被災地に行っても僕には何もできませんでした──ボクシング元世界王者・長谷川穂積「今だから話せる」13年前の約束 #知り続ける
“頑張れ日本”に違和感
戦う意味を模索する長谷川を尻目にジョニー・ゴンサレス(メキシコ)との防衛戦が決まる。開催日は2011年4月8日。東日本大震災が起こったのは、長谷川がもう一度奮い立とうとする、そんなタイミングだった。 「テレビで津波が人や町をのみ込む映像を見ました。『早く逃げて!』『助けて!』と叫ぶ声が、あまりにショックで耳から離れなくて」 長谷川の心は揺れた。 「こんな時にボクシングの試合をやるべきなのか?」 激しいトレーニングで体を追い込むも、心は対戦相手ではなく東北を向いていた。 「現地に行ったとしても、きっと僕ができることなんて何もない。それでも被災地に行って、少しでも何か役に立ちたかった」 今すぐ被災地へ発ちたかった。しかし、防衛戦が決まっている以上、それはかなわない。せめてできることをと、長谷川が住む神戸でも一時品薄となった水をどうにか手に入れ、被災地へ送った。
それでも試合が近づくにつれ、芽生えた違和感は大きくなっていった。 「“被災地に勇気を”が興行のテーマになって。ただ、あれほどの被害を被った人たちが試合を見られるわけがない。見られたとしても大切な家族や友人を亡くした人たちが、住む家すら失くした人たちが、ボクシングを見て『勇気をありがとう』とはなるはずないと思ったんです」 トランクスには“頑張れ日本”のロゴが刺繍されることも決まった。ただ、長谷川にとって、その刺繍は違和感をより増幅させるものでしかなかった。 4ラウンド、長谷川はあっけなくゴンサレスの右フックに沈む。 「最後はバーンと倒されて負けて。ただ全く悔しくなかった。『ようやく被災地に行ける』とすら思えた。プロとしてダメなんですよ。プロは絶対に勝たなダメ。例えば井上(尚弥)くんが同じ状況で、あんな試合するかといったらしないはず。僕はプロボクサーとして一流にはなれたかもしれない。でも超一流ではなかった」