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日本人に間違われ「動物以下の扱いで」殺されたヴィンセント・チン事件(’82)── 全米アジア人差別

安部かすみニューヨーク在住ジャーナリスト、編集者
全米中で起きているアジア系への暴力や嫌がらせ。23日、オークランド市の抗議集会。(写真:ロイター/アフロ)

80年代版「ストップ・アジアン・ヘイト」「ストップ・AAPI・ヘイト」「アジアン・ライブズ・マター」

この機会に思い出してほしい、中国系青年の悲劇

「日本人だから関係ない」ではない

アメリカでは、アジア系の人々をターゲットにした嫌がらせ、偏見、中傷、暴行、差別が毎日のように起きている。日系、中国系、韓国系、フィリピン系など民族に拘らず、アジア系というだけでストレスのはけ口となったり事件に巻き込まれるケースが多い。

報道を見て「中国人のことか」と思うかもしれないが、日本人とて他人事ではない。そもそも地球規模で見れば、日本人も中国人も大差はない(私たちがプエルトリコ人とドミニカ共和国人を見分けられないのと同じ)。多くの国々では、差別のニュアンスを含まずにアジア系を十把一絡げで「チャイニーズ」と呼ぶ傾向がある。日本の古い世代の人が「白人=アメリカ人、黒人=アフリカ人」と見なすのと同じ感覚だ。

アジア系の人々へのヘイトが急増する今、多くの人が知らない悲劇をここで改めて振り返る。

「ヴィンセント・チン殺人事件」

39年前ミシガン州で、日本人に間違えられた中国系アメリカ人の青年が、冷酷に殺害された。事件当時を知る、日系アメリカ人三世にも話を聞いた。

事件のあらすじ

中国生まれのヴィンセント・チン(Vincent Chin)さん(享年27歳)は、幼いころ養子としてアメリカに渡り、養父母の下ミシガン州で育った。自身の結婚式が数日後に迫った1982年6月19日、デトロイトにほど近いハイランドパークのストリップクラブで、独身最後となるバチェラーパーティーを友人らと楽しんでいた。

  • 編注:アメリカでは結婚式前、ストリップクラブで独身最後の夜を男同士で楽しむ慣習がある。

  • もし生きていたら、チンさんは66歳になる。

そこには、クライスラーの工場で働いていたロナルド・エベンスと、自動車工場の仕事をレイオフされた義理の息子、マイケル・ニッツという、2人の白人男性も遊びに来ていた。その夜、チンさんと見知らぬこの2人はひょんなことから言い争いとなり、喧嘩はエスカレートしていった。

その場ではいったん収拾がついたものの、2人はチンさんの行方を追って街中を執拗に探し回った。そしてファストフード店の駐車場でチンさんを見つけ、ニッツがチンさんを羽交い締めにし、エベンスが野球バットを取り出し、チンさんの頭部を繰り返し殴打した。

脳死状態となったチンさんは搬送先の病院で幼馴染の看護師に治療を受けたが、頭部は「これほどの負傷を見たことがないほど酷い」状態だったという。その4日後の23日、チンさんは亡くなった。

  • 1987年のドキュメンタリーフィルム『Who Killed Vincent Chin』(誰がビンセント・チンを殺したか?)予告編。「まるで野球選手がホームランを打つ時のように、フルスイングで頭部を何度も殴っていた」と目撃した非番の警官の証言などを聞くと、犯人にレイシャルアニマス(人種的な敵意)と強い殺意があったことがわかる。

80年代、反日感情が高まっていた

80年代、アメリカは不況の真っ只中だった。日米自動車摩擦が激化し、日本の安価で性能の良い車がアメリカ市場へ流入したことでビッグスリーの衰退を加速させた。オイルショックもあり失業者が増加。自動車産業で繁栄したデトロイトではジャパンバッシング(反日感情)が起こり、日本のみならずアジア系全体に対して苛立ちや恨みなど反アジア感情が高まっていた。

自動車産業の仕事に従事していた2人にとっても、アジア系は目障りだったのだろう。チンさんを日本人だと思い込んだ2人は「お前のような小さな●●(罵り言葉)のせいで、多くのアメリカ人が仕事を失ったんだ」という言葉を吐き捨て、それにより喧嘩がエスカレートしたと伝えられている。

