被災地に行っても僕には何もできませんでした──ボクシング元世界王者・長谷川穂積「今だから話せる」13年前の約束 #知り続ける
「蒸し暑い日でした。あのにおいを覚えています」
敗戦の翌月、長谷川の希望がかない、被災地を訪れることになる。 ただ、ジムの会長やジムメートたちとの訪問で違和感の全てを拭い去ることはできなかった。仙台空港に到着すると、テレビ、新聞が長谷川の姿を追った。被災地を巡り、被災した高校生にボクシングの指導を終えると、比較的被害が少なく日常を取り戻しつつあった仙台市内まで車を走らせ十分な食事をとり、ホテルのベッドで眠った。 「喜んでくれた人がいたので、行ってよかったです。ただ、あれを被災地訪問と言うのは、ちょっとちゃうなと……」 その翌月、長谷川は再び被災地を訪ねる。今度はマネージャーとふたりきりで。 仙台空港でレンタカーを借り女川町まで足を延ばした。 「蒸し暑い日でした。テント村と呼ばれる避難所が近くなると、道路はまだデコボコで。津波の影響なのか独特のにおいが鼻をついたのを覚えています」
ボランティアに交じって物資やカレーを配った。ちょうど運動会が行われていたため、リレーのスターターピストルを鳴らす役を務めたりもした。 その後、時間の許す限り、テント村で生活する子どもたちと遊んだ。 「縄跳びやかくれんぼを一緒にしましたね。装っていただけかもしれないですけど、子どもたちはとても元気で。『テントだと暑くて寝れへん!』っておどけながら教えてくれたりもして」 感じたのは子どもたちのたくましさだった。 「テント村での生活は不自由で、中には大切な人を亡くした子もいたと思うんです。僕自身、震災半年前に母を亡くしていたんですが、震災で大切な人を失った人たちと僕とでは全く違う。僕は母の生前最後の試合で負けています。当時は自分を責めもしましたが、時間が経つにつれ、あの敗戦は神様からのプレゼントだったと思えました。負けたおかげで、毎日母の病室に足を運び、できる限り寄り添うことができた。その間、僕自身の心の準備もできた。でも震災は前触れなく襲ってきた。震災で愛する人を亡くした人たちと僕とでは、心の傷が全く違う」