「世界」と「科学」を意識した? 「近代世界システム」を生きた織田信長
科学的談話
宣教師たちの一行が岐阜城を訪れ、信長が金華山の麓の館を案内したとき(1569年)の記述からは、当時の書院造の様子がよく分かる。そして山城としての金華山を登るときの記述からも、幾重にも整えられた曲輪の様子がよく分かるのだが、僕が注目しているのは、その俗世間を離れたような山の上において行われた談話の内容である。 「彼(信長)は私に、インドにはこのような城があるか、と訊ね、私たちとの談話は二時間半、または三時間も続きましたが、その間彼は四大の性質、日月星辰、寒い国や暑い国の特質、諸国の習俗について質問し、これに対して大いなる満足と喜悦とを示しました」(前掲書・これはフロイスの書簡から取られた部分として「ですます調」となっている) 簡単な記述で、戦いを重視する立場からは見過ごされがちだが、僕はこれを「科学的談話」と呼んで重視している。 「四大」とは仏教的な言い方であるが、その内容は「地(土)、水、火,風(空気)」というこの世を構成する物理学的な要素であり、イエズス会の宣教師たちにとってはアリストテレスの四元素説を意味したことはまちがいない。『万学の祖』と呼ばれたアリストテレスこそは、古代ギリシャの哲学を中世のスコラ哲学につなげる、いわば西洋の知識体系における歴史的中心に位置する。宣教師たちの説明は、エンペドクレス(元素説)やデモクリトス(原子論)のような古代哲学に触れたかもしれないし、また中世アラビアで発達した錬金術的な化学に及んだかもしれない。 日月星辰というのは、太陽と月と星の運行すなわち天文学である。宣教師たちの説明が、古典としてのプトレマイオスから同時代のコペルニクスに及んだことは確実である。なぜなら、すでに聖職者たちのあいだにコペルニクスの地動説は知られていたからだ。 天動説をくつがえす地動説に確信をもったコペルニクスは、すでに1533年にその考え方を教皇(クレメンス7世)に伝え、1536年には枢機卿から賞賛を受け、1543年刊行の主著『天球の回転について』でパウルス3世に宛てた序文を書いている。このパウルス3世こそイエズス会を認可し「教皇の精鋭軍」と呼ばれるほどに重用した人物である。コペルニクスとパウルス3世とイエズス会と織田信長は、直線で結ばれているのだ。