バチェラーパーティーにいたチンさんの友人、ゲイリー・コイブさんの証言。「ヴィンセントは日本人ではなく中国人だが、犯人にとってその違いはどうでも良かったようだ。アジア系には変わりないので」と当時を振り返った。

いつの時代も、同じことが起こっている

「いつの時代も、同じことが起こっている。なぜか?それはこの国で生まれ育っても見た目が違うからです」と言うのは、ミシガン州の弁護士で日系アメリカ人3世のジェームズ・シモウラ(James Shimoura)さん。シモウラさんは地元で起こったチンさんの事件にいてもたってもおられず、事件当時アジア系コミュニティをアシストした1人だ。

シモウラ家は祖父が仕事の関係で、1914年に徳島からミシガンへ渡米。母方はサンフランシスコ・ベイエリアで農業に従事していた。その後第二次世界大戦が始まり、家族や親族は日系人強制収容所に入れられるなど、辛い時代を生き抜いて来た。

「日本人というだけで突然ある日、農地、自宅、財産をすべて奪われ強制的に収容所に入れられたのです」とシモウラさん。

「この日系人強制収容のほかに、過去には中国系移民排斥法もありました。日米貿易摩擦下でのチンさんの事件、パンデミックによる反アジア感情、さらについ最近アトランタのマッサージ店で発生した乱射事件など、背景にあるものはすべて繋がっています。ウィットマー知事(民主党)誘拐未遂事件もあったように、今でもネオナチや白人至上主義は存在し、全米どこでも起こりうることです」

チンさん事件が起こった80年代は、アジア系にとってとりわけ難しい時代だったという。その凄惨な殺害方法はもとより、司法組織によりアジア系の命が軽んじられた。

弁護士として当時、地元のアジア系コミュニティをアシストした日系3世のジェームズ・シモウラさん。祖父母は徳島、神戸、熊本にルーツがある。(写真は本人提供)
弁護士として当時、地元のアジア系コミュニティをアシストした日系3世のジェームズ・シモウラさん。祖父母は徳島、神戸、熊本にルーツがある。(写真は本人提供)

犯人は逮捕、拘留されたが・・・

証言者もいたため、犯人2人は現場で逮捕され拘留された。郡裁判所での第一審の判決で、エベンス被告は第二級殺人罪で起訴(ニッツは無罪)となった。しかし後に、有罪判決は過失致死罪となった。懲役刑ではなく3年間の保護観察処分、そしてわずか3780ドル(当時の価値で約70万円程度)の支払いが命じられただけだった。チャールズ・カウフマン巡回裁判官が放った言葉は、こうだった。「2人は前科もないし、刑務所に入るような類の人たちではない…」。

人を残虐に殺しておいて、下された刑罰はこの程度だった。この理不尽な処遇に対して、全米のアジア系の人々は憤慨し、立ち上がった。

  • 80年代の#StopAsianHate, #StopAAPIHate運動。

アジア人の命はそんなに軽いのか?

「チンさん事件の判決は、司法組織による動物以下の扱われ方です」とシモウラさん。

命を軽んじられたことで、ミシガンのみならず全米のアジア系の人々による大きな抗議運動に発展した。

「モダンヒストリーにおいて初めて、全米のアジア系が一体となる公民権運動となりました」(シモウラさん)

当時アジア系の弁護士や政治家は少なかったが、コミュニティの中では皆、互いを知っていた。共に団結し、事件の背景に「被害者の人種、肌の色、出身国に絡んだ動機」があったこと、いわゆるヘイトクライムであると訴えた。この動きにより、デトロイトでは非営利公民権団体、アメリカ正義市民団体(American Citizens for Justice)が結成され、正義のために闘った。

84年には連邦公民権訴訟に発展させることができ、エベンス被告は第二級殺人罪の有罪判決となり25年の懲役刑が下され、ニッツ被告も有罪になった。しかし3年後、有罪判決は覆された。

「2回目の裁判は残念ながら、より保守的なオハイオ州シンシナティに移された。同地ではこの事件に対する温度差があり、事情をよくわかっていない陪審員によって公正な審理が行われるはずもない。すべての容疑は取り下げられ、無罪となったのです」

