江戸時代は日本の「近代」の始まり? 新しい歴史観から見えてくるもの
連続的に考える効用
江戸から明治そして現代までを連続的に考えることによって、近代主義的な歴史観に柔軟性が生まれるのではないか。 地球温暖化によってカーボンニュートラル(脱炭素)が叫ばれる今日、江戸期の日本はサステナブルな社会として再評価されることになるだろう。産業革命前のヨーロッパは、カーボンニュートラルではあったものの、16世紀以来、他の地域からの収奪によってその経済が成り立っていた。これに対して江戸時代の日本は、国内で完結する循環型の社会であった。 また、江戸を近代とすることによって、単に欧米を追ったのではない日本独自の近代について考えることが可能となる。古代には中国文化の影響を強く受け、明治以後には欧米文化の影響を強く受けたのであるが、日本の歴史の中核には長い武家社会があり、その文化のある部分は現代にもつながっているはずだ。近代日本文化を中国からも欧米からも独立したものとして考えたい。 さらに、国家体制の変革を連続的に考えることができる。近代日本には、江戸幕府の成立、享保の改革、寛政の改革、天保の改革、明治維新、西南戦争、日露戦争、満州事変、太平洋戦争、安保闘争、大学紛争、中曽根改革、小泉改革などの変革があった。江戸幕府の成立と明治維新と太平洋戦争の敗戦は「革命的大変革」であり多くの血が流れた。それ以外の戦争、事変、改革は、程度の差こそあれ「体制内小変革」であった。この国は、常に改革を続けなければ、島国の安穏に溺れて、社会システムが錆びついてしまう傾向がある。体制内小改革に失敗すれば、いずれは革命的大変革に直面することになるだろう。 そして、現在の日本社会の欠点にも光が当てられる。福沢諭吉は『福翁自伝』の中でサムライ社会の形式主義を痛烈に批判しているが、コロナ対応で見えてきた日本の公的システムの腐食は、末期の江戸幕府を思わせるのだ。革命的大変革とまではいかずとも、かなりの体制内小改革が必要な気がする。 行き詰まったときに視野を広く取ることは有効なものだ。日本の近代を長期的にとらえることが、大きな政治決断と国民の意識の変化につながる可能性もあるだろう。繰り返しになるが、今の日本は、単なる行政の改革を超えて、腰を据えた国民の意識改革を必要としているような気がする。 僕の周りで、ワクチンの開発ができず、その輸入も遅れたことから「日本は先進国じゃなかった」という人は少なくない。意識改革がすべての始まりだ。この国は必ず復活する。