「世界」と「科学」を意識した? 「近代世界システム」を生きた織田信長
「科学」と「世界」の認識
そして宣教師たちは、すでに世界各地に到達したイエズス会が獲得していた、さまざまな地域の気候風土と風俗習慣に関する知識を披露した。フロイスの記述からも、イエズス会という集団が有する世界の知識と報告が微に入り細を穿つ客観的で実証的なものであったことは明らかである。 重要なことは、この科学的談話に、日本の学者あるいは宗教者と思われる人物の同席が記されていないことである。つまり信長は、日本人で初めての、そして唯一の、16世紀における世界的かつ科学的な知性に触れた人間ではなかったか。そして彼の直感は、その内容をほぼ正確に理解したと思われる。 信長は「暦」と「天文」の関係を重視した。1582年、本能寺の変の少し前に、暦の件で朝廷に対して一悶着起こしている。日本において「暦」は天皇の大権であり、東洋の知識体系では「陰陽道」に属するもので、安倍晴明で有名な土御門家がその代表的な家であった。信長は日蝕を予言できなかったことから、宣明暦を基とした京暦を関東で使われていた三嶋暦に統一するよう迫ったのだ。これについて、信長が天皇の大権を犯そうとしたと考える向きもあるようだが、その根本にあったのは、占いに近い陰陽道をより合理的と考えられるものに置き換えようとする科学的な精神だったのではないだろうか。
天皇あるいは神になろうとしたわけではない
イエズス会とは、イグナチウス・ロヨラ、フランシスコ・ザビエルなど、パリ大学の同窓生で設立された宗教改革運動(新教)に対抗するカトリック(旧教)側の知的集団で、世界に布教活動し、特に学校建設に力を入れた。日本の上智大学などもその例である。 安土城については別に書きたいと思うが、信長はその建設中に、同じ安土に修道院(セミナリオ=神学校でもあった)の建設を許していたのである。しかもその現場をたびたび訪れている。 「金の飾りこそ持たなかったが、信長が彼の城に用いたのと同じ瓦の使用を、特別な恩典として我らの修道院に許可したことは、他のいかなる者も瓦で屋根を覆うことを許さなかったので、我らが安土山に修道院を建築する目的にいっそうかなうものであった。我らの修道院は高く、三階建てで適度に長かったので、すべての家屋の中で聳え立っていた」(前掲書) つまり信長が築いた安土の街には、安土城とともにこの修道院が、同じ瓦の屋根をもって、他を圧するかたちでそびえたのである。信長の意識の中でも、天主と修道院の建設が並行して進んでいたことがうかがわれる。イエズス会への異様なほどの厚遇は、他のキリシタン大名のような、南蛮貿易の利点あるいは信仰の情熱によるものとは一線を画すべきものと思われる。 そう考えてくると、安土城を築いた信長が、天皇に取って代わろうとしたとか、神になろうとしたとかいう説は、当たらないように思える。むしろ逆だ。彼がイエズス会士たちとの交流によって感じたことは、その信仰が世界認識と自然科学につながるということではないか。信長はそれが、日本人の信仰とはまったく異なるタイプの信仰であることを理解したのだろう。