民事訴訟は法廷外で和解し、エベンスは150万ドル、ニッツは5万ドルの支払いを命じられたが、弁護士を利用して財産を隠すなどし、今もその支払いは済んでいない。NBCニュースも「2人は刑務所に入っていない。エベンスはチン・エステートに対して800万ドル以上の債務を負っている」と報じている。

これらの事件をきっかけに、ヘイトクライムが社会問題化された。今でこそ犯罪の等級を上げたり刑期を延長できるなどの厳罰を科すことができるヘイトクライム法(Hate Crime Laws)は存在する。しかしチンさんの事件が起こったのはその法律ができる前だったため、公民権侵害で起訴するしかなく、判決がここまで不条理なものとなったのだ。

日系アメリカ人としての経験談

シモウラさんが生まれたのは、終戦から8年後の1953年。反日の雰囲気は根強く残っており、60年代後半まで渦巻いていたという。

「幼いころは(日本人として)からかわれたり喧嘩やトラブルに巻き込まれたりすることも多かったです。高校でやっと学友に恵まれました」。学校はユダヤ系の人々が80%近くを占めていた。彼らの中には何人も親戚をホロコーストで亡くしており(同じような辛い体験を)共感し合うことができた。

大学を卒業したのは78年。有色人種には就職の面で大きな障壁があり、自由に仕事を選べる状態ではなかったという。ことさら弁護士ともなると狭き門だった。「今でこそ、アジア諸国はアメリカと貿易面で強固に結ばれているので、大手弁護士事務所はバイリンガルのアジア系弁護士をたくさん抱えています。しかし当時の大手はアジア系を雇わなかったし、州全体でもアジア系弁護士はたった20人程度でした」。

もしもチンさんが白人だったら・・・?

もしもチンさんが白人であれば、という質問に対して「違う結果になったと思います」とシモウラさんは断言する。「そして、もしチンさんが白人を殺した逆の立場であれば、必ずや刑務所に送られたことでしょう。またもし容疑者や被害者が黒人の場合も、司法制度で(白人とは)異なる扱いを受けます」。

前述の通り、有色人種が直面している問題はすべて繋がっている。アトランタで起きた乱射事件もBLMムーブメントのきっかけとなった数々の事件や背景も、大きな相違はない。

アメリカでは29日、ジョージ・フロイドさんを殺害した白人の元警官、デレク・ショーヴィン被告(保釈金約1億600万円程度で保釈中)の審理が始まった。21世紀のアメリカの司法が、この事件に対してどのような判決を下すことになるだろうか。

アトランタの事件の容疑者は性依存症と報道されているが、私は人種的な敵意があったと思います。メディアの映し出し方にしても、アジア女性を人ではなく性的オブジェクトや何か奴隷みたいなものとする傾向がある。保安官は記者会見で『容疑者にとって悪い日だった』と発言しました。悪い日なのは犠牲者にとってであり、8人を殺しておいてそんな言葉がありますか?人間は見た目で判断されたり違うように扱われたりするべきではありません。今は2021年です。19世紀を生きているわけではありません」

この国が変わるためには何が必要なのか?シモウラさんは最後にこのように語った。

「この国でアジア系の移民が始まって150年も経つのにまだバリアがあります。いまだに差別がなくならないのは、1つは無知だからです。高校の教科書にしても十分に歴史を紹介しているとはいえません。国単位ではなく、学校単位で変わる必要があります」

(Interview and text by Kasumi Abe)無断転載禁止

ニューヨーク在住ジャーナリスト、編集者

米国務省外国記者組織所属のジャーナリスト。雑誌、ラジオ、テレビ、オンラインメディアを通し、米最新事情やトレンドを「現地発」で届けている。日本の出版社で雑誌編集者、有名アーティストのインタビュアー、ガイドブック編集長を経て、2002年活動拠点をN.Y.に移す。N.Y.の出版社でシニアエディターとして街ネタ、トレンド、環境・社会問題を取材。日米で計13年半の正社員編集者・記者経験を経て、2014年アメリカで独立。著書「NYのクリエイティブ地区ブルックリンへ」イカロス出版。福岡県生まれ

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