安土城天主を築いた織田信長という「アバンギャルド(前衛)」
織田信長が約3年の歳月をかけて完成させたという安土城。当時の日本最高の技術を結集して築かれたといわれていますが、家臣の明智光秀が起こした本能寺の変のすぐ後に焼失してしまいました。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、「安土城天主には明らかに西洋建築の影響が見られる」と指摘し、「現存していればまちがいなく世界遺産となったであろう」といいます。若山氏が独自の視点から論じます。
天守閣建築
最近はあまり聞かないが「アバンギャルド(前衛)」という言葉は、少し前の芸術の世界では大きな価値をもっていた。芸術家は常に時代の先端を走っているべきだと考えられていたからである。 前回、この欄で織田信長を「世界と科学を意識した近代人」と称したのだが、文化論的にいえば、彼の功績のひとつは、安土城天主という、かつてない前衛的な建築を築いたことである。 いわゆる天守閣(一般には「天守」だが安土城に限っては「天主」を使う)のような建築は、日本建築史において、安土桃山から江戸初期までのきわめて短い時期に出現したものだ。仏寺の様式としての和様、唐様、大仏様、神社の様式としての神明造、大社造、住宅の様式としての寝殿造、書院造、あるいは数寄屋(茶室)といった、日本の風土に即した木造建築様式の主流からは外れた特殊なものといえる。 高層という点では五重塔に近く、塗籠(ぬりごめ)という点では蔵に近いが、それが南蛮文化と接触した時期に登場したことは、五重塔とは異なり高層部に登れること、石造煉瓦造に近い難燃性、高大さによる象徴性などの点で、ヨーロッパの聖堂建築の影響を感じ取っても不思議ではない。そのプロトタイプ=原型が、信長がつくった安土城天主なのだ。
安土城復元
『信長公記』ほか多くの文献史料と、静嘉堂文庫に残る池上家(加賀藩作事奉行)の文書『天守指図』と、安土山遺構の詳しい実地調査から、安土城天主を復元したのは、名古屋工業大学の教授であった故内藤昌博士である。同じ職場にいた僕にとって厳密には母校の先輩であるが、日本建築史においては師匠格である。発想は豊かで実証と論理は厳密で、研究への情熱はすさまじく、多くの学者から尊敬を集めていた一方、いいかげんな研究には非常に手厳しかったので、人に疎まれる面もあった。 その内藤博士による復元の特徴は、天主中央に存在する4層までの「吹き抜け」で、他の歴史家の異論もあって物議をかもしたところだ。建築家として『天守指図』の平面図を見れば、中央の白い部分が吹き抜けを示すように思われるが、文献史料にはその記述がないのもたしかである。しかしここではこの問題にこだわらない。信長の思想が表れているのはむしろその上階の部分だ。 イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが残した記録が信頼に足ることは前回書いたが、安土城に関する記述を引用しよう。 「真中には、彼らが天守(ママ)と呼ぶ一種の塔があり、我らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。外部では、これらの層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上階はすべて金色となっている。この天守は、他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知るかぎりの最も堅牢で華美な瓦で覆われている」(『完訳フロイス日本史』全12巻・松田毅一、川崎桃太訳・中公文庫) 天主を「塔」と表現していることからも、すでにフロイスが訪れてその様を詳述している岐阜城(安土の前の信長の居城)とは異なる感覚であったことがうかがえる。