないか」と。そして言うなれば、本作『ムーンエイジ・デイドリーム』は、「その逆をとった」ものなのだ。つまり「ボウイの語り」によって、彼自身の「頭のなか」に入っていくような作りとなっている。だから膨大なるイメージの奔流は、もしかしたら「彼が思い浮かべたまま」のものなのかもしれない!——のだ。

本作におけるボウイの「語り」の内容は、多岐にわたっているようでいて、じつはそうでもない。おもに自らの音楽、その芸術のありようについて、いろんな角度から語っているものをピックアップして編集し、監督は映画を進行させていく。なぜいつも「ペルソナ」を付けては、架空性の高いキャラクターを演じるのか? 本当の自分を人目に晒すのは、嫌なのか?――といった、彼の表現の核心部分に触れる問いへの「答え」ですら、驚くほど素直にすらすらと出てくる。さらにそれから、個人と「宇宙」との関わりの追求。「生命」の礼賛。自らが「仮面」を被ることによって、受け手の「鏡」となれること……などなど、ちょっとこれは、僕としてはボウイの語り部分だけでも完璧にテキストに起こして、手元に持っておきたいほどの「本質的」吐露が、まさにてんこ盛りとなっている一作なのだ。

そしてこの「語り」をベースに、ボウイ各時代の、まさに「ケレン」に満ちたパフォーマンス映像やフッテージを詰めに詰めては「メガミックス」したものが、本作の全体像となる。だから当然、教科書通りのドキュメンタリーのように、時系列に沿って事物を並べるとか、ナレーターやテロップが説明するとかは、もちろん一切ない。ただただ「ボウイが語り、映像と音が炸裂し、監督がどえらい編集でキメる」という、そんな映画となっているわけだ。ここが「わかりにくい」と思ってしまう人も、いるかもしれない。しかしブルース・リーの教えではないが「考えるな、感じるのだ」という映画こそが、本作なのだ。だからあなたも「感じれば」いい。

永遠なるスターマンからの通信なのだ

といった点で、まさに「体験」するようにして相対すべき映画が本作だと僕は考えるので、今回のふたつの鑑賞では、IMAXレーザーのほうに軍配を上げたい。海外での上映もIMAXを基本としているので、来春の日本公開でも、ぜひともIMAXを基本にしてもらいたい。とにもかくにも「没入して」そして理性ではなく、感性および肉体そのもので「打ちのめされるようにして」体験すべき一作がこれだと僕は思うから。

いま僕は「教養としてのパンク・ロック」という連載原稿を週一ペースで発表しているのだが、調べれば調べるほど、パンク・ロッカーたちに、そのあとのポスト・パンクの連中たちにも「ボウイの影響」が大きいことに驚かされている。彼が音楽的に、あるいは芸術的な意味で「先駆者」だったことはもちろん、もっと巨大な、哲学的な見地からの「ボウイ道」が、明確に後進たちの指針となっているのだ。そうなった最大の理由を僕は、彼の隠しもしない「切実さ」の表出のなかに見る。宇宙人ジギー・スターダストの「孤独」のなかに見る。

たとえばボウイの存在とは、いかに恵まれない出自だったとしても「ロックンロールは、芸術は『きみ』を差別しない」という真実を発見するための装置となっている、のかもしれない。もしくは、いかなる逆境にあろうが、屈託なく「面白そうな芸術」へと没頭していく、清い心から生じる遊戯の連続のごとき人生を夢見るという意味での「希望の星」なのかもしれない。

ボウイの芸術的な精神とは、すべての命の源である太陽のようなものではなく、その反照である月の輝きめいたものだった、のかもしれない。しかし暗闇のなかでなお、光をたたえているその状態こそが、いかにこの我々、とるに足らないろくでなし(Young Dudes)にとって無二の指針たり得たのか、この『ムーンエイジ・デイドリーム』は如実に示してくれるのだ。いまでも、そしてこれからもずっと、新月や月食であっても、それは間違いなく変わらず、夜毎に天にあり続けるものなのだから。

『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』

2023 年春、TOHO シネマズ シャンテ、渋谷シネクイントほか全国公開

(C)2022 STARMAN PRODUCTIONS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

監督・脚本・編集・製作:ブレット・モーゲン

出演:デヴィッド・ボウイ

2022 年 /ドイツ・アメリカ/カラー/スコープサイズ/英語/原題:MOONAGE DAYDREAM/135 分 /

配給:パルコ ユニバーサル映画

作家。小説執筆および米英のポップ/ロック音楽に連動する文化やライフスタイルを研究。近著に長篇小説『素浪人刑事 東京のふたつの城』、音楽書『教養としてのパンク・ロック』など。88年、ロック雑誌〈ロッキング・オン〉にてデビュー。93年、インディー・マガジン〈米国音楽〉を創刊。レコード・プロデュース作品も多数。2010年より、ビームスが発行する文芸誌〈インザシティ〉に参加。そのほかの著書に長篇小説『東京フールズゴールド』、『僕と魚のブルーズ 評伝フィッシュマンズ』、教養シリーズ『ロック名盤ベスト100』『名曲ベスト100』、『日本のロック名盤ベスト100』など。

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