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「父に教わった“我慢”という言葉」ある日系米国人の証言 ─ 強制収容の記憶 あれから82年

安部かすみニューヨーク在住ジャーナリスト、編集者
カリフォルニア州の日系人強制収容所跡地で。(写真:家族提供)

米「マンザナー強制収容所」で育った3人の少年 ─ その後

日本は今年、終戦79年を迎える。

太平洋戦争は83年前の1941年12月7日(日本時間の8日)、旧日本陸軍によるマレー半島奇襲上陸、および旧日本海軍による真珠湾攻撃により開戦した。アメリカでは西海岸を中心に国家安全保障に対する不安が高まり、2ヵ月半後の42年2月19日、当時のルーズベルト大統領によって「大統領令9066号(Executive Order 9066)」が発令された。

これはつまり日系人の強制収容を意味した。

日系人を対象に、1942年4月7日正午が期限の「立ち退き命令」の掲示。同年4月11日、サンフランシスコにて。出典:National Archives
日系人を対象に、1942年4月7日正午が期限の「立ち退き命令」の掲示。同年4月11日、サンフランシスコにて。出典:National Archives

同大統領令の権限に基づき同年3月29日、主に西海岸の日系人(日本生まれの一世ほか、アメリカ生まれの二世以降含む)を対象にした強制隔離措置が開始された。米独立系政府組織ナショナルアーカイブの情報によれば、それはたったの48時間前通告で行われ、命令に従わなければ軽犯罪者として逮捕、拘留するというものだった。

詳細
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強制収容所の建設は急ピッチで進められ、西海岸を中心に全10箇所作られた。

コレマツ氏のように強制収容を最後まで拒んだ日系人は少数派で、多くの日系人は国の命令に余儀なく従った。彼らは自宅、農場、会社など私的財産を没収され、Relocation Centers(移転センター)やAssembly Centers(集会所)などという名の収容施設に、同年3月末から8月にかけて移送、隔離された。

アイダホ州ミニドカ強制収容所に到着した日系人と衣類などの荷物(1942年8月17日)。写真:Francis Stewart from National Archives
アイダホ州ミニドカ強制収容所に到着した日系人と衣類などの荷物(1942年8月17日)。写真:Francis Stewart from National Archives

同年8月までに各収容所に送られたのは約11万2000人、最終的には12万人以上の日系人が対象となった。うち3分の2に当たる約7万人はアメリカ生まれの市民だった。

1943年6月、ワイオミング州ハートマウンテン強制収容所内の高校生たち。バラックと呼ばれる小屋の中が教室だった。出典:National Archives
1943年6月、ワイオミング州ハートマウンテン強制収容所内の高校生たち。バラックと呼ばれる小屋の中が教室だった。出典:National Archives

Images of Internment: Dorothea Lange's World War II photos

ある日系人の証言

日系アメリカ人、大岡正明(Masaaki Ooka、通称Mas)さんも強制収容の対象となった一人だ。

彼は1946年に収容所から解放された後、冶金エンジニア職に就き、32歳の時に日系三世のダイアン・タケウチ(Dianne Takeuchi)さんと結婚。2男2女をもうけ孫が8人。90歳になる今、夫婦でハワイ島に住んでいる。

正明(Mas)さんは1934年、大岡家の長男としてカリフォルニア州ロサンゼルスで誕生した。彼の父親、菊夫さんは出稼ぎでアメリカに移住後、ロサンゼルスで農産物の卸売会社を営むまでに成功していた。30人弱の従業員を雇うほど軌道に乗った事業だったが、創業から4年後に会社を没収され一家で収容施設に入れられた。

正明(Mas)さんは当時、8歳だった。

「母親が前年に亡くなったので父と妹の3人でバスに乗せられ、到着したのは競馬場(カリフォルニア州サンタアニタパーク競馬場)でした。収容所の準備が整うまでの仮の収容施設として、そのような急場凌ぎの厩舎の馬房に入れられたのです。そこは馬の糞尿の匂いが充満して汚く、ベッドや寝袋が支給されたかは覚えていませんが、地面に寝かされたことだけは覚えています」

想像してみてほしい。
あなたは善良な市民で、何も犯罪など犯していない。
なのに「日本にルーツがある」というただそれだけの理由で
ほかの日本人と一緒に拘束され
今晩から不潔極まりない馬小屋で寝るようになったら...?

大岡家がその後しばらくして移されたのが、マンザナー強制収容所だった。政府が収容所を作るにあたっては、もともと人が住まないような地理的に過酷な土地が選ばれた。

「夏は暑く強風が吹き荒れる。冬は非常に寒い。たまに積雪や竜巻もあった。サソリやヘビなど野生動物も出没するような環境だった」

カリフォルニア州マンザナー強制収容所跡地。
カリフォルニア州マンザナー強制収容所跡地。写真:ロイター/アフロ

「父は大工として毎日働いていたので家のことは全部自分でやらなければならなかった。食事は食堂で出されたが、そのほか洗濯や掃除など家事全般は私がやった。日系二世の亡き母と違い、日本語がメイン言語の一世の父親とのコミュニケーションは難しかったけど、その父からある日本的美学を教えてもらった。それが『我慢』という言葉です」

バラックと呼ばれる家族ごとに割り当てられた小屋はマッチ箱のごとく狭かった。建て付けが悪く、風が吹けば砂埃が隙間風と共に室内に吹き込んだ。共同の風呂やトイレは別の長屋にあった。トイレは男女別だが中に入ると個々の仕切りがない、いわばプライバシーがまったくない状態。

彼は11歳までの3年間をそのような環境で過ごした。普段は英語の授業のほか、家事が終わると友人とバスケットボールやビー玉、ドッジボールをして過ごした。

「一度塀の近くにいた時に監視をしていた軍の兵士から銃を発砲されたことがありました。警告として」

弾は外れ、大事には至らなかった。

大岡正明さん(左)。2023年ニューヨーク市内のジャパンパレードにて。右は家族同士の繋がりがある日系三世の古本武司さん(後述)。(c) Kasumi Abe
大岡正明さん(左)。2023年ニューヨーク市内のジャパンパレードにて。右は家族同士の繋がりがある日系三世の古本武司さん(後述)。(c) Kasumi Abe

日系人の強制収容に関しては、幼かった正明(Mas)さんにとって一体何が起こっているのか飲み込めず、「とりあえず置かれた環境を受け入れるしかなかった」。片や、せっかく築いた事業と財産をすべて奪われ、妻に先立たれ2人の子を男手一つで育て上げた父・菊夫さんの苦労たるやいかばかりか ─ 。

戦後、70年代になると日系人によるリドレス(戦後の救済補償)運動が起こり、アメリカ政府は日系人強制収容の過ちを認めた。88年のレーガン政権下で人権擁護法(Civil Liberties Act of 1988)に署名。日系人の全生存者と遺族に大統領からの謝罪文が送られ、一人当たり補償金2万ドルが支払われた。

「父の物語をドキュメンタリー映像に」

正明(Mas)さんの収容所での記憶は2017年、短編フィルムになり世に出ることになった。『Three Boys Manzanar』(スリーボーイズ・マンザナー)というドキュメンタリー作品だ。

正明(Mas)さんの収容所時代の2人の親友、ブルース・サンスイさんおよびボブ・タカモトさんと70年後にマンザナー収容所跡地で再会するストーリー。次女タミコ・オオオカさんが父を跡地に連れて行くことを思いつき、長女アケミ・オオオカさんがエグゼクティブ・プロデューサーとして映像化した。

この作品は2022年、エミー賞の一つである「第51回北カリフォルニア地域エミー賞」のニュース/短編部門で最優秀賞を受賞した。

70年後に収容所跡地で再会を果たした3人。現在ここはマンザナー国立史跡(Manzanar National Historic Site)として国が管理、保存している。(c) Julie Mikos
70年後に収容所跡地で再会を果たした3人。現在ここはマンザナー国立史跡(Manzanar National Historic Site)として国が管理、保存している。(c) Julie Mikos

「2人の友人にずっと会いたくて探していたんだ。特にブルースとは収容所でも隣同士だったからね。共通の友人にあたったり、娘がホワイトページズ(オンラインのデータベース)で探したりして彼らの居場所がわかった。ボブはロサンゼルスにいて、ブルースはなんと私が住むハワイ島内にいました。私はなるべく目立ちたくない性格なので、カメラの前で自分の話をするのは苦手だった。だけど子どもたちが私に、日系人の語り部が減少している今、実体験を語り継ぐことが重要だと背中を押してくれたんです。親友との再会はそれはエキサイティングなことで会えた時は感極まりました」(正明さん)

「70年も時が経てば忘れているものもあります。しかし実際にその場所に行くことによって蘇る記憶というのもたくさんありました。例えば父自身が忘れていたのですが、収容所内で秘密裏に穴を掘って地下空間を作り、そこで彼らはゲームをして遊んでいたんです。撮影のために跡地を訪れた時に土地に凹みがあるのに気づき、昔作った秘密基地を思い出したのでした」(アケミさん)

2022年エミー賞授賞式にて。左は父の体験を映像にまとめた長女アケミさん。右は次女タミコさん。(写真:家族提供)
2022年エミー賞授賞式にて。左は父の体験を映像にまとめた長女アケミさん。右は次女タミコさん。(写真:家族提供)

運命とも言える74年後の「出会い」

正明(Mas)さんの父、菊夫さんが会社を興し成功していたというのは既述の通りだが、この話には続きがある。

強制収容で事業を失ってしまった菊夫さんだが、1938年の創業から74年の時を経て「孫」と「同僚の息子」が運命的な出会いを果たす。

菊夫さんの孫(正明さんの次女)、タミコさんはこのように回想する。

「2012年、私はニュージャージー州でプロパティマネージメント(資産管理)の仕事をしていました。日系のある不動産会社が昔から知名度が高く知られていたので、ある日この会社に営業で訪ねてみることにしました。そうしたら奥様が私の名刺の苗字『Ooka』を見て、夫に会ってほしいと言うのです」

夫とは、不動産業を営む日系三世の古本武司(Takeshi TAK Furumoto)さんだ。タミコさんは翌日再びオフィスに足を運び、古本さんから1枚の古い写真を見せられた。そこには、タミコさんの祖父が創業した会社の前で、祖父と古本さんの父が肩を並べていた。

「私はその写真を見て驚きました。2人はビジネスパートナーとして、昔一緒に働いていたのです。そして私が子どものころ、大岡家と古本家が再会していたことも思い出しました」

矢印の左が正明さんの父・菊夫さん。右が古本さんの父・清人さん。2人はビジネスパートナーとして事業を営んでいた。(写真:古本武司さん提供)
矢印の左が正明さんの父・菊夫さん。右が古本さんの父・清人さん。2人はビジネスパートナーとして事業を営んでいた。(写真:古本武司さん提供)

この再会について、古本さんはこのように振り返る。

「私の妻キャロルは私の父のビジネスパートナーが『大岡』さんだと知っていたので、オフィスで出迎えたタミコさんの苗字を見てもしやと思い、翌日タミコさんを再び招待したのです。そして私は彼女に古い写真を見せました。彼女は『おじいさんだ!』と言いました」

長年の時を経て再び運命が交差した2ファミリー。今度は彼らの子孫が再び交わり、力を合わせようとしている ─ 。

古本さんが長年手がける事業「古本不動産」は今年、創業から半世紀を迎える。70代後半に差し掛かる古本さんは数年かけ後継者を探していた。そして86年前に両家がビジネスパートナーになったように、自身の事業のパートナーについても「タミコさんが最適任者だと思った」と古本さん。こうして昨年4月よりタミコさんは古本さんの下で働くことになった。現在は後継者になるためのトレーニングの真っ最中だ。

また古本さんは不動産事業のほか、謂れの無い不当な拘束をされた日系人の歴史を若い世代に伝える活動にも尽力しており、タミコさんもそんな古本さんの活動に共鳴し、力を合わせている。

「塵も積もれば山となるという言葉通り、小さくても地道な努力の積み重ねで大きな結果が導かれると信じています。史実を伝え続け、歴史の間違いを二度と繰り返さないことこそが大切だと思っています」(タミコさん)

「昨年夫婦で日本を旅した時、ドキュメンタリー『Three Boys Manzanar』を観たという人と話しました。彼らによると第二次大戦中に日系人がどのような扱いを受けてきたかは、日本でそれほど知られていないということでした。このような機会に同じルーツを持つ日系人に何があったのかを少しでも知ってもらえたらと思います」(正明さん)

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  • トップ写真:2016年、マンザナー強制収容所で育った3人の少年が70年の時を経て、同じ場所で再会を果たした。

(Interview and text by Kasumi Abe)  無断転載禁止

ニューヨーク在住ジャーナリスト、編集者

米国務省外国記者組織所属のジャーナリスト。雑誌、ラジオ、テレビ、オンラインメディアを通し、米最新事情やトレンドを「現地発」で届けている。日本の出版社で雑誌編集者、有名アーティストのインタビュアー、ガイドブック編集長を経て、2002年活動拠点をN.Y.に移す。N.Y.の出版社でシニアエディターとして街ネタ、トレンド、環境・社会問題を取材。日米で計13年半の正社員編集者・記者経験を経て、2014年アメリカで独立。著書「NYのクリエイティブ地区ブルックリンへ」イカロス出版。福岡県生まれ